気ままなピークハンターズの山旅

日本百名山の頂と風景や国内旅行を中心とした絶景を掲載致します

三国街道史跡を辿り中山峠長刀坂へ

2023-06-06 18:54:34 | 登山に通った峠道
こんにちは!
本日の掲載記事は三国街道史跡を辿り中山峠長刀坂へと題しまして
太平洋側と日本海側を最短距離で結ぶ旧三国街道
旧三国峠から永井宿までの旧道
現在でもいにしえの街道の面影をとどめている
三国街道の史跡辿り吾妻郡高山村中山峠への
風景をお届けしたいと思います

三国街道塩沢宿の風景
街並みも綺麗に整備されて町おこしが進んでいるようです

高田藩の高田城の城下町と塩沢宿を結ぶ松之山街道の分岐点でもあった為、
交通の要衝として発展していた
塩沢宿は、特産品である越後上布や塩沢紬などの織物の産地として、
また全国有数の豪雪地として知られてきた
現在の塩沢宿牧之通りは塩沢らしい街づくりを目指し、
当時の宿場町、雪国特有の雁木の町並みの風情が再現された
江戸時代の名著「北越雪譜」の著者鈴木牧之にちなんで名付けられた

はっか糖の製法が店内に掲示されています
三国街道塩沢宿に立ち寄ったのは江戸時代からの製法の
はっか糖を買い求めるためでした
水あめにはっかを混ぜてチョーク状に引き延ばしたお菓子

はっか糖を購入した青木商店から次の目的地に向かう

三国峠から旧三国街道史跡を辿る

旧三国街道をトレッキング
かつての三国街道の山道がほぼそのままの形で残されている

いにしえのの旅人もこんな風景を見ながら
山越えをしたのだと思います



旧三国街道にある石仏
いつのころから旅人を見守り続けているのでしょうか



誰とも行き交うことも無く静かな山道を進む



長岡藩士雪崩遭難の墓
元文5年2月5日 - 越後長岡藩の藩士7名と人足4名が罪人の移送中、
雪災にあい遭難し亡くなったとのくだりが記されている

長岡藩士雪崩遭難の墓 藩士7名



三国街道 国道17号へ下山していきます



新緑の山道を国道17号へ下山していきます

三国街道 国道17号に下山してきました

永井宿(みなかみ町)に立ち寄ってみました
戦国時代に春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信が関東侵攻の為、
三国峠を開削すると次第に重要性を帯びるようになりました
永井宿の大欅(推定樹齢450年、目通り幹周4.7m)は、
永井宿「泉屋」の初代笛木九助が永禄2年(1559)に
家屋を建てた際に屋敷の鎮守である稲荷社の御神木として
植えたと伝えられている事から、
少なくとも上杉謙信が三国峠を開削した前後から
永井集落は宿場町的な存在だった事が窺えます

永井宿の屋号が記されている

永井宿の面影は残っていますが、村民の方は
日常の生活を営んでいらしゃるようです

永井宿の屋号の面影が残る古民家

永井宿の屋号の面影が残る古民家
普通に日常の生活を営んでいらしゃるようです

三国街道の関所
猿ヶ京関所跡

三国街道の関所 猿ヶ京関所役人の住居跡

旧三国街旧三国峠を行き交う際、旅人、商人、武士が関所
に立ち寄ったのだと思われます(現存する猿ヶ京関所)

猿ヶ京関所資料が記されている

三国街道「中山峠」にある「長刀坂」に立ち寄ってみました

三国街道「中山峠」
表日本と裏日本を結ぶ最短路として、
北越長岡・新発田などの五大名と佐渡の金山奉行の通路として
江戸時代に栄え、日本海の海産物や越後米、
そして佐渡の金などもこの街道を通って江戸へはこばれました

なぎなた坂の歌碑は昭和9年(1934年)の建碑
三国街道(旧道)のなぎなた坂の中腹にあったものを、
現在の県道36号沿いに遷している

なぎなた坂歌碑の隣には山神宮の石宮がある

なぎなた坂歌碑
「杖をだに重しといとふ山超えて 
薙刀坂を手婦理(手振り)にぞゆく」と記されている
道興は関白・近衛房嗣の子 幼少期に出家し僧侶となっている
寛正6年(1465年)に「准后」宣下を受けたことから道興准后と呼ばれる
聖護院の門跡であったことから、
末寺の掌握のため文明18年(1486年)から東国を巡廻している
その際に中山峠を通り鎌倉に向かう途中、当地で詠んだ歌である

帰り道立ち寄った蕎麦の人気店 群馬高崎市
つゆ下 梅の花本店 蕎麦
モチモチ系のボリュームがある のどごしの良い蕎麦でした
今日は平日で並ぶ事無く入店出来ました

ボリュームのある舞茸天も注文
揚げたてサクサクの美味しい舞茸天でした



最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう












コメント
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