懐かしいドラマを見てて、
前は素通りしていたのにハッとする時がある。それって今の自分にタイムリーな言葉だからかな。
「野ぶた。をプロデュース」もそれだった。
好きな人の為にわざと自分の評判を下げるような行動をとって、それが周りの人達に広がり「そういう人だったの?知らなかった!」と評判を落としてしまう結果となり、好きな人から事の成り行きを心配されて彼女が言った言葉にハッとした。
「修二が本当の私を知ってくれているから、それがあるからいい」みたいな、私にはそう聞こえた。
そして彼のお父さんんも似たような事を言ってた。
「こんなに会えないのに、お母さんと結婚した意味あるの?」と聞かれ、「オレのカッコいいとこ、情けないとこ、くだらないとことか全部知ってくれていると思う人が、世の中のどこかにいるだけでオレはいいの。」
そう言ってた。
これって前に書いた記事の濡れ衣と状況は同じなのに、こんな見方もあるんだなと目から鱗だった。
私の場合はその環境が嫌で逃げて、ドラマの方は自分を全部解ってくれてる人が居るから平気みたいな。
自分から拒絶してるか、手を繋いでいるかの違いなのかなと思えた。
新型コロナウィルスも状況は似ているのかもしれない。
意外な記事をみつけたんだ。
《ウイルスは見えないテロリストのように一方的に襲撃してくるのではなくて、宿主側が極めて積極的にウイルスを招き入れているとさえ言える挙動をした結果であると。》
宿主の方から手を繋ごうとしているんだよ。
拒絶は感染したくないと拒否反応している状況で、感染が手を繋いだ結果だなんてねー。
この図はなんか似てると思ったら、さらに前の記事の「バージョンアップ」と同じだと思った。
パソコンはバージョンアップしないと古くて使えなくなるのだけど、アップするといろんな変化に対応できるんだ。
やれる事が無限に広がっていく。
昔のパソコンに今の仕事をさせると容量オーバーで処理出来ないから容量不足で消えていくしかない。
「拒絶は縮小の方へ、手を繋ぐことは拡張へと動いていくという」ただそれだけのシンプルな形があって、自分がどちらを選択しているのかの違いなのだけど、自分でそれが把握できないから心が弱くなったり逆に理解できるから強くなれたりするのかな。
縮小するばかりだとやがて消えてしまうし、膨張するばかりでも手に負えなくて自分で制御できなくなる。
そこはバランスなのかな。
どちらかに行きすぎているなと思ったら方向転換して軌道修正をする。
目に見えないものは正体が掴めないから怖いし不安だけど、よく見て正体が分かり始めたら不安は消え対処方法もいくつか見えて来る。
未然に防げるのは、逆に対応も出来ないと言うこと。
経験したからこそ次の教訓として生かせるのだから、手を繋ぐ事を恐れてはいけないね。
闇雲に感染を恐れるだけではなくて、今だから見えてきていることもたくさんあるよ。
今までなかった新しいカタチも、たくさん生まれてきているよ。
ドライブスルーの魚屋さんなんて今でなきゃ出てこない発想だし、ちょっと前までは想像さえできなかったよね。
選挙だって自分の一票がどう政治と繋がっているのか見えてこなかったけど、今回でよく解ったもの。
どんな環境でもそこから逃げないで「みえないもの」に光を当てたら、自ずと見えて来る事もたくさんあるから。
手を繋ぐ事を恐れないようにしないとなーと思いました。