気づきの日々

毎日、何気ない言葉や思いつきに、ふと気づかされる時があります。
そんな日々のことを書いてみることにしました。

自動ドア

2020-05-21 20:34:32 | 日記

ある人がこんな事を書いていた。

「自動ドアは、そこへ歩いていかないと開かない」と。

私は何もしなくても自然と開くのが自動ドアだと勘違いしていたよ。

なるほどね。

確かに遠くにいたのでは、そのドアは開かない。

そこに向かって歩いて行って始めて開く。

未来のドアも同じだと思った。

 

先の見えない暗闇の中で国が用意してくれる「動く歩道」の未来もあるけど、

私は自分でライトを照らして手探りでも自分の足で歩いて行ける未来に行きたい。

その未来の自動ドアを自分で開けたい❣️

 

 

 

 

 

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 シンプル

2020-05-10 15:39:52 | 日記
懐かしいドラマを見てて、前は素通りしていたのにハッとする時がある。
それって今の自分にタイムリーな言葉だからかな。
「野ぶた。をプロデュース」もそれだった。

好きな人の為にわざと自分の評判を下げるような行動をとって、それが周りの人達に広がり「そういう人だったの?知らなかった!」と評判を落としてしまう結果となり、好きな人から事の成り行きを心配されて彼女が言った言葉にハッとした。
「修二が本当の私を知ってくれているから、それがあるからいい」みたいな、私にはそう聞こえた。

そして彼のお父さんんも似たような事を言ってた。
「こんなに会えないのに、お母さんと結婚した意味あるの?」と聞かれ、「オレのカッコいいとこ、情けないとこ、くだらないとことか全部知ってくれていると思う人が、世の中のどこかにいるだけでオレはいいの。」
そう言ってた。

これって前に書いた記事の濡れ衣と状況は同じなのに、こんな見方もあるんだなと目から鱗だった。
私の場合はその環境が嫌で逃げて、ドラマの方は自分を全部解ってくれてる人が居るから平気みたいな。
自分から拒絶してるか、手を繋いでいるかの違いなのかなと思えた。

新型コロナウィルスも状況は似ているのかもしれない。
意外な記事をみつけたんだ。
《ウイルスは見えないテロリストのように一方的に襲撃してくるのではなくて、宿主側が極めて積極的にウイルスを招き入れているとさえ言える挙動をした結果であると。》

宿主の方から手を繋ごうとしているんだよ。
拒絶は感染したくないと拒否反応している状況で、感染が手を繋いだ結果だなんてねー。

この図はなんか似てると思ったら、さらに前の記事の「バージョンアップ」と同じだと思った。
パソコンはバージョンアップしないと古くて使えなくなるのだけど、アップするといろんな変化に対応できるんだ。
やれる事が無限に広がっていく。
昔のパソコンに今の仕事をさせると容量オーバーで処理出来ないから容量不足で消えていくしかない。
「拒絶は縮小の方へ、手を繋ぐことは拡張へと動いていくという」ただそれだけのシンプルな形があって、自分がどちらを選択しているのかの違いなのだけど、自分でそれが把握できないから心が弱くなったり逆に理解できるから強くなれたりするのかな。

縮小するばかりだとやがて消えてしまうし、膨張するばかりでも手に負えなくて自分で制御できなくなる。
そこはバランスなのかな。
どちらかに行きすぎているなと思ったら方向転換して軌道修正をする。

目に見えないものは正体が掴めないから怖いし不安だけど、よく見て正体が分かり始めたら不安は消え対処方法もいくつか見えて来る。
未然に防げるのは、逆に対応も出来ないと言うこと。
経験したからこそ次の教訓として生かせるのだから、手を繋ぐ事を恐れてはいけないね。

闇雲に感染を恐れるだけではなくて、今だから見えてきていることもたくさんあるよ。
今までなかった新しいカタチも、たくさん生まれてきているよ。
ドライブスルーの魚屋さんなんて今でなきゃ出てこない発想だし、ちょっと前までは想像さえできなかったよね。
選挙だって自分の一票がどう政治と繋がっているのか見えてこなかったけど、今回でよく解ったもの。

どんな環境でもそこから逃げないで「みえないもの」に光を当てたら、自ずと見えて来る事もたくさんあるから。
手を繋ぐ事を恐れないようにしないとなーと思いました。





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濡れ衣

2020-05-08 22:07:00 | 日記
ずっと不思議に思っていたことがあった。
洗濯した後に干して陽が当たってる服を見ていると、何故か幸せな気持ちになるということ。
特に理由はないのに心が嬉しくなるのはなぜなのだろうと、ずっと不思議だった。

今日も同じようにベランダで風に揺れている服を見ていて、ふと思った。
濡れ衣を晴らす?
濡れ衣を着せられて、それが晴れると確かに嬉しくなるね。
私の過去を振り返ったら同じように濡れ衣を着せられた経験が何度かあった。
私の場合は罪と言うよりは、勘違いによる人間関係のもつれ。

高校2年の時、クラブ活動の先輩から次のキャプテンを私にしようと考えているのだけどと言われた事があった。
2人で話していた時だったのでそんなに気にしていなかったら、ある日突然私が先輩に裏工作してキャプテンになろうとしているという噂がたった。
私は後輩からも疑いの目で見られて、私から頼んだ訳でもないのにと嫌気がさしてクラブを辞めた。

私は人間関係が嫌になって、そこから逃げてしまったのだ。
今になって考えれば、だいたい見えて来る。
当時は同級生のライバルの子がいたから、誰かが私と先輩の話を又聞きしてその子の耳に変化して入ったのだろう。
その子は憤慨してその事を口にし皆誤解したのだろう。
噂話や勘違いというものは、だいたいこんな感じで起きるものだ。

この話、前にもブログに書いた記憶がある。
でも今日同じように思ったのは、きっと私の中で濡れ衣の問題がまだ消化されていないのかも。
なので、よーく考えてみた。

濡れ衣は誰かが晴らしてくれるものではないのかな。
汚れた部分を自分で洗って整えて服を陽に当てる。
だから嬉しくて幸せに感じてしまうのかな。

誤解を解こうともせずに人間関係が煩わしくて、ついついその場から逃げてしまうのは私の悪い癖。
何度も同じこと繰り返していたよ。
自分で洗って、自分で濡れた服を陽に当てなきゃ!

誤解を解こうと歩み寄ること。相手とちゃんと会話して向き合うこと。
大事だねー。
面倒だからと逃げるな、自分!












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バージョンアップ

2020-05-02 16:42:00 | 日記
仕事を探していた頃、自分の経歴を履歴書に書く時につくづく思った事があった。
パソコンを使う仕事って昔の経験が全然役に立たないなと。
磁気テープからフロッピー、DOSからWindows、エクスプローラからアプリ。
時代と共にどんどん進化し変わって行くパソコンは、昔やっていた事が化石化して全く使えない経験となってしまう。
履歴書での職種の経験者という枠に全く入れないどころか笑われる事もあった。
いつまで経っても今までの経験が生きないわけで、積み重なっていない寂しさがあった。

でも最近思うんだよね。
今でもパソコンを使って、自分がやりたいと思う事が出来ている。
それって、私自身が経験の積み重ねの結果だったんだなと思えた。
目に見えないけど確実に積み重なっている。

無駄なことって何一つ無いんだね。





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