時事解説「ディストピア」

ロシア、イラン、中国等の海外ニュースサイトの記事を紹介します。国内政治、メディア批判の記事もあります。

ロシア詩を伝える難しさ

2014-10-29 00:36:34 | 文学
日本のロシア詩市場をみると、不思議なことに
反ソ連の詩人の作品はやたらと発掘・翻訳されているのに対して、
レールモントフやプーシキンのような君主制に逆らった結果、
皇帝や貴族から迫害された詩人の作品は滅多にない



両名は岩波文庫から一部(全部ではない)の作品が発刊されているから
まだマシな部類だが、ネクラーソフ(農奴制に反対した詩人)や
ラジーシチェフ(同じく農奴制に反対し、皇帝に迫害された詩人)などは
ロシア詩において重要な人物であるにも関わらず、全集もろくにない。



要するに、君主制の批判者(特にプーシキン)は国民的詩人であっても
ろくに翻訳されず、逆にソ連の体制を批判できる詩人はどんなにマイナーでも出版される。


ロシアに限らず、中国や東欧などの旧共産国の翻訳については、万事がこの有様だ。

すべての研究者や翻訳家がそうだとは言わないが、反共に利用できそうな作品を
取り上げる一方で、君主制を否定する(=天皇制の批判につながる内容)作品は冷遇されている。


こういう無意識の阻害がロシア文学にはあるような気がしてならない。


特にソ連の詩人の場合、何でもかんでもスターリンに批判的な人物にされる。
マヤコフスキーなどはその典型で、筆者の知る限り、彼ほど体制に協力した
人物もいないとは思うのだが、小笠原豊樹氏をはじめとした翻訳家、研究者は
彼を抵抗の人物であるかのように演出する。

で、そういう本が右派の読売系列の人間たちによって受賞したりする。
右翼に喜ばれる文学論がどういう政治性を含んでいるのかは言うまでもない。


そういうわけなので、ロシア詩の魅力を伝えるのはかなり難しい。

今年はレールモントフ生誕200周年だが、
この典型的な反封建・反君主制の詩人の作品の新訳が売られる気配は全くない。

これはかなりショックなことだ。とはいえ、愚痴を言っても仕方ないので、
先輩にあたる詩人プーシキンの死を通じて皇帝や貴族を辛辣に批判した
彼の代表作、「詩人の死」を抄訳して筆を置こう。


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詩人は逝った 
栄誉ある囚人は 胸を射たれた 
復讐に燃え高ぶったその頭をうなだれて
名声をそしられながら倒れていった


あまたの侮りと辱しめに
詩人の心は耐え得なかったのだ

彼はかつてのように たった一人で
世間の考えに立ち向かい殺された

殺されたのだ 

大げさな涙や
空々しく讃美する楽隊
そして 悲しげではあるが しどろもどろの弁解が今更何になるだろう? 


運命の審判は下された

彼の自由で勇猛な人格を
あんなにも長い間 虐げていたのは

そっと潜んでいた火の種を いたずらに吹いてみせたのは あなた方ではないか

そうではないのか? 喜びたまえ 

彼は苦悩を そう 最後の苦悩を耐え得なかった

脅威の天才は かまどの火のように消えた
可憐な花の輪はしなびた


~略~

なぜ彼は あたたかな優しさと純朴な友情を離れて
自由な心臓と炎のような熱情にとっては
嫉ましくも息苦しいこの世界に来たのか

なぜ彼は とるにたらない批判者たちに手を差し伸べたのか

なぜ彼は 偽りの言葉と追従を信じたのか

幼い時から 彼は人々の心をよく見抜けたのに


人々はかつての花の冠を取り去り イバラの月桂冠を彼にかぶせた

秘められたイバラは痛々しくも 栄誉ある額を傷つけてしまった

あざけりが好きな連中の猛々しいささやきに
詩人の最期の瞬間は毒された


彼はむなしくも復讐に燃え 期待を欺かれ 
密かな怒りを胸に懐いて死んだ

妙えなる歌のひびきは消えてしまった もう二度と伝わりはしない

詩人の隠れ家はもの憂げで狭く 彼のくちびるは封じられている

さて 卑しい行いで名誉を授かった親たちの末裔よ

楽しみのために もてあそばれた奴隷が
踵で踏みつけた片割れどもよ

皇帝のまわりに群がる 強欲な人々よ

自由を 天才を 栄光を首斬る執行人たちよ

あなた方は 法にまもられ 姿を隠している

あなた方の前では 裁判も真理もみな黙ってしまう

だが 淫蕩に溺れる者よ 

神の裁きは あるのだ

厳しい裁きが待っているのだ


それは黄金のひびきを寄せつけたりはしない

それは思想や行為よりも先のことを知っている

故に あなた方がいかに丸めこもうとしても無駄なことだ

それはもう二度とあなた方の思うようにはゆかない

そして あなた方は詩人の純潔な血を
そのすべての黒い血をもって洗い清めることはできない

(稲田定雄氏の訳を参考にした。なお、誤訳もあると思う)
(追記・赤色部分は訂正したもの)
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袴田事件について

2014-04-01 21:45:50 | 文学
他ブログで書いたコメントを加筆修正して掲載します。

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数年前の足利事件の冤罪発覚の折もそうでしたが、当時から検察と一緒に
彼を犯人扱いしていたメディアの皆さんは袴田さんにちゃんと謝ったのでしょうか?

(ちなみに足利事件で被疑者にされた菅谷さんは謝罪されていないようです。)

光市の母子殺人事件の時にも感じましたが、殺人犯というのは
捕まった瞬間から究極の弱者になる
という認識が足りない気がします。


私は、死刑の話を読んだり聞いたりするたびに、有島武郎の『一房の葡萄』を思い出します。

裕福な西洋人の少年への羨望や嫉妬の気持ちもないまぜになって
絵具を盗んだ主人公に対する同級生たちの情け容赦ない侮蔑。

>あんなことをなぜしてしまったんだろう。
取りかえしのつかないことになってしまった。もう僕は駄目だ。
そんなに思うと弱虫だった僕は淋しく悲しくなって来て、
しくしくと泣き出してしまいました。

>「泣いておどかしたって駄目だよ」とよく出来る大きな子が
馬鹿にするような憎みきったような声で言って、
動くまいとする僕をみんなで寄ってたかって
二階に引張って行こうとしました。
僕は出来るだけ行くまいとしたけれども
とうとう力まかせに引きずられて階子段を登らせられてしまいました。
そこに僕の好きな受持ちの先生の部屋があるのです。



自分が一番好きな人に、自分の目の前で、自分が最低な人間だとバラされる。
これほど残酷なことを正義感に満ちた人間が平然とやってのけてしまう矛盾。

間違った人間には何をやっても構わない
という風潮があるように思えるのです。


今回は未だ再審が決まったのみで、冤罪を勝ち取ったわけではありません。
仮に再び有罪と判決された場合、メディアや大衆は彼を守ってくれるでしょうか?
私にはそうは思えません。

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有島武郎は特に好きな作家で、奔放な生き方にあこがれながらも
常に許しを求めて生きた作家だったと思っています。


『一房の葡萄』は小学生でも読破できる分量と文体で書かれた短編ですが、
そこで問われているテーマは非常に重い。青空文庫でも読めますので、
興味を持った方はぜひ読んでみてください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html

絞首台のレポートについて

2013-04-22 00:45:46 | 文学
「絞首台のレポート」とは、チェコ共産党の党員であるフチークが
煙草の巻紙に密かに書いた記録文学で、ナチスの拷問と尋問が
これでもかと告発された現在でも一読の価値ある名著である。

小林多喜二がわずか一日で惨殺されたのに対して、
こちらは死ぬまで時間がある程度あったのは、不運か幸運か悩むところ。

同じく権力側に殺された幸徳秋水の「キリスト抹殺論」と
比較して読むと面白いかも(幸徳秋水は無実の罪で死刑に処された)



http://barefoot.oops.jp/product/koushudai.html

こちらの方の感想では、本書が80ヶ国語に訳された
大ベストセラーだと解説されている。

私自身、岩波文庫の赤帯(小説もの)に分類されていたため、
つい創作ものだと思い今まで敬遠していたが、この度読んでみて
こういう記録はもっと多くの人に読み継がれるべきだと思った。

ところで、ウィキペディアを読むと、ずいぶんひどい解説がされている。
まー、ウィキなんてヒマ人の書くものだから仕方ないっちゃ仕方ない。

さるサイトを運営している御仁が、ウィキの解説文と
ほぼ同じ内容の感想を書いているので、こちらを引用しよう。

多くの国で共産主義は、反国、反体制活動と重なります。

しかし、1940年代のチェコスロバキアでは、
奇跡的に、愛国と反ナチと民族解放運動と共産主義とが重なったのです。
この情熱は本物です。

フチークは、スターリンによる解放を信じて亡くなりました。
スターリンは恐怖政治で、ロシアにおいても否定されています。

それでもフチークの美しさは変わりません。
拷問や監禁に耐える姿が皮肉にも
スターリン体制を批判するものとなっているのです。

日本は敗戦国=悪者ですが、ヒロシマの被爆者、ナガサキの
被爆者については、世界中の誰もが悪くは言いません。

平和な日常を破壊された戦争の犠牲者として、誰もが同情を寄せてくれます。
フチークもそうです。戦争と政治闘争の犠牲者として
永遠に哀悼を捧げられるべきです。


私はこういう感想というか姿勢をとってしまうところに
日本の反共左翼あるいは中道右派、リベラルの脆さを感じてしまう。

まず、なぜ多くの国家で共産主義が反体制となるかについてだが、
これはベトナムやキューバ、ベネズエラ、チリの歴史を知れば
自明の通り、その多くが植民地であり、政治的にも経済的にも
搾取と圧制を受けてきたからだ。

反体制=民族解放運動なのである。

次に、スターリン体制は日本では悪そのもので通っているが、
ロシアにおいては未だに中国における毛沢東同様、シンパがおり、
必ずしも否定されているとは限らない。むしろ否定していたのは
スターリン死去以降の各国共産党だろう。

ちなみに、私はスターリンの否定という現象は、フルシチョフに
よる宣伝に対する反応だったと考えている。フルシチョフにとっては
如何に自身の権威を正当化するかを考えた上でのパフォーマンス
にすぎなかったが、各国共産党にとってみては、如何に自身が
スターリンと違うかを説明しなければならない状態に陥ったのだと思う。

その影響に引きずられたままスターリンの評価は下げられている
ような気がして、あまり素直に喜べない。

これは何もスターリンを評価せよということではなくて、
政治的イデオロギーで歴史を語ることに対して否定的なだけである。

現に、冷戦終結以降に新たに発見された新資料からは、
それ以前の陰湿なスターリン像を覆す内容が含まれていた。

確かにスターリンは、状況に応じて残忍な決断を下したが、
それをナチスと安易に同列視していいものかとも思う。

故ダニエル・ベンサイドが主張しているように、
ナチスは自身の敵を殺したのに対して、ソ連は
自身の味方(共産的な表現をすれば同志)を殺したからだ。

綿密な比較の上で同質性を語るなら結構だが、
実際は、悪の代名詞として区分したがっているだけにすぎず、
その辺に抵抗を覚えるのである。

上の引用文でも、如何にスターリンと同じか、あるいは
違うかで作者を裁こうとしているかがおわかりだろう。

だが、スターリン主義者とバッシングしながらテロリズムに走り、
その後、何ら本格的な反省もしないまま今に至る全共闘世代の
連中を見ればよくわかるように、スターリンという言葉を
取り出して非難したところで、必ずしもそいつが正しいとは
限らないし、多くの場合は間違ってさえもいるのだ。

この評者の言葉も「共産党は悪だけど、たまに良い奴もいるから
その辺は評価しようね」という偽善めいた主張に留まっていて、
これは「日本人は糞だが、たまに良い奴もいる」という言葉と
同じものだ。

だいたい、この評者は
「南京大虐殺は無かった等というのは、国家に対する反逆行為。」
と言いながら、櫻井よし子を「硬派の女性ジャーナリスト、
櫻井よしこ様の論戦シリーズ。もっと活躍して貰いたい方です。」
と絶賛していて、かなり矛盾した思想を持っている。

南京事件を否定しているのは、他ならぬ櫻井女史なのだが?
硬派の女性ジャーナリストは国家に対して反逆しているらしい。

他にもチリやベトナムに対して侵略、テロを行ったニクソンを
絶賛していたりと、全くもって意味不明な部分があり、
ソ連は駄目だけどアメリカはOKなのかと憤ってしまう。

そして、何故かこういう連中ほど、ソ連や共産党の情報を
かき集めていて(もちろん肯定的な内容は意図的に省く)、
勝手な解釈をして正義の味方を気取っているわけだ。

つい先日、ゴーゴリにおける文学者による洗浄行為について
触れたが、これは第二次大戦中の共産党の運動についても同様
なのかもしれない。共産党と結びつけないでその内容を評価
しようとし、結果的にその作品の本質的な部分を汚している
ような、そんなお粗末な解釈が今後もドシドシ行われるのかもしれない。

ゴーゴリについて

2013-04-15 23:21:03 | 文学
最近、ロシア文学に親しんでいます。特にチェーホフが好きです。

『ワーニャおじさん』は読んで感動しました。これがリアリズム文学なのですね。
青空文庫でも読めますから、興味を持った方はぜひお読みください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51862.html

ところで、ゴーゴリというロシア・リアリズムの元祖ともいうべき人間が
いるのですが、彼の作品を単なる娯楽作品としてしかみなさないような、
私に言わせれば「なんじゃそりゃ」という解釈があるらしい。

『罪と罰』、『赤と黒』をはじめ、問題ある訳ばかり載せる
光文社の古典新訳文庫シリーズにもゴーゴリの『鼻・外套』がありますが、
この本に至っては落語調で書かれています(注1)。

ロシア文学の古典を落語で表現するってどういう神経してんだと
私は思うのだが……これは言ってみれば、夏目漱石の『坊ちゃん』
を演説にしてしまうような凄いことですよ?

「さぁーさぁー、お立会いー!親譲りの無鉄砲で、
 小供の時から損ばかりしておりますがー!」なんて書かれたら
 卒倒するでしょう?しない?そうかよ!

『坊ちゃん』が江戸っ子の口調で語られているからって単に
 ぎゃはぎゃは笑えるだけの作品ではないように、ゴーゴリの作品も
 楽しいだけの内容ではないのですが、その辺を無視した訳のような気がします。


ゴーゴリ自体は、徹底して現実と対決する主義だったようです。
彼は劇作の心構えとして、「全人類にみえる笑いと、全人類の目のつかぬ
不明の涙をとおして生活をよく眺めまわせ!」と考えていました。

半世紀以上も前に出版されたソヴィエト大百科事典の説明では
笑いと涙の融合、こっけいなものと悲劇的なものの組み合わせが
 生活の複雑さと諸矛盾をより深く解明することを可能とさせた

と評価しています。

同じく、彼は喜劇『検察官』について
ロシアにあるいっさいの悪を……なによりも異常に公正を人間に
 求めているような場所や事件において行われている一切の不正を
 ひと塊りに集め、一挙にしてその全てのものを嘲笑してやろうと思った

と書いているのですが、あるロシア研究者(政治学)
のサイトを見たら、

小説家になってからもお笑い劇として書いた
『検察官』や『死せる魂』は作者の意図を離れて
社会批判の書として高く評価されてしまう。

(http://web.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/)

と書かれていました。
ちゃんと全集読んだのかこいつ?

大体、下級役人として苦渋を味わってきた人間が
軽い気持ちで喜劇を書いたりはせんでしょう。

私自身も喜劇を書いたことがありますが、基本的にはギャグ満載、
しかし本質的にはシリアスを念頭にしていました。

ゴーゴリは芸術に関しては並々ならぬこだわりをもっていましたから、
現代社会の腐敗をそのままに表現することは彼のプライドにも関ることで、
喜劇だから落語にしてしまえーなんて考えは著者を裏切る行為では?

百歩譲って『検察官』はお笑い劇で片づけても、
叙事詩の『死せる魂』を戯曲と説明するこの学者様は一体何なわけ?

この先生、例の如くソ連に対しては「ゆるせん!」という態度を
取っており、それはロシア革命直後の社会からして「ゆるせん!」そうです。

おかげで、人間関係に苦しんで自殺したはずのマヤコフスキーが
ソ連社会の矛盾に苦しんで死んだことになっているし、
ドストエフスキーの一押しの作品が『悪霊』になっているという有様。

どうも単なるコメディー作家にされるゴーゴリといい、
レーニンと反目してたことにされているゴーリキーといい、
ロシア研究者の一部にはソ連からの影響をそぐために、
彼らの作品を洗浄しようとする動きがあるようです(注2)。

両者とも、ソ連の社会主義リアリズムのルーツとみなされて
いますから、ソ連公認の文学論は否定したいがゴーゴリやゴーリキーは
サルベージしたいと考えている人間の中に、共産思想とかい離させようと
して、そりゃどうよと言いたくなる解釈がされているような……?

インターネットでのロシア文学作家の紹介は、慰安婦問題と同じぐらい
のレベルだと思うのですが、よりによって政治学者が率先して歪んだ
解釈をするなよなーと思うわけです。

(注1)知り合いのルソーの研究者の方が、古典新訳文庫で出ている
    社会契約論は誤訳が多いと苦言を呈していました。ここで言う
    誤訳とは解釈が間違っているという意味だそうです。

    反共左翼の藤井だからどうよとは思いますが、トロツキーの
    永続革命論も誤訳ばかりだそうですし、ここ最近の新訳ブーム
    は、かえっていい加減な理解を読者に植え付けてはいませんか?

(注2)ゴーリキーは革命直後にはレーニンと対立しましたが、
    その後は和解して、休養先のドイツやイタリアでも
    革命を否定する亡命者と論争したり、レーニンの死を知り
    彼を讃える回想録を書いたりと、何だかんだで最後まで
    党の人間だったと思います。

    ていうか、党の文化政策の中心人物だったこの男を
    反ソだったとするのは無理があるのではないかと。