レーニンの代表作といえば、『帝国主義論』と『国家と革命』ですが、
前者はともかく後者は、ソ連崩壊以降の赤狩りの90年代以降、
「悪書」として片づけられており、その積極的な意義を発見しよう
という試みは一部の時代遅れの極左集団を除いては行われておりません。
筆者自身、要するに暴力革命を肯定するために書かれた本だという
認識程度しかありませんでしたが、とある反共左翼の酷評を読んで以降、
同書を購入し、読んでみたところ、現代社会を考える上でヒントとなる
メッセージが至る所にちりばめられており、これは単純に悪書として
排斥してはならないものだと考えるようになりました。
簡単に言ってしまえば、この本は、
革命を起こせば、ただちにバラ色の社会が出現するという無政府主義者や
現状国家を維持したままでも共産主義社会は開けるという
カウツキーを初めとする当時の権威ある社会主義者の見解に対しての批判の書であり、
①議員だけでなく官吏に対しても普通選挙制度と随時の解任制度を導入すること、
②官吏の俸給は労働者と同程度にまで抑えること
③民主主義の徹底化と実践を通しての点検
の3つを主張したものです。
一言でいえば、官僚制を撤廃するために徹底した民主主義制度を敷くという考えで、
このラディカルな発想の前では現状の議会制度や民主主義制度は
特権階級による一般市民の支配の形態である「国家」を維持する以外の何物でもありません。
そこで、議員だけでなく官僚に対しても民衆が監視できるようなシステム(随時の解任制度)や、
特権の廃止(労働者と同程度の俸給、軍隊廃止と民衆の武装化)を提案しているわけです。
言うまでもありませんが、1910年代の世界は普通選挙ですら進歩的であり、
ほとんどの国では、限定された層の人間しか選挙に参加することができませんでした。
ましてや、官吏に至っては大多数の人間は執務から排除されており、
まさに特権政治というものが一般的だった時代です。
加えて、この1910年代は世界大戦の時代、各国が殺しあっていた時代であって、
当時のほとんどの社会主義者が祖国防衛を重視し参戦を支持した時代でした。
こういう時代において、これらの欺瞞を暴露し、更なる前進した
システムを導入しようとしたのが『国家と革命』だったのです。
このシステムは評議会(ソヴィエト)として導入はされたものの
ボルシェビキ内の権力闘争や、経済向上に伴う富農や官僚の復活、
干渉戦争による戦争勝利のための民衆の組織化等々が重なって
結果的には中途半端にしか達成されず、その後の大国化に伴い、
改革は中断されることになりました。
しかし、そのことをもって本書を断罪するならば、現在のアメリカや日本において
見られる小選挙区制度をもってして、選挙制度そのものを否定しても良いことになります。
仮に選挙制度に関してそのような極論を言えば、誰も見向きもしないでしょうが、驚くべきことに
そのような極論が説得力ある意見として共産主義論において罷り通っているのが、現状です。
どう考えても、現在の『国家と革命』批判は、批判のレベルにすら達していません。
「源氏物語は源平合戦の物語だ」と同じレベルの理解で書かれています。
『国家と革命』に対する批判のほとんどは、同書を未読の人間が書いたとすら思ってしまうほど、
意図的に同書の趣旨や内容を歪曲したものが大変多く、これは「アメリカ国民を救ったのだから
原爆投下は正しかった」という言説と同じほど卑劣で凄まじい歴史的・思想的改ざんです。
言ってしまえば、嘘と出鱈目の産物です。
まさに、民主主義国では民衆の手によって
政治的な言論弾圧が展開されるわけです。
こういうトンデモが流布され、しかも政治学をはじめとする一流の学者が
首肯してしまうという凄い状況のなか、少しでも同書の誤解を解きたいという
気持で、この記事を書きました。『国家と革命』は難解な本ではありますが、
ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』の上巻を読めば大体の背景は理解でき、
その内容も当時の歴史をきちんと勉強すれば誰でもわかる内容です。
できれば、一度この本を自分で読み、内容を自分の目で確かめることを勧めます。
次回は、現状の批判が如何に虚偽に満ちているかを暴露しようと思います。乞うご期待。
前者はともかく後者は、ソ連崩壊以降の赤狩りの90年代以降、
「悪書」として片づけられており、その積極的な意義を発見しよう
という試みは一部の時代遅れの極左集団を除いては行われておりません。
筆者自身、要するに暴力革命を肯定するために書かれた本だという
認識程度しかありませんでしたが、とある反共左翼の酷評を読んで以降、
同書を購入し、読んでみたところ、現代社会を考える上でヒントとなる
メッセージが至る所にちりばめられており、これは単純に悪書として
排斥してはならないものだと考えるようになりました。
簡単に言ってしまえば、この本は、
革命を起こせば、ただちにバラ色の社会が出現するという無政府主義者や
現状国家を維持したままでも共産主義社会は開けるという
カウツキーを初めとする当時の権威ある社会主義者の見解に対しての批判の書であり、
①議員だけでなく官吏に対しても普通選挙制度と随時の解任制度を導入すること、
②官吏の俸給は労働者と同程度にまで抑えること
③民主主義の徹底化と実践を通しての点検
の3つを主張したものです。
一言でいえば、官僚制を撤廃するために徹底した民主主義制度を敷くという考えで、
このラディカルな発想の前では現状の議会制度や民主主義制度は
特権階級による一般市民の支配の形態である「国家」を維持する以外の何物でもありません。
そこで、議員だけでなく官僚に対しても民衆が監視できるようなシステム(随時の解任制度)や、
特権の廃止(労働者と同程度の俸給、軍隊廃止と民衆の武装化)を提案しているわけです。
言うまでもありませんが、1910年代の世界は普通選挙ですら進歩的であり、
ほとんどの国では、限定された層の人間しか選挙に参加することができませんでした。
ましてや、官吏に至っては大多数の人間は執務から排除されており、
まさに特権政治というものが一般的だった時代です。
加えて、この1910年代は世界大戦の時代、各国が殺しあっていた時代であって、
当時のほとんどの社会主義者が祖国防衛を重視し参戦を支持した時代でした。
こういう時代において、これらの欺瞞を暴露し、更なる前進した
システムを導入しようとしたのが『国家と革命』だったのです。
このシステムは評議会(ソヴィエト)として導入はされたものの
ボルシェビキ内の権力闘争や、経済向上に伴う富農や官僚の復活、
干渉戦争による戦争勝利のための民衆の組織化等々が重なって
結果的には中途半端にしか達成されず、その後の大国化に伴い、
改革は中断されることになりました。
しかし、そのことをもって本書を断罪するならば、現在のアメリカや日本において
見られる小選挙区制度をもってして、選挙制度そのものを否定しても良いことになります。
仮に選挙制度に関してそのような極論を言えば、誰も見向きもしないでしょうが、驚くべきことに
そのような極論が説得力ある意見として共産主義論において罷り通っているのが、現状です。
どう考えても、現在の『国家と革命』批判は、批判のレベルにすら達していません。
「源氏物語は源平合戦の物語だ」と同じレベルの理解で書かれています。
『国家と革命』に対する批判のほとんどは、同書を未読の人間が書いたとすら思ってしまうほど、
意図的に同書の趣旨や内容を歪曲したものが大変多く、これは「アメリカ国民を救ったのだから
原爆投下は正しかった」という言説と同じほど卑劣で凄まじい歴史的・思想的改ざんです。
言ってしまえば、嘘と出鱈目の産物です。
まさに、民主主義国では民衆の手によって
政治的な言論弾圧が展開されるわけです。
こういうトンデモが流布され、しかも政治学をはじめとする一流の学者が
首肯してしまうという凄い状況のなか、少しでも同書の誤解を解きたいという
気持で、この記事を書きました。『国家と革命』は難解な本ではありますが、
ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』の上巻を読めば大体の背景は理解でき、
その内容も当時の歴史をきちんと勉強すれば誰でもわかる内容です。
できれば、一度この本を自分で読み、内容を自分の目で確かめることを勧めます。
次回は、現状の批判が如何に虚偽に満ちているかを暴露しようと思います。乞うご期待。