欠けには大まかに2種類あると思う。
生まれつき欠けていたと思う「身体的な欠点(劣等感)」と、生きていく中で欠けを感じる「喪失感」。
身体的な欠点は、人と比べた時に違いを感じるもので言わば「ないものねだり」。
すでにあるものを見たら、それこそが自分の「オリジナル」で自分にとっては最高傑作=唯一無二の存在。
最初からそれが自分にとってはパーフェクトの状態で、なくてもたいして困らない。
美的感覚なんて時代によっては随分と変わっていくもので、人の目で見た一般的な世界よりもオリジナルという概念こそが一番の強みだと思う。
だけど目は自分以外のものに向いているからこそ、成長過程でその違いにも気付くし劣等感も感じてしまう。
大いに感じる事で、次の「劣等感を消化する」事が出来るのだと思う。
私も身長が低くて随分と劣等感を感じて生きてきた。
人からすればそんなに気にするような事ではないのだろうけど、自分にとってはとても重要な問題に感じられた。
29歳の時、初めての海外旅行でドイツに行った時、トイレで手を洗っている私を見て「チャイルド?」と話しているのが聞こえた。
土産店に入ったら、東洋の子供だと思われて「シッ、シッ」とあからさまに手で追い払われた。
初めての外国での「あからさまな差別体験」だった。
それから随分と劣等感は消えなかったが、歳をとるにつれてあまり気にならなくなった。
底上げの自分の居心地の悪さから、等身大の自分の心地良さに変わっていったのかもしれない。
若い頃、化粧をするのが当たり前の時代に素顔を人(知らない人でも)に見せるのが凄く恥ずかしかったが、今は素顔でもたいして気にならなくなった。
それと似ている気がする。
先日、冨永愛さんが長身が故のコンプレックスを未だに抱えているという動画を見て、私と逆で同じなんだなーと実感した。
長身だからこそモデルという仕事が出来るのだけど、やっぱり小さい人が羨ましいと今でも思うと。
自分に無いものを見ていても、結局その穴は埋まらないんだよね。
それは自分の過去の苦い体験から沸き起こって強烈な劣等感となるのだけど、それが全てではなくて見えてなかった部分も随分とある。
人の目を通して自分を見るのではなくて、自分の目でちゃんと見てみると違った価値観があって、見えてなかったものが見えてくる。
自分にないものは生きていく中でたいして困らないということ。
ちょっと不便だけど別になくても困らない。
自分では劣等感に感じていることさえも、人によってはその状態をあえて欲しがる人もいる。
姿形は、その人だと認識できさえすれば大した問題ではないのかもしれない。
むしろその人のオリジナルという部分が自分にとっては今世での最高傑作だということ。
あえてその姿形で生まれてくるのを選んできたのだと思うから。
それを生きていく中でいろんな感情を経験して、そういう風に感じられるようになるだろうと。
だからみんな一人一人が違っているからこそ、素晴らしいのだと思います。
多様性の時代って素晴らしいなと思う。
長くなったので「喪失感」は次に書きます。
私の一番古い記憶での色。
幼馴染と小学校1、2年とも同じクラスで、いつも一緒に居て隣には彼が居ることが当たり前だと思っていた。
小三でクラスが別れて1人になった時、初めて「寂しい」と感じた。
そこから彼を意識しだして好きだった事に気付いた。
1人が寂しい = 彼が好きだった
寂しさの方が最初だった。寂しさを埋める為に彼を求めていた?
1人になったのは私自身に問題があったからではなく、環境の変化で別れたという事。
私が成長する為にあえて1人になる必要があったと、今ならそう思える。
寂しさを埋める為に人を愛する(求める)のではなくて、その『寂しさ』を手放して1人の人間として相手を愛する。
自分で自分を満たし、それができて初めて人を無償の愛で愛する事ができるのかもしれないなと思った。
私が見ていたのはいつも自分の方で相手ではなかった。
だから私は初対面の相手の顔をなぜか覚えられない=相手をちゃんと見ていなかったのかもしれない。
私は人と付き合う事がとても苦手だった。
私の事を昔から知っている友人達とは普通に楽しく付き合えるのに、知らない人にはつい身構えてしまう。
自分の心をうまく出せない。
足りない事が多くて「ありのままの自分」にずっと自信が持てなかったのかもしれない。
人と比べる方ばかり見ていた。
でもありのままの自分を好きになれば良いだけの事だった。
うまく出来なくてもいい。それはそこから成長ができる「伸び代」があるという事だから。
ただ「今のありのままの自分」を認めて、成長を見せていけばいい。
人と比べるから違う事に欠けを感じるけど、同じでなくて良いんだ。
自分自身は最初からオリジナルというパーフェクトで生まれてる。
初めから欠けているものなんてなかったんだ。
足りないのではなく、生きているだけでそれだけで自分にとっては充分に「足りている」状態。
その状態が小さいか大きいかの違いだけで、それは魂の成長の大きさなんだと思う。
生きているという事は、それを限りなく大きくできるチャレンジでもある。
生まれてくる前に、自分は今回の人生で大きく成長するよ♪と自分に超えられる試練(設定)を作って生まれて来ているのかもしれない。
私の色の原点を考えてみて、私が今回の人生でやりたかった事が見えてきた。
「寂しさ」を手放して、自分自身を満たし、ちゃんと無償の愛を育てる事。
多分、それをやろうと望んで生まれて来たのではないかな。☺️
昔からなぜか計算高いというか損得勘定で動いていた自分がいることに気付いていたが、そのサガがやっと納得できた😅
邪念を捨てて、自分自身を満たして大きく育ちなさいと生まれる前の自分が言ってるような気がしてる。