昨日見た動画で、ペンキ画家ショーゲンさんが日本語の素晴らしい一面を話されていた。
日本人は擬音語や擬態語を自然と言葉にしている。
雨がシトシトと降っているとか、雨雫がポタポタ落ちるとか。。。
同じ「雨が降っている」と言う状態でも、捉え方が細やかでそれぞれの情感がある。
「行間を読む」のと似ているような感性があるなと思った。
その言葉を見聞きしただけで、イメージが浮かんでくるような感性。
自分の感じ方を音の言葉にしていたり、逆に相手を理解する共感に使ったり。
音も会話をしているんだと気づいた。
これってテレパシーへの入り口なのかもしれないね。
音が会話していると思ったら音のイメージも受け取れるようになるし、音はただの音だと切り離したら「ただの音」にしか聞こえない。
やっぱり、その人が思考するイメージで現実が現れているね。
一つの現象をどう捉えるかで、見方もそれぞれ違ってくる。
ある人は「善」だと捉えるし、ある人は「悪」だと捉える。
ある人は「正解」だと捉えるし、ある人は「間違い」だと捉える。
人の数だけ「いろんな見方があるよ」と言うのが真理だと気づく。
どれもその人の中で感じている「その人の中ではそれが今の状態の真実」。
それを尊重できたら、調和が生まれる。
皆同じ考えだから調和しているではない。
違いを受け入れているから調和しているんだ。
違うから、それぞれが自由なんだよね。
そういえば擬態語で感じた昔の思い出があった。
高校時代、2人仲が良かった友人がいて、1人だけ別のクラスになって寂しくしていたので3人で交換日記を始めた。
好きな事や思った事を書いて回していた日記で、私の番になり「絵と詩」を描いた。
想像で書いた詩で「雪が降っている状態」を描いていた。
「シンシンと雪が降る」と表現していたら、それを見た友人がポツリと言った。
「雪ってシンシンと降るの!?」
私は感覚で描いていたの「えっ!?違うの??」と困惑した。
確かにそんな言葉で表現されているのを見聞きしたことはなかった。
間違った言葉を描いてしまったのかな?
そんな感覚が私の中にあって、このシーンは私の中で深く眠っていた。
そして時は遥かに流れてだいぶ経ったある日。
「雪がシンシンと降っている」と書かれていた書物?か何かを偶然目にした。
やっぱり雪はシンシンと降るよね〜❣️と嬉しかった私がいた。
本当の所は、嘘も正解もなく「私が感じていたもの」と「誰かが感じたもの」が同じで、そこに共感したに過ぎないのだけど、これが言葉の潜在意識なのかなーと感じた。
遠い昔、私が感じていた言葉を未解決のまま潜在意識の海に残して、時を超えて誰かが同じような感覚を潜在意識の中から受け取って表現したのかもしれない。
もしかしたら過去生で雪深い里に暮らしていた事があって、その時使っていた言葉を無意識で受け取って描いたのかもしれない。
色々と想像すると楽しいけど、意識は繋がっているんだなと言う事が少しイメージできた思い出でした。
日本人はそんな「イメージでの音と言葉」を昔から共有しながら、それを表現して大切にしながら、後世に伝えて残していたのかもしれないなと感じました。
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