国道18号線じゃなくて 軽井沢の西側から 信濃追分駅方面に向かう 県道佐久軽井沢線
少しづつ 拡張工事や舗装工事が長年続いて 道路状態がよくなって今は ・・ おっそろしく交通量がある
しなの鉄道の上を横切る跨線橋のところで うまく車同士がすれ違えず 歩行者用の歩道も無い・・
そんな 跨線橋の 橋の名前は 「 倉賀橋 」(くらがばし)
この名前は、いつかボクが話した 軽井沢の前身の 「 西長倉村 」と
今の御代田町の 「 伍賀村 」の地域を結ぶことから 村名から一字ずつとって 倉賀橋と命名したとのこと
命名したのはなんと 尾崎行雄氏(政治家「憲政の神様、議会政治の父」と呼ばれる)
大正3年には 英国公使別荘近くに 別荘を建て「莫哀山荘」と名づけ 軽井沢が好きで 訪れていたんだって
昭和2年(1927)12月に、 有志の寄付で(橋長90尺、幅員9尺)架けられ
その後 昭和34年(1959)架設)に 架け替えられたまんまなんだって
最初に架ける時には 著名人が寄付に 協力して応援したと伝えられているけれど
修理じゃなくて また架け替える時期が来ている気がするよね・・
看板の日付 時間帯に この道を通りそうな人・・忘れないでね ~ !
憲政の父か
いや憲政の父と崇められた
詳しい事は分からないが、憲政の父とはたいしたものだ
昔の人は、漢学の素養があった。漢学が必須だったな
漢学とは、一種の哲学なんだな
西洋では哲学があったが、東洋では漢学なんだな
それに、キリスト教が入ってきた
日本では、当時の知識人や支配者にとってキリスト教の影響は大きいな
何瀬、博愛、平等だから
宗教よりも、考え方であったろうな
まさに、光だったろうな
それが、どうして戦時体制、独裁体制に突入したか、突入してしまったか、分からないな