快晴。26-19℃ 朝の空気の清々しいこと、空気は秋だ!!
実は9月4日に書いた記事「思い出の童話」の本は、古本屋さんから届いている。
40年以上も前の初版で、この書き込みのせいでさらに50円引いていただいたが、折り癖さえついていない、大事に扱われていたことがわかる。
私もまた、こういうとこに古本を託せばいいのだ。
椋鳩十の「モモちゃんとあかね」はそのうちにここに書き写そうと思う、全ての猫好きさんに読んで欲しい、終生飼育して欲しいから。
色々していたら、猫(クロときーじ)はすでにバイオリンのところで待っていた。
で、クロを一瞬、バイオリンケースが増えたのかと思い、つい見てしまう。
逆にはきーじがいた。
練習を始めたら、クロは逃げて行ったが、きーじは付き合っていた。
ケースのビロードの猫の毛を掃除機、エチケットブラシでとっているが、スポンジも良い。
素晴らしい天気、日向ぼっこの猫と一緒に練習、
つまり、過酷な夏が終わったのだ。
そして、午後からは甲状腺科へ。
さて、歩道一杯に4人で並んでダラダラ話しながらの御夫人グループ、実は全員が母程度の年齢の、お喋り大好きグループのご近所なのだが、大声で話している内容が、嫁と孫と子宮wwww
私はこういうのが苦手で、そもそも子育てをしなかったし、このお元気な人たちは歳は上だけど、正規で働いた事や、親の介護の経験が無い。遺品整理も、後見人も、家の売買もだ。ご自身ががんとか大病にもかかっていない。そしてとても詮索好き、会話が挨拶以外、困るのだ。
追いついてしまうのも、追い越すのも大変なのだ。結局、自転車ゾーンに出て追い越したが、「私はどのグループにも属せないのだなあ」と、毎度思う。私の話なんぞはつまらないだろうし。
だけど、もう人生も後半、先は見えている。
お前は確かに何もやり遂げていない、
でも、あの人たちの年まで生きられたら、バイオリンの教本は全部終わっているよ、
いつか、あの本とこの本は読むって決めていたのじゃないのか?それ、読み終わっているよ。
確かに孤独だ、
だか、今夜も夜遅く友人夫婦が、病気の猫を保護したというLINE、
そういう温かい話を聞けるのだから、私の人生はもう十分だったのではないだろうか?
道端の花は、相変わらず夏と秋が同居している。
病院ではいつもの事、血圧100/80、+肺がんのレントゲン、胃カメラの予約、大腸がん検査の容器など貰って帰る。流れる音楽は相変わらず「思い出のサンフランシスコ」とかのオルゴール、いい加減マンネリで飽きないのかしらん?
薬局でも、待ち時間は「楽典」を読んでいた。
う?ううん?
ああああああああああ!( ゚д゚)ハッ!これはーーーーー、
あの映画のパロディ―ではないのっw
※『2001年宇宙の旅』アンサイクロペディアより
https://ja.uncyclopedia.info/wiki/2001%E5%B9%B4%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AE%E6%97%85
雑学、無駄知識ばっかり増やして、果たしてバイオリンの演奏技術が向上するのか超不安…。
薬を受け取り、夕暮れの街を帰る。
帰り道に、ドバトの羽根が一羽分散っていて、何かに襲われたのが予想出来て辛い。
空を見上げれば、街は、屋根屋さんがあちこちの家で呼ばれており、ようやく日常に帰りつつある。
帰りに100均に寄る、そして、来年のカレンダーと手帳を買った。
さて、
昨日の夕方、戸締りしていた時に、狭いドアの隙間から金色の眼をしたヤモリがするっと入ってきて、
複雑な網戸付きのドアの、網戸の上下するレールの狭い隙間に吸盤で貼りついて出てこない、尻尾を千切りたくない、そのままそっと戸締りし、忘れないように、今日は気を付けて出入りしていた。
しかし、夕方ドアを調べていて、かなり気を付けていたのに、蝶番に挟まれて死んでしまっていた、苦悶の表情のヤモリを発見した (つд⊂)エーン私のせいだ。
泣く泣くヤモリを庭に埋める。ヤモリとスズメは人と共生して生きている、廃墟や過疎の村ではうんと数が減ってしまう、ヤモリは卵で家具について移動するほど、人に密接な関係なのだ。
道端の鳩の残した羽毛、ヤモリの死。私は大好きな志賀直哉の私小説を思い出す。蜂の自然死、生きたいネズミの虐待死、イモリの不慮の事故死、そして作家の事故よる療養生活。命について考えた。
※【『城崎にて』 志賀直哉 】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%B4%8E%E3%81%AB%E3%81%A6
あらすじ
東京山手線の電車にはねられ怪我をした「自分」は、後養生に兵庫県の城崎温泉を訪れる。「自分」は一匹の蜂の死骸に、寂しいが静かな死への親しみを感じ、首に串が刺さった鼠が石を投げられて必死に逃げ惑っている姿を見て死の直前の動騒が恐ろしくなる。そんなある日、何気なく見た小川の石の上にイモリがいた。驚かそうと投げた石がそのイモリに当って死んでしまう。哀れみを感じるのと同時に生き物の淋しさを感じている「自分」。これらの動物達の死と生きている自分について考え、生きていることと死んでしまっていること、それは両極ではなかったという感慨を持つ。そして命拾いした「自分」を省みる。
今日も、暮れていく、
ずっとこの手帳を使っているが、今回はサイズを間違えた模様。
令和になったら、誕生日になったら、
そういう節目でスタートしたい気持ちは誰にでもあるだろう。(この場合は「一年の計は元旦にあり」に近いかな?)
来年の手帳や日記帳(今ではブログになったが)を買うたびに、
まだまだ、駄目な自分を見捨てていない、自分に気づかされるのだった。