先日の市民大学の講演会より
翔子さんが生まれた当時はダウン症への差別や偏見が多かったが
小学校は教職員の理解もあり普通学級に入学し、
存在を認められた気がしたそうだ。ところが突然4年生の時
特別支援学校への転校を求められ、学校への不信感から通学を半年拒み
お母様はご自身が取り組んでいた写経を教え、
翔子さんも一生懸命取り組んだそうだ。
確か1枚で278文字
それを毎日書いていたので、年間10万字以上。
この経験が書の基礎となった。
その後14歳の時父親が急死・・・(貿易商)
生前夫婦は、翔子さんが1人になっても自己紹介に困らないように
作品集を作ってあげたいと話し合っていた。
翔子さん20歳の時 個展開催に向けて、
創作活動を始め一度きりのつもりで開催した個展がメディアに
取り上げられ話題となり多くの美術館や寺院から開催依頼が殺到。
これが書家金澤翔子の誕生。
その後の活躍は誰もが知っている通り。
かくも純粋な翔子さんはどうして育ったのか??
お母様曰く
他者と比較されない環境で育ち、競争心がないこと。
時間感覚も【今この瞬間を全力で生きている】・・・と話していた。
書家としての技術や飛躍のきっかけは、
苦しみの中で切り開いた道であり、
闇は深いほど差し込む光が明るいことを、
さまざまな場面で感じてきたとまとめられた。
お母様の言葉一つ一つが胸に刻まれ、涙してしまった。
最後に翔子さんはピンクのジャケットに身を包んで
ダンスを披露した。本当はダンスが好きでやりたいとか。
会場は手拍子が鳴り響き、みんなが一つになった。
ブルベリーが上手く育たない
庭師さんが植え直してくれた
万年青の一種らしい