私は自問します。
たとえば相対性理論の創始者アインシュタインが、いわゆる欧州の文明国ではなく、
ヘクター・ピーターソンのようにソウェトで生まれ育っていたら、どうだろうと。
アインシュタインはナチに迫害されました。
ナチの強制収容所では数百万のユダヤ人の大虐殺が行われました。
技術文明が人間的感情に欠け、いかに多くの問題を抱えているかの好例であります。
それにしても、もしソウェトに生まれ育っていたら、
アインシュタインはアインシュタインにはなれなかった。
恐らく、ヘクターと同じようなことになり、相対性理論を発見することもなく、
いや、6年生にも上がれず、中学校を卒業することもできなかったのではないかと。
(1998年、南アフリカでの演説から引用)
ヘクター・ピーターソンは1976年、アパルトヘイト反対のデモの最中に銃殺された少年。享年13歳だった。
キューバは20世紀後半、アフリカの反植民地主義に尽力した国だった。
軍事的支援もさながら、医師団を派遣し、現地の医療に貢献した国として尊敬されている。
その典型的人物が、かの有名なネルソン・マンデラだった。
-----------------------------------------------------------------------
マンデラは、キューバ人は"白人圧政者の無敵神話を破壊した…
そして南アフリカの大衆に闘うきっかけをもたらした"と言います。
歴史家のPiero Gleijesesは、南ア政府にナミビアを自由にするのを余儀なくさせて
南アのアパルトヘイトの後ろ盾を乱すのを助けたのは、
アンゴラ人民解放運動を支援したキューバが1988年アンゴラで勝利したことだったと主張します。
NERMEEN SHAIKH:
バラク・オバマ大統領がキューバのラウル・カストロ議長と
握手した火曜の歴史的瞬間に注意を向けます。どちらも
南アの反アパルトヘイト指導者ネルソン・マンデラの追悼式に参加しました。
握手は予定外だったとホワイトハウスは言いました。
アメリカの大統領がキューバの指導者と握手したことでは2000年以来はじめてと記録されます。
ワシントンでは共和党議員らがこのやりとりについて非道と表現しました。
エイミー・グッドマン(番組司会者)
:オバマ大統領とラウル・カストロ議長の握手に関する騒動が
南アの反アパルトヘイト運動とキューバとの緊密な関係に人の注意を引きました。
1991年にネルソン・マンデラは
当時フィデル・カストロが議長のキューバを訪れました。
これは二人がはじめて会ったときのクリップです。
ネルソン・マンデラ:
私たちがなにか言う前に、
あなたがいつ南アフリカに来るのか、私に教えなければなりません。
ほら、ダメです、ちょっと待って、ちょっと待って。
フィデル・カストロ議長:なるべく早く。
ネルソン・マンデラ:
私たちの友人、キューバ、我らの民を鍛えることで私たちを助けてくれた、
時の流れが私たちの苦闘に賛同する算段を私たちに与えてくれた、
医師やSWAPO(ナミビアの独立をめざした黒人の解放組織)として我らの民を訓練してくれた、
あなたは私たちの国に来ていません。いつ来るんですか?
フィデル・カストロ議長:
私はまだ祖国南アを訪問していない。
訪問したい、あなたと南アフリカの人々を愛するようにホームランドとして私は南アを愛している。
エイミー・グッドマン:
さて、南アのアパルトヘイトを終わらせるための苦闘での
キューバの欠かせない役割についてさらに詳細を知るために
ジョーンズホプキンス大学先進国際研究学校
アメリカ外交政策教授のPiero Gleijeses に加わっていただきます。
Piero Gleijeses教授、ようこそデモクラシーナウ!に
この欠かせない関係について、
なぜキューバが反アパルトヘイト運動にとってそれほど根本だったのか、話してください。
Piero Gleijeses:
キューバは、アパルトヘイトの軍隊に立ち向かわせて
アパルトヘイトの軍隊、南アフリカ軍をくじくために1975年、1976年、
そして1988年と二度にわたり自国兵士を送った世界で唯一の国です。
そして1991年6月、訪問先のハバナでネルソン・マンデラは、
1988年のアンゴラでの南アに対するキューバの勝利について言及しています。
アンゴラでのキューバ人の勝利、Cuito Cuanavaleが、
私たちの大陸とわが国民のアパルトヘイトの災いからの解放のターニングポイントであると言いました。
エイミー・グッドマン:
ごくわずかしか知られていない国のために、
キューバの経験、アンゴラでの軍事介入について説明してもらえますか?
PIERO GLEIJESES:
はい。アンゴラの植民地脱却があります、
ポルトガルの植民地は1975年11月に独立国になるはずでした。
キューバが支援する運動組織
(キューバ人はポルトガル人との闘いにおいて何年にもおよび支援しました)と
南アフリカとアメリカが支援する他の2つの運動組織とのあいだに内戦があります。
そしてキューバが支援する運動組織、自由な選挙で勝利して
今日アンゴラで政権を握るMPLAは、内戦に勝利する寸前でした。
当時アンゴラのCIA局長が私に話したことをわかりやすく言い換えると、
最高の指導者と最高の計画を有する最も明確な政治意識を持った運動組織だったので、内戦に勝つ寸前でした。
そしてMPLAの勝利を妨げるために
1975年10月、ワシントンに駆り立てられて南アフリカが侵略しました。
そして南ア軍はルアンダに向かって進軍しました、
もしもフィデル・カストロが介入を決めなかったなら、
彼らはルアンダを占領してMPLAを壊滅させていたことでしょう。
1975年11月から76年4月の間に3万6000人のキューバ兵が
アンゴラに殺到して当時南アフリカが支配したナミビアに彼らを押し戻したのです。
そして、これには南アについて話す
南アの白人と黒人の双方に計り知れない精神的インパクトがありました。
そして主要な南アの黒人の新聞 The Worldが、
まだ南アの軍隊がアンゴラにいた1976年2月の社説に
キューバ人が彼らを後退させている、南ア軍が中心のアンゴラを撤退したと書きました。
彼らはアンゴラ南部にいました。書かれた記事は壁に貼られました。
そしてこの新聞 The Worldは、
「ブラックアフリカはアンゴラでのキューバの勝利によって生じる波に乗っている。
ブラックアフリカは完全な解放を成し遂げる可能性という酔わせるワインを味わっている」と書きました。
そしてアンゴラにキューバの軍隊が到着したのを知った1975年に彼は刑務所にいたとマンデラは書きました、
そして何かを取り上げるのためではなくて、アフリカ人がその自由を成し遂げるのを助けるために
国が他の大陸からやってきたのはそのときが初めてだと書きました。
これは南アの解放へのキューバの最初の本当の貢献でした。
白人の巨人、アパルトヘイト軍隊が撤退を余儀なくされたのは
今でも人の記憶に残るはじめてのことでした。
そして白人ではない軍のために彼らは撤退したのです。
国内の植民地主義という情況においてこれはきわめて重要です。
そしてそのあとキューバ人らは南ア軍からアンゴラを守るためにアンゴラに残りました。
キューバ人たちがアンゴラの独立の引受人だったのをCIAでさえ認めました。
そしてアンゴラで彼らはマンデラのANC(アフリカ民族会議)を訓練しました。
両者のあいだに非常に緊密な関係が創り出されました。
このまま続けますか、それともなにか質問で中断したいですか。
http://www.fair-port.com/tama/No-411.html
-----------------------------------------------------------------------
大月書店から発行されているフィデル・カストロの評伝を読むと、
かなり無理をしていたようで、必ずしも英雄的行為ではなかったことが知れるのだが、
少なくとも、アパルトヘイトに抗議するポーズを見せながら実際には友軍だった某国とは全く違うものだった。
アインシュタインがアフリカ人(植民地国の黒人)だったら、アインシュタインになれなかった。
カストロの訃報を知り、真っ先に思いだしたのが上の言葉だった。
いわゆる「非民主主義国家」の「独裁者」の演説にありがちなことだが、
カストロの言葉は「国際社会」の欺瞞を怒りを持って糾弾するもので、文字通り、レベルが違うものだった。
安倍晋三やヒラリー・クリントンやドナルド・トランプに果たして上のような演説が出来るものか。
甚だ疑問である。
アンゴラ内戦でキューバと戦ったアパルトヘイト陣営の中にはアメリカ・イギリス・フランスがいた。
それらの国は、現在、シリアで現地の武装勢力を「穏健派」とみなして支援を行っている。
それら「穏健派」の中で問題を起こすグループが表れると、
それはダーイシュ(IS,イスラム国)なりヌスラ戦線なり、固有名を与えられて「敵」にされる。
去年の11月にパリで同時多発テロが起きた際に、シリアのアサド大統領は
「今回の事件はシリアでは何年も前から起きていたものだった」とコメントした。
アンゴラでテロを支援していたアパルトヘイト陣営は、現在、シリアで同じことをしている。
マンデラもカストロも亡くなった今、シリアはどこへ向かうのだろうか。
テレビを見て腹立たしく感じたのが、あのオバマを善玉として描いたことだ。
曰く、歴史的な和解をもって、オバマはキューバに「民主化」の波を云々。
一緒にテレビを見ていた知人は「オバマさんは本当に平和のために働いているんだなぁ~」とつぶやいていた。
キューバは、かつてアメリカの保護の下、民主化された国だった。
そこでは医療も教育もろくに受けることが出来ず、宗主国とつながりのあるエリートだけが恩恵を受ける
凄まじい格差社会だったのだが、今、「民主化」の名の下に過度な経済主義を導入させようとしている
バラク・オバマのどこが偉大だというのか。私はキューバが鄧小平の頃の中国のようになるのではないか、
つまり、市場主義を急激に取り入れることで、
それまで保護されていた民衆の生存権が脅かされるのではないかと危惧している。
健康で文化的な最低限度の生活。
成功の度合いはともかく、生存権の獲得を模索し続けたのがカストロ政権だった。
今、民主化することでキューバが模索することすらやめるのではないかと心配でならない。
(年金カット法案を強行採決した国の人間が何を言っているのだという話ではあるが)
いい加減、バラク・オバマの崇拝から脱するべきだと私は思う。
日本は一時はジョージ・ブッシュという悪漢の登場のおかげで
アメリカの精神的奴隷から解放される寸前まで行ったはずだったのだが、
結局、聖者オバマの登場によって、それまで以上にアメリカに依存するようになってしまった。
繰り返し主張するが、今、アンゴラと同じことをしているのはバラク・オバマの軍である。
そして、オバマの外交政策を継承・強化しようとしていたのがヒラリー・クリントンである。
カストロが生涯、貫いた植民地主義に対する明確なNOの二文字を
私たちは受け継ぐべきではないだろうか。
国民レベルで中国は怖い、北朝鮮は危険だ、アメリカがいないと誰が日本を守る?といった感情に
支配されている限り、日本でカストロは生まれない。
たとえば相対性理論の創始者アインシュタインが、いわゆる欧州の文明国ではなく、
ヘクター・ピーターソンのようにソウェトで生まれ育っていたら、どうだろうと。
アインシュタインはナチに迫害されました。
ナチの強制収容所では数百万のユダヤ人の大虐殺が行われました。
技術文明が人間的感情に欠け、いかに多くの問題を抱えているかの好例であります。
それにしても、もしソウェトに生まれ育っていたら、
アインシュタインはアインシュタインにはなれなかった。
恐らく、ヘクターと同じようなことになり、相対性理論を発見することもなく、
いや、6年生にも上がれず、中学校を卒業することもできなかったのではないかと。
(1998年、南アフリカでの演説から引用)
ヘクター・ピーターソンは1976年、アパルトヘイト反対のデモの最中に銃殺された少年。享年13歳だった。
キューバは20世紀後半、アフリカの反植民地主義に尽力した国だった。
軍事的支援もさながら、医師団を派遣し、現地の医療に貢献した国として尊敬されている。
その典型的人物が、かの有名なネルソン・マンデラだった。
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マンデラは、キューバ人は"白人圧政者の無敵神話を破壊した…
そして南アフリカの大衆に闘うきっかけをもたらした"と言います。
歴史家のPiero Gleijesesは、南ア政府にナミビアを自由にするのを余儀なくさせて
南アのアパルトヘイトの後ろ盾を乱すのを助けたのは、
アンゴラ人民解放運動を支援したキューバが1988年アンゴラで勝利したことだったと主張します。
NERMEEN SHAIKH:
バラク・オバマ大統領がキューバのラウル・カストロ議長と
握手した火曜の歴史的瞬間に注意を向けます。どちらも
南アの反アパルトヘイト指導者ネルソン・マンデラの追悼式に参加しました。
握手は予定外だったとホワイトハウスは言いました。
アメリカの大統領がキューバの指導者と握手したことでは2000年以来はじめてと記録されます。
ワシントンでは共和党議員らがこのやりとりについて非道と表現しました。
エイミー・グッドマン(番組司会者)
:オバマ大統領とラウル・カストロ議長の握手に関する騒動が
南アの反アパルトヘイト運動とキューバとの緊密な関係に人の注意を引きました。
1991年にネルソン・マンデラは
当時フィデル・カストロが議長のキューバを訪れました。
これは二人がはじめて会ったときのクリップです。
ネルソン・マンデラ:
私たちがなにか言う前に、
あなたがいつ南アフリカに来るのか、私に教えなければなりません。
ほら、ダメです、ちょっと待って、ちょっと待って。
フィデル・カストロ議長:なるべく早く。
ネルソン・マンデラ:
私たちの友人、キューバ、我らの民を鍛えることで私たちを助けてくれた、
時の流れが私たちの苦闘に賛同する算段を私たちに与えてくれた、
医師やSWAPO(ナミビアの独立をめざした黒人の解放組織)として我らの民を訓練してくれた、
あなたは私たちの国に来ていません。いつ来るんですか?
フィデル・カストロ議長:
私はまだ祖国南アを訪問していない。
訪問したい、あなたと南アフリカの人々を愛するようにホームランドとして私は南アを愛している。
エイミー・グッドマン:
さて、南アのアパルトヘイトを終わらせるための苦闘での
キューバの欠かせない役割についてさらに詳細を知るために
ジョーンズホプキンス大学先進国際研究学校
アメリカ外交政策教授のPiero Gleijeses に加わっていただきます。
Piero Gleijeses教授、ようこそデモクラシーナウ!に
この欠かせない関係について、
なぜキューバが反アパルトヘイト運動にとってそれほど根本だったのか、話してください。
Piero Gleijeses:
キューバは、アパルトヘイトの軍隊に立ち向かわせて
アパルトヘイトの軍隊、南アフリカ軍をくじくために1975年、1976年、
そして1988年と二度にわたり自国兵士を送った世界で唯一の国です。
そして1991年6月、訪問先のハバナでネルソン・マンデラは、
1988年のアンゴラでの南アに対するキューバの勝利について言及しています。
アンゴラでのキューバ人の勝利、Cuito Cuanavaleが、
私たちの大陸とわが国民のアパルトヘイトの災いからの解放のターニングポイントであると言いました。
エイミー・グッドマン:
ごくわずかしか知られていない国のために、
キューバの経験、アンゴラでの軍事介入について説明してもらえますか?
PIERO GLEIJESES:
はい。アンゴラの植民地脱却があります、
ポルトガルの植民地は1975年11月に独立国になるはずでした。
キューバが支援する運動組織
(キューバ人はポルトガル人との闘いにおいて何年にもおよび支援しました)と
南アフリカとアメリカが支援する他の2つの運動組織とのあいだに内戦があります。
そしてキューバが支援する運動組織、自由な選挙で勝利して
今日アンゴラで政権を握るMPLAは、内戦に勝利する寸前でした。
当時アンゴラのCIA局長が私に話したことをわかりやすく言い換えると、
最高の指導者と最高の計画を有する最も明確な政治意識を持った運動組織だったので、内戦に勝つ寸前でした。
そしてMPLAの勝利を妨げるために
1975年10月、ワシントンに駆り立てられて南アフリカが侵略しました。
そして南ア軍はルアンダに向かって進軍しました、
もしもフィデル・カストロが介入を決めなかったなら、
彼らはルアンダを占領してMPLAを壊滅させていたことでしょう。
1975年11月から76年4月の間に3万6000人のキューバ兵が
アンゴラに殺到して当時南アフリカが支配したナミビアに彼らを押し戻したのです。
そして、これには南アについて話す
南アの白人と黒人の双方に計り知れない精神的インパクトがありました。
そして主要な南アの黒人の新聞 The Worldが、
まだ南アの軍隊がアンゴラにいた1976年2月の社説に
キューバ人が彼らを後退させている、南ア軍が中心のアンゴラを撤退したと書きました。
彼らはアンゴラ南部にいました。書かれた記事は壁に貼られました。
そしてこの新聞 The Worldは、
「ブラックアフリカはアンゴラでのキューバの勝利によって生じる波に乗っている。
ブラックアフリカは完全な解放を成し遂げる可能性という酔わせるワインを味わっている」と書きました。
そしてアンゴラにキューバの軍隊が到着したのを知った1975年に彼は刑務所にいたとマンデラは書きました、
そして何かを取り上げるのためではなくて、アフリカ人がその自由を成し遂げるのを助けるために
国が他の大陸からやってきたのはそのときが初めてだと書きました。
これは南アの解放へのキューバの最初の本当の貢献でした。
白人の巨人、アパルトヘイト軍隊が撤退を余儀なくされたのは
今でも人の記憶に残るはじめてのことでした。
そして白人ではない軍のために彼らは撤退したのです。
国内の植民地主義という情況においてこれはきわめて重要です。
そしてそのあとキューバ人らは南ア軍からアンゴラを守るためにアンゴラに残りました。
キューバ人たちがアンゴラの独立の引受人だったのをCIAでさえ認めました。
そしてアンゴラで彼らはマンデラのANC(アフリカ民族会議)を訓練しました。
両者のあいだに非常に緊密な関係が創り出されました。
このまま続けますか、それともなにか質問で中断したいですか。
http://www.fair-port.com/tama/No-411.html
-----------------------------------------------------------------------
大月書店から発行されているフィデル・カストロの評伝を読むと、
かなり無理をしていたようで、必ずしも英雄的行為ではなかったことが知れるのだが、
少なくとも、アパルトヘイトに抗議するポーズを見せながら実際には友軍だった某国とは全く違うものだった。
アインシュタインがアフリカ人(植民地国の黒人)だったら、アインシュタインになれなかった。
カストロの訃報を知り、真っ先に思いだしたのが上の言葉だった。
いわゆる「非民主主義国家」の「独裁者」の演説にありがちなことだが、
カストロの言葉は「国際社会」の欺瞞を怒りを持って糾弾するもので、文字通り、レベルが違うものだった。
安倍晋三やヒラリー・クリントンやドナルド・トランプに果たして上のような演説が出来るものか。
甚だ疑問である。
アンゴラ内戦でキューバと戦ったアパルトヘイト陣営の中にはアメリカ・イギリス・フランスがいた。
それらの国は、現在、シリアで現地の武装勢力を「穏健派」とみなして支援を行っている。
それら「穏健派」の中で問題を起こすグループが表れると、
それはダーイシュ(IS,イスラム国)なりヌスラ戦線なり、固有名を与えられて「敵」にされる。
去年の11月にパリで同時多発テロが起きた際に、シリアのアサド大統領は
「今回の事件はシリアでは何年も前から起きていたものだった」とコメントした。
アンゴラでテロを支援していたアパルトヘイト陣営は、現在、シリアで同じことをしている。
マンデラもカストロも亡くなった今、シリアはどこへ向かうのだろうか。
テレビを見て腹立たしく感じたのが、あのオバマを善玉として描いたことだ。
曰く、歴史的な和解をもって、オバマはキューバに「民主化」の波を云々。
一緒にテレビを見ていた知人は「オバマさんは本当に平和のために働いているんだなぁ~」とつぶやいていた。
キューバは、かつてアメリカの保護の下、民主化された国だった。
そこでは医療も教育もろくに受けることが出来ず、宗主国とつながりのあるエリートだけが恩恵を受ける
凄まじい格差社会だったのだが、今、「民主化」の名の下に過度な経済主義を導入させようとしている
バラク・オバマのどこが偉大だというのか。私はキューバが鄧小平の頃の中国のようになるのではないか、
つまり、市場主義を急激に取り入れることで、
それまで保護されていた民衆の生存権が脅かされるのではないかと危惧している。
健康で文化的な最低限度の生活。
成功の度合いはともかく、生存権の獲得を模索し続けたのがカストロ政権だった。
今、民主化することでキューバが模索することすらやめるのではないかと心配でならない。
(年金カット法案を強行採決した国の人間が何を言っているのだという話ではあるが)
いい加減、バラク・オバマの崇拝から脱するべきだと私は思う。
日本は一時はジョージ・ブッシュという悪漢の登場のおかげで
アメリカの精神的奴隷から解放される寸前まで行ったはずだったのだが、
結局、聖者オバマの登場によって、それまで以上にアメリカに依存するようになってしまった。
繰り返し主張するが、今、アンゴラと同じことをしているのはバラク・オバマの軍である。
そして、オバマの外交政策を継承・強化しようとしていたのがヒラリー・クリントンである。
カストロが生涯、貫いた植民地主義に対する明確なNOの二文字を
私たちは受け継ぐべきではないだろうか。
国民レベルで中国は怖い、北朝鮮は危険だ、アメリカがいないと誰が日本を守る?といった感情に
支配されている限り、日本でカストロは生まれない。