気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

鳥居峠 中山道幾多の戦場の舞台となった峠

2023-12-20 15:26:23 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ
中山道鳥居峠(とりいとうげ)を取り上げてみたいと思います

中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、
長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠
標高 1,197m

新鳥居トンネルを木祖村藪原方面に抜けて
明治新道を歴史ある鳥居峠へ向かいます

ナビ地図では林道が途中で行き止りとなっていましたが、
古の明治新道が鳥居峠迄伸びているように思え
弟の運転で悪路をひたすら先に進む事にしました(弟は度胸が座っています)

古の車道を200m進むと中山道遊歩道が交差
中山道の古道が見えます 中山道石の道標



この先は中山道遊歩道

鳥居峠とありますが残り1.4km先に本当の鳥居峠があるようです

鳥居峠について記されている案内板周辺

鳥居峠付近まで来ました
路面が至る所で凍結している箇所がありました
1890年(明治23年)の長野県による七道開削事業により初めて
車道として開通した明治新道(馬車が通れる道)
この先は奈良井宿までつながっているようです



古の中山道道標

鳥居峠は右上にあるようです
弟が鳥居峠の場所を探してくれました

中山道遊歩道の案内先に
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑があるようです

明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑
天子が行幸の途中、一時乗り物をとめることを意味しています

古の中山道が残っています

明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑の先に鳥居峠
標高 1,197m

鳥居峠
713年(和銅6年)、美濃国と信濃国の境で
東山道の神坂峠(岐阜県中津川市・長野県阿智村)が
危険な為に新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが
「岐蘇(吉蘇)木曽路」である
吉蘇路(きそじ)の鳥居峠は、かつて「県坂」(あがたざか)と呼ばれていた
木曾谷地方の信濃国編入以前は、
峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(信濃川水系)と、
西側を南に向かって流れる木曽川(木曽川水系)との
中央分水嶺と境峠(長野県道26号奈川木祖線)
・木曽峠・清内路峠・鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境であった
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた
平安時代後期、以仁王の令旨を受けた
源義仲(木曽義仲)は平家追討の旗揚げをし、
八幡宮にて挙兵の奉納をした後、県坂(現在の鳥居峠)
御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り
「我が事ならば、この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている

奈良井宿側より眺める鳥居峠

「鳥居峠の合戦」は伝承が非常に多く
一度の合戦では無理があるので、
ここでは西筑摩郡史・岐蘇古今沿革志等の二度の合戦にて追記する
1549年(天文18年)4月、甘利左衛門を大将とする
武田晴信(後の武田信玄)の軍勢と木曽義康の軍が鳥居峠で衝突
武田軍は敗れ、兵を引く
1555年(天文24年)3月、武田晴信は本隊を分け、
一隊は鳥居峠、もう一隊は奈良井川支流の陣ヶ沢、
別動隊を萩曽(現在の木祖村小木曽)とする3隊で木曽軍を攻める
木曽義康は鳥居峠を下り敗走し、
小沢川の合戦、王滝城(崩越城・鞍馬城)の合戦に負け、
篭城の末に武田の軍門に下る

鳥居峠(とりいとうげ)より奈良井宿方面の峠道を眺める
松尾芭蕉は貞享元年の野ざらし紀行と
元祿元年の更科紀行の2度、鳥居峠を越え、
「木曽の栃浮き世の人の土産かな」、
「雲雀よりうえにさすらふ嶺かな」の句を残した

鳥居峠付近より眺める御嶽山方面の山並


最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう




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境峠(さかいとうげ)工女も越えた峠道

2023-12-16 12:33:31 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県松本市奈川と木曽郡木祖村藪原を結ぶ
『あゝ野麦峠』に描かれる工女も越えた
境峠(さかいとうげ)を取り上げてみたいと思います

境峠(さかいとうげ)
境峠(さかいとうげ)は、
長野県松本市奈川と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠
標高は1,480 m 現在は長野県道26号奈川木祖線が通っている
古代から中世にかけて、鳥居峠同様、美濃国と信濃国の国境にあり、
北が信濃川水系、南が木曽川水系となる
宝暦7年(1757年)の『吉蘇志略』では「木曾坂」となっている
北麓の奈川寄合渡と南麓の藪原芝原には
「尾州岡船」と呼ばれる中馬の中継問屋があり、
峠にあった板橋を岡船が櫛木をつけて渡る様子が葛飾北斎の
『今様櫛きん雛形』に描かれている 
中山道藪原宿から野麦峠を超えて飛騨国に向かう近道であり、
『あゝ野麦峠』に描かれる工女もこの道を利用した

野麦峠旧道を散策した帰り道 長野県塩尻に向かう途中
立ち寄ってみました 峠らしからぬなだらかな山越えの道でした

境峠(さかいとうげ)
長野県木祖村と松本市の境にある長野県道26号(奈川木祖線)途中にある峠
木曽町日義神谷を経て伊那市にかけて境峠-神谷断層帯が北西から南東方向に通っている
周辺は白樺林が広がっていて、木曽路の藪原宿で国道19号を離れ、
奈川渡ダム(ながわどだむ)で国道158号に合流するのが
長野県道26号(奈川木祖線)で、
実は中京方面と上高地・乗鞍を結ぶ最短ルートとして活用されてきました


最後まで御覧頂きありがとうございます
来週18-19日迄、中山道の宿場町 奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿に
出かける予定です 帰り道、雪景色の中央アルプス宝剣岳に
立ち寄れたらと思っております(厳冬期の中央アルプス宝剣岳を眺めるだけです)
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野麦峠 あー野麦峠の舞台旧街道を歩く後編

2023-12-12 10:37:17 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置する
あー野麦峠の舞台旧街道を歩く 野麦峠後編を取り上げてみたいと思います

あー野麦峠の舞台旧街道を歩く後編
旧街道を野麦峠へと登って行きます(登り空身で50分程)

1968年(昭和43年)に出版された山本茂実のルポルタージュ『あゝ野麦峠』
について記されています

野麦峠旧街道の案内板



野麦旧街道を野麦峠へ

整備されている野麦旧街道を進む



野麦旧街道に設置されていた風化してしまっている石仏

急坂を登り詰めると緩やかな旧街道が続く

野麦旧街道に設置されていた石仏

野麦峠直下に設置されていた石仏群

野麦旧街道入口に設置されているあゝ野麦峠石碑

旧街道を登り野麦峠迄戻ってきました

野麦峠より眺める飛騨乗鞍岳

野麦峠お助け小屋
江戸時代に高山が天領となってからは代官が往来に利用したほか、
越中富山の薬売りが各地に出向く際にも利用された 
しかし、峠道は厳しく、幕府は願い出を受けて天保の頃に頂上に「
お助け小屋」を設置した
明治の初めから大正にかけては、
当時の主力輸出産業であった生糸工業で発展していた諏訪地方の岡谷へ、
現金収入の乏しい飛騨の村々の女性(多くは10代の少女)が
女工として出稼ぎのためにこの峠を越えた 
この史実は、1968年に発表された山本茂実(やまもと・しげみ)の
ノンフィクション『あゝ野麦峠』で全国的に有名になった

野麦峠お助け小屋 営業中でした

お助け小屋内部には『あゝ野麦峠』の映画化された
写真が飾られています

『あゝ野麦峠』続編 新緑篇の映画出演された女優写真画像
中井貴恵さん、三原順子さん、岡田奈々さん、石田えりさんが
続編に出演されていたようです

お助け小屋内部 当時が偲ばれる囲炉裏部屋

『あゝ野麦峠ヒロインの政井みねさん実際の写真が飾られています
政井みねさんは一番左側です



『あゝ野麦峠』
1968年(昭和43年)に出版された山本茂実の
ルポルタージュ『あゝ野麦峠』の映画化作品である
山本薩夫監督、大竹しのぶ主演(政井みね役)で1978年(昭和53年)
11月にクランクイン、11月と翌年2月に1週間ずつ野麦峠で撮影が行われた
1979年(昭和54年)6月に全国一斉に公開された
若い人気女優たちの共演や抒情的な主題曲などで人気を集め、
社会派映画としては突出したヒットとなった
20世紀初頭 「野麦峠」は岐阜県と長野県の境に
位置する地名でヒロインの政井みね(大竹しのぶ)は13歳の少女、
みねの実家は父母と2人の兄に加えてまだ小さい4人の弟妹を抱えており、
みねは苦しい家計を助けるため岐阜県飛騨地方の寒村から
長野県岡谷市の製糸工場に行く
みねの仕事は、繭を煮て生糸を取る「糸取り」という
作業 労働は「過酷」という言葉では形容できないレベルだった
朝4時半に起床、洗顔、トイレを慌ただしく済ませた後に
朝の労働 7時に朝食を10分で摂り、また労働 昼食も立ち食いで10分、
再び夕方まで労働 15時間近く働いた 職場環境は劣悪で、
気温40度に達する工場は締め切られており、
日光も風も入らない蒸し風呂状態 結核菌が繁殖するには絶好の条件だった
やがて、みね自身も結核に感染して重度の髄膜炎を発症する
しかし十分に医療を受けられず、隔離小屋で寝かされた後、
工場を訪れた兄の辰次郎(地井武男)に背負われ、
郷里の飛騨に戻るところでみねは息を引き取る

雪深い冬の険しい野麦峠越え手前に設置されていた石室跡
災害等で崩壊した石室を再建したもの

石室再建の記


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野麦峠 あー野麦峠の舞台となった旧街道を歩く前編

2023-12-08 11:26:57 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は岐阜県高山市と長野県松本市の県境に位置する
あー野麦峠の舞台 野麦峠を取り上げてみたいと思います

野麦峠と飛騨乗鞍岳
野麦峠(のむぎとうげ)は、岐阜県高山市と
長野県松本市の県境に位置し、飛騨国と信濃国を結ぶ
鎌倉街道・江戸街道と呼ばれる街道の峠
乗鞍岳と鎌ヶ峰の間にあり、標高1,672 mの地点にある

明治時代には飛騨地方で現金収入が乏しく
貧しい農村の13歳前後の少女たちが、
諏訪湖畔の製糸工場まで野麦峠を越えて通っており、
年の暮れに稼いだ金を故郷へ届けるために、
雪深い冬の険しい野麦峠を徒歩で再び越えて
飛騨へ向かっていた
厳冬期の野麦峠は猛吹雪や雪崩にも見舞われ、
野麦峠越えの途中で(遭難して)命を落とす少女たちも
少なくなかったといわれる

『あゝ飛騨が見える』と言い残して死亡した
政井みね(右)像

政井みね(右)像

『あゝ飛騨が見える』と言い残したと思われる奥飛騨乗鞍岳





あー野麦峠の舞台となった旧街道難所を往復してみました
下り30分、野麦峠への上り50分



旧街道に設置されている石仏群

石仏再建の記
信飛国境の難所 冬季肌を刺す烈風と氷雪に凍死する
行路者も多く村人はその霊を慰めるべくこの地に三体の
石仏を建立して冥福を祈ったとある





野麦旧街道を下っていきます





冬季の積雪期であれば下りも、上りも難儀なルートで
あったと思われます
厳冬期の野麦峠は猛吹雪や雪崩にも見舞われ、
野麦峠越えの途中で(遭難して)
命を落とす少女たちも少なくなかったといわれる

秋の野麦峠への旧道入口


最後まで御覧頂きありがとうございます
あー野麦峠の舞台となった旧街道を歩く後編へと続く
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馬籠峠(まごめとうげ)中山道有数の宿に囲まれた峠

2023-11-19 11:39:12 | 登山に通った峠道
こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にある
馬籠峠(まごめとうげ)を取り上げてみたいと思います

妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にある馬籠峠(まごめとうげ)
馬籠峠(まごめとうげ)は、
長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川市の境にある旧中山道の峠
標高790メートル

妻籠宿と馬籠宿の両宿の間にあり、
中山道の宿場町の中でも史蹟として保存状態の良い
両宿を含めて観光地として訪れる人も多い 峠には
「白雲や青葉若葉の三十里」という正岡子規の句碑が建っている
峠の名前は馬籠宿に由来するものであるが、
反対側の妻籠宿に由来する妻籠峠(つまごとうげ)という呼び名も
江戸時代には行われていた
かつては長野県内の峠だったが、
山口村が中津川市と越県合併したことで
県境の峠となった峠道は中山道の旧道と岐阜県道・
長野県道7号中津川南木曽線が並走し、
分岐と交差を繰り返している

馬籠峠(まごめとうげ)に立つ道標

右方向旧道 中山道

馬籠峠(まごめとうげ) 標高790m

馬籠峠 峠の茶屋と馬籠宿方面を眺める



馬籠峠(まごめとうげ)バス停

馬籠峠 峠の茶屋

馬籠峠から妻籠宿へ



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