アンソニー・ボーデインという人がいます。
正確には「いました」といわねばなりません。
今年の6月に自殺したからです。
彼は料理店のオーナーシェフで、若い時には荒んだ暮らしをしていましたが、店を持ち料理本がベストセラーになってからは講演やテレビに引っ張りだこになりました。
私が彼を知ったのは、ディスカバリーチャンネルで流れていた「アンソニー世界を喰らう」という番組でした。
番組そのものもおもしろかったのですが、冒頭に1回、番組中の CM 明けに3回、必ず注意書きが入るのです。
「この番組には不適切な発言が含まれます」
1回ならともかく、CM 明けに必ずですよ。
いや、彼の人格そのものは、至って常識人なのです。
料理の腕は一流だし、礼儀正しい。
ところがホスト(その国で案内してくれる人)などと懇意になったりナレーションになると、いきなり「ピー」のオンパレード。
番組の3割から4割がピーだったこともあります。
それって「含まれる」のレベルじゃないだろ。
以前は字幕放送だったのでピーは関係なく楽しめたのですが、数年前から吹き替え版に変わり、本当に意味がわからなくなってしまいました。
いまとなっては、それまでに録画した皿が宝物です。
字幕版で再放送してくれないかなあ。
「放送禁止用語」というものがあります。
この話は1回では終わらないので小出しにしますが、いまテレビなどでピーの入っている部分のほとんどは、「本当の」放送禁止用語ではありません。
テレビ局やラジオ局が「自粛」として消しているか、演出的に入れているものです。
演出は別に好きにやってかまわない。問題は自粛です。
たとえば川を暗渠にするように、穴や溝にただ蓋をすることを、昔から「目くら蓋」といいます。
また、自分にだけ情報が入ってこない状態にされることを、昔から「つんぼ桟敷におかれる」といいます。
どちらも目や耳の不自由な人を侮蔑する意味では使いません。
ところがこういうのに噛み付く個人や市民団体はどこにでもいるように、メディアが使うとぎゃあぎゃあわめきます。
それを避けるために、メディアは最初から使わなくなります。
これが、自粛です。
また、景山民夫が「東京の乞食」と書いたところ、東京都から文句がきたそうです。
「東京は浮浪者などにも福祉を施している。
いま東京に本当の意味の乞食はいない。
いないものをいるかのように表現するのはやめていただきたい」
景山氏、「だったらお前らゴジラっていうなよ。徳川家康っていうなよ」と反撃していましたが、この一件が象徴するように、世界の言語の中でも多彩で複雑な日本語を「自ら使わない、他人に使わせない」言葉狩りが横行しているのです。
逆に、犯人と同姓同名の人物のブライベートがネットで拡散して迷惑をかけたりしている。
これはメディアがあまりに言葉狩りの自粛をするので、その反動で世間が「本当に口にしてはいけないこと」を腹いせに大声で叫んでいるように私の目には見えます。
ことばをいちばん大切にせねばいけないメディアが、ことばをいちばんないがしろにしている。
多くの人に問題意識を持って欲しい、と私は思います。
アンソニー氏の自殺の原因は一説によると、孤独からくるうつ病だといわれています。
店を持ち、テレビで多くの人々と接していても、かえって孤独になるのでしょうか。
ほとんど人と会わない私は、さらに気をつけないといけません。
彼の冥福を心より祈ります。
正確には「いました」といわねばなりません。
今年の6月に自殺したからです。
彼は料理店のオーナーシェフで、若い時には荒んだ暮らしをしていましたが、店を持ち料理本がベストセラーになってからは講演やテレビに引っ張りだこになりました。
私が彼を知ったのは、ディスカバリーチャンネルで流れていた「アンソニー世界を喰らう」という番組でした。
番組そのものもおもしろかったのですが、冒頭に1回、番組中の CM 明けに3回、必ず注意書きが入るのです。
「この番組には不適切な発言が含まれます」
1回ならともかく、CM 明けに必ずですよ。
いや、彼の人格そのものは、至って常識人なのです。
料理の腕は一流だし、礼儀正しい。
ところがホスト(その国で案内してくれる人)などと懇意になったりナレーションになると、いきなり「ピー」のオンパレード。
番組の3割から4割がピーだったこともあります。
それって「含まれる」のレベルじゃないだろ。
以前は字幕放送だったのでピーは関係なく楽しめたのですが、数年前から吹き替え版に変わり、本当に意味がわからなくなってしまいました。
いまとなっては、それまでに録画した皿が宝物です。
字幕版で再放送してくれないかなあ。
「放送禁止用語」というものがあります。
この話は1回では終わらないので小出しにしますが、いまテレビなどでピーの入っている部分のほとんどは、「本当の」放送禁止用語ではありません。
テレビ局やラジオ局が「自粛」として消しているか、演出的に入れているものです。
演出は別に好きにやってかまわない。問題は自粛です。
たとえば川を暗渠にするように、穴や溝にただ蓋をすることを、昔から「目くら蓋」といいます。
また、自分にだけ情報が入ってこない状態にされることを、昔から「つんぼ桟敷におかれる」といいます。
どちらも目や耳の不自由な人を侮蔑する意味では使いません。
ところがこういうのに噛み付く個人や市民団体はどこにでもいるように、メディアが使うとぎゃあぎゃあわめきます。
それを避けるために、メディアは最初から使わなくなります。
これが、自粛です。
また、景山民夫が「東京の乞食」と書いたところ、東京都から文句がきたそうです。
「東京は浮浪者などにも福祉を施している。
いま東京に本当の意味の乞食はいない。
いないものをいるかのように表現するのはやめていただきたい」
景山氏、「だったらお前らゴジラっていうなよ。徳川家康っていうなよ」と反撃していましたが、この一件が象徴するように、世界の言語の中でも多彩で複雑な日本語を「自ら使わない、他人に使わせない」言葉狩りが横行しているのです。
逆に、犯人と同姓同名の人物のブライベートがネットで拡散して迷惑をかけたりしている。
これはメディアがあまりに言葉狩りの自粛をするので、その反動で世間が「本当に口にしてはいけないこと」を腹いせに大声で叫んでいるように私の目には見えます。
ことばをいちばん大切にせねばいけないメディアが、ことばをいちばんないがしろにしている。
多くの人に問題意識を持って欲しい、と私は思います。
アンソニー氏の自殺の原因は一説によると、孤独からくるうつ病だといわれています。
店を持ち、テレビで多くの人々と接していても、かえって孤独になるのでしょうか。
ほとんど人と会わない私は、さらに気をつけないといけません。
彼の冥福を心より祈ります。
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