pretty woman story again

本と花と映画と音楽、
ドラマに私自身の物語、
華の 80 歳にあと1年🌹
(´∀`*)ウフフ

1@葬送行進曲とでも、私だけの我が家だけの場合についてのみの思い

2020-01-15 | #日記

          1/15

 

蕾もいっぱいついて咲きそうなのを足元に乗せて、久々のチョイ遠くへの運転をしたら気が晴れた、なにせ籠ってたので

あの家どうするんだろうね~?のあの家の心配をして貰って恐縮です、まあ黙っててもつぶれそうな家だし惜しくはない

ので使い切ろうかな?

中をリフォームしといてよかったわ~ぉひとさまのぉ出入りが多いだろうと先を見越して、私が行き来の時から手入れ

してたので、その分、住みやすい、春夏秋は庭先眺めて過ごしやすいんだよね~介護にも最適だった!

 

35 日忌まで

 

Mrs.centuryの一番若い従妹の線香あげ、とはいえ私よりぉ年上、お持ち込みのぉ団子で茶を飲んだ、

私たちにしては珍しいことだけど~

言葉とはなんと不思議なパワーをもたらすんでしょうか、「今は疲れてるでしょうけど、姉さん(Mrs.century)には

とてもよくして貰ったから、Pちゃん、何か困ったことがあったら何でも言ってね、よくやった!」後々まで付き合う

と思えた、

いつからか力づけられたことはないのよ、なんたって孤軍奮闘風な日々だったもんで、好きでしてるんだけど、

 




 

従姉夫婦が線香をあげに来た、父方でたった一人残った従姉でMrs.centuryに親切だった、ので私も馴染んで過ごしてる

久々の飲み会をした、献杯ということでね、

 

持ち込みの野蒜をお浸しにして子が肉を焼いてbeerを飲んだ、この頃引きこもりだったから、笑いも出ていい時間だった

なんだか辛気臭い(失敬!)日々が続いたので気分転換がしたかったからさ、

これで雪なんかが積もっていようもんなら、もっともっと長い時間を重い気持ちも含めて過ごさなきゃならなかったと、

思っただけでも冬の陽による気分の明るさに大助かりです、

雪を仕事になさってる方には甚だ申し訳ないことを言っちゃいました、ごめんなさい、

 



四七日(よなのか)も過ぎるとなんだかやっと緊張感が解けてきたような気がする、なんたって葬儀の時の志の手違いや

更にお届や気を遣うことが多くて、出かけることもなく、まあニートくんの引きこもりのような~ふふふ

フード付きのパーカーを着てコタツムリ~そりゃあ疲れましたってぇ、食事がしたくない、作りたくない、という現象に

私自身さえ呆気に取られてる、一通りあちらこちらへの品の配送を終え、花の手入れをしホッと一息ついてたら無気力~

 

👆 手抜きです、疲弊だから、

あちらこちらへの粗相がないかの確認をしながら言われた「そんなに完璧にしようとしなくとも~~~」まあねぇ、

Mrs.perfectだもんだから性分で致し方なし だわ、

 



四七日(よなのか)

寒い部屋のせいか花は萎れず水やりをしてればあの日のままのような感じで、そうそう日が経ったとも思えない、

それでも花は葉の一部が枯れたり花が咲き切ってしまったのもあって、手入れしながら色々な思いに浸った、

様々な方々のぉ気持ちを受けながら花にかこまれて101Mrs.centuryも99叔母とこの辺りにいるのでしょうか、

セレモニーホールから運んでもらった花が、母の家の廊下で鮮やかに咲いててくれることが嬉しい、

そして私は密かに独りでちょっと献杯!このようにMrs.centuryを送れて心底いいな~と思ってるのよ、

あれから初めて一人涙に暮れて、でも悲しいんじゃなくて哀しいんじゃなくて、甘い涙にくれて、

「お母さん、ありがとう、そして叔母ちゃん、ありがとう、可愛がって貰って感謝です」  

 




ひとの記憶は曖昧なところもあって、だんだん傷は癒えてゆくもんなのね~お日柄ものというように、

雪が降らなかったのがせめてもの冬の葬儀にはぉ慰め、雪の仕事をなさってる方々のことを思えば言えないことだけど、

 

ぉ世話になったDr.にご挨拶に行ってきた、診察中にもかかわらずゆるやかで優しい口調でご対応頂き、

ヤングDR.の手厳しい口調を思い出し、つくづく年の功を感じた、私も十分な老いだからそうありたいなあというような、

 

お年寄りのご夫婦が待合室に、奥の院様が車いすでご主人と思しき方が話しかけておられた、「上着はいいのか?」

「病院の中は温かいから要らない」と応えていた、老々介護のようだった、

結局は優しさだよね~と思い、白髪のオトコの方は気遣いのできるぉ方のようで、見ていて何だかいいなあ~ってね、

 

 

ゆずポン酢がいいですわね、

 



納骨の予定

父が独り眠ってる墓にMrs.centuryを納めることになるんだけど、生前よく言ってた言葉があって「私は実家の墓がいい」

Mrs.centuryの実家びいきや実家ファミリーへの思い入れはとても強かった、

その分、父方ファミリーの扱いが粗雑だったとも言える状況は私にもよくわかる、嫁だったしね、目の上のたんこぶ

とでも言おうか、まあ、Mrs.centuryは負けず嫌いの性分だし、プライドが高くてね、

当時にしては珍しくも資格持ちのオナゴだったので分からなくもないけど、婚家に子連れで同居して、父は戦地となれば

誰もが経験したでしょうけど、唯一、仕事が出来たから心は晴れてたでしょうね、

 

姉を3人ももったその弟である叔父は「いいんでね~が?父母(私には祖父母)も祖父母(私には曾祖母)も入ってるし

賑やかになって、それにmiss98姉ちゃんも独りだから当然だし、俺もそのうち入るわけだし~な」

シスコン・叔父は楽し気に言っていた、まさか本音じゃなかったろうけど簡単に考えてたんだろうね~

そして叔父が先に墓に入り、三番目の叔母が先に婚家の墓に入り、miss98はその実家の墓に、その地の風習で先に入り

Mrs.centuryは49日に父の墓に入ることとなり、こればかりは希望は呑んであげられないなあ、

 

この墓は父母二人が入ってしまえば、娘たち(私たち)は嫁に出て苗字も違うしそれぞれ婚家の墓に入るのだけど、

これが兄弟姉妹は他人の始まりの所以だろうかと、ふと思った、私も【D】の家の知らない人がいっぱい眠ってる墓

よりはシンプルな父母の墓のほうがいいなあ~とは言っても、これまた詮無きことと分かっちゃいるけどね、

墓って何?

 

喪に服してる身だけどコメントの応酬が懐かしくなってきました、きっと気分的に余裕がでてきたんでしょうかね?

納骨まではなんとか身を鎮めていようと思ってるけど難行苦行だよ~~~話したいわ、ネタ満載だしね、

ブログで謹慎?するようなことじゃないけど、

 



マイ・ナンバー・カード

Mrs.centuryの奉行関係の手続きや、Mrs.centuryの年¥の停止の届けのために、

名字の異なった私たち親子は親子であるとの証明をしなければならず、このように面倒だっただなどと、今更ながら驚愕

国民年¥と共済年¥と、地元と関東と二つの処理をするために、私が娘である証明記録が必要で、本籍の明記が必須、

そうなると戸籍謄本が一番だものね、父の名も母の名も夫の名も(喪主だしね、その氏名も必要なのよ)一目瞭然!

二通用意して事に当たった、めんどーくさかった、

 

「マイ・ナンバー・カードがあるといいんですけどね」って言われたって、カード紛失などによるプライバシーの侵害を

思えば尚更、超高齢のMrs.century、高齢者の私も、今までその必要性に行き合っていなかったものだから、

ましてやMrs.centuryに至ってはこの作業すらする気のない暮らしだったので、結局、奉行の中を通帳と印鑑と運転免許証

とを持ち、3窓口をまわり、ご丁寧な質疑応答などされて苦笑、残までご確認のご様子、奉行ってそんなに偉いんか?

連れの本籍地に謄本の申請をする傍ら、居住地の住民票やらを取り、同一生計とか世帯主とか、

結局二世帯同居でオチがついたけど、「本人が亡くなりましたのでお届けします・長女」で済まないもんかね?

 

それにしてもこのような面倒な残務を、父が亡くなった時、Mrs.centuryは独りで熟したのね~そういえばその時はまだ、

Mrs.centuryは 64歳だったもんね、楽々だったかぁ~私ゃ74歳だから苦行以外の何物でもなかった、

 



式の流れ

煩雑だったらありゃしない、やはりこれは若者向きの雑処理だけど同一住所で二世帯家族となってるから比較的楽ったら

楽なほうらしい、遠隔地に暮らしてたら、書類の数がまたまた増えてやってらんないほど煩雑だったと、

ならば早めに私が行ったり来たりしながら、住所を実家にして暮らした歴史が良かったんじゃないのさ?ホラね~

こういうのを先見の明というんじゃなかったっけ?

このくらいの美味しいもの頂かなきゃ精進ではアタマが回らない ということで、

 

さて奉行、Mrs.centuryの死亡届から始まって、死体埋火葬許可証なるものを受理、ご遺体を二日ほどお家で見守るのに

線香は絶やさない、蝋燭は絶やさないなどと、まるで時代が違うじゃない?のような時を過ごす、

この時は精進なので疲れがどんどんたまって備蓄してた栄養分は減っていく、

とまあこのような通夜の前の状態で既にダウンした私は点滴とあいなった、それでもお供してくださる方々のための、

私もbeerを頂いちゃったからの始末、

 

そして奉行に出向いた従弟と◎の連れの役所での煩雑さから、

「申請者は同居人の娘のP子で、それはそれでいいのだけど本籍地を!」本籍地は勿論【D】の戸籍に記載されてるんだけ

ど番地まで記憶にはなかった、そこで【D】に連絡するもウン丁目まででその後区画整理で変更になって、これまた記憶

にないという、アホか?(失敬)

その時、義妹を思い出して電話、元住んでた実家の住所を教えて~と言ったら「どうしたの?離婚でもする?」

笑いながら言った、そういう夫婦の私らの、ややこしい立ち位置ではあるけど「そうじゃないから大丈夫だよ」と言い

やっとゲット!!! 大体もう家も撤去して地べたも売買したんだし住所もねー?本籍地を住んでる都下に変えるべきだった、

面倒くさいわ、

ちなみにMrs.centuryは本家が本籍地だったのを、さっさと現住所に変えて意地を通したのだった、本籍地を転々とする

のもどうかとは思うから、今ならもういいべにと思った、

本籍地は居住してるところに置くのが一番いい、遠隔地に残しておくのは面倒だった、

 

そして私は嫁にいったこの家の娘だから、【D】の戸籍に入ってるからそれを提出!に至っては小為替入りとし、

請求封筒を出し、向こうの奉行から送り返して貰うというきわめて煩雑な事務処理だった、

それを完璧にしないと埋葬許可がでないことになるから必死だった!速達の行き来が、そしてやっと許可が下り通夜の

会場へとMrs.centuryを連れて行った、

会場は程よい広さで、でも遠戚が遠慮させられたという事態に私は気が気じゃなかったのよ、宿敵め~

でもまあ段取り通りすすんでゆくわけで、流れに乗って動いた、というより無意識に動かされたような、こういう時には

余計なことは考えられずに、また考えなかったほうがよさげな、

坊様の巧みな運びにより、マイクを通す司会者さんの静かな声調で事が進んだ、そしてそれでもと遠戚の方がお出でに

なり、弔辞と別れの謡をMrs.centuryにと、朗々とした聲はあらためて式の品格を上げて下さったようで感嘆した、

更にMrs.centuryの孫の年長の娘が、話しかけるような弔辞を上げ、焼香手向けに入った、

 

 


 

この年になってこんなこと言うのも噴飯者だけど私は今回でやっと親離れができたような気がする、

最後の一か月のMrs.centuryの入院中は言葉にできないほど寂しかった、インフルによる面会謝絶もありMrs.centuryが

どのようなな姿で臥してるかも分からずも、呼吸はしてるとのこと、

五分ほどの面会が許された時にはハッキリした意識と目力から退院も予測、家にいて介護してるときは何とも思わず、

仕事のように熟してたけど、手をかけないとなると妙に心がしずんで泣けてきた、

恋しかった、こんな気分になるなんてその時まで感じなかったし、

そして一か月が過ぎ別れの瞬間から私の心からMrs.centuryは離れていったような気が、その後は殆ど涙は流してないよう

な気がする、時には滲んだかな?

思い切りMrs.centuryへの思いに浸りきって、更には親子が離れる儀式の前の一か月の時間は、私にはどうしても必要

だったのだ、その後のセレモニーや他家へのご挨拶や、ご接待には殆ど涙はなく優しい時間を共有して恙なく時を・・・

Mrs.centuryの実家は屋根こそ葺き替えられたけど、従妹夫婦の尽力でそのまま、

 



 

曹洞宗

二七日(ふたなのか)を家で子とお膳と線香を手向け手を合わせた、父の頃なら(39年前)七日毎の供養を家で人様を

招き膳に向っていたものだけど、

今じゃあ先もって既に経を上げてもらい供養としてる、葬儀当日にその経の後、精進落としをして粗酒粗肴を振舞うわけ

だけど、その時にもこっちに住んでる私が、一言挨拶をしてスベった、少しの笑いをとろうとした邪心がいけなかった!

まあ何とか繕って飲んだり食べたり喋ったりして、故人をしのぶというよりは、単なる飲食会のようで、私としては気楽

で楽しくいい時間だった、

 

さて戒名について、ぉひとによっては無用のものとも、

父は農家の後継者になりたかった処、諸般の事情で、親の意向もあって勤め人と、そして戦争に行き後、シベリア抑留者

とされ、私が3歳(昭和20年生まれ)に、父方実家に帰還、

代用教員だったMrs.centuryと父ファミリーと同居してた頃だった、その頃、父方の実家に、祖母、伯母夫婦、従兄夫婦、

その下の伯母、伯母、叔母、叔父が住んでた、

その上、従姉3人が家業を手伝いながら学校に通っていた、そこに勤めてたのがMrs.centuryで、従姉たちは私の授乳の

ため、私を宿直室におんぶして行ったのだ、

私の従姉たちへの感謝の念や温情は、ここから湧き出るものと思える、

 

この家の婿たちはなぜか早々に逝ってしまって、オナゴ所帯のようなものだった、ここの私の従兄の(とはいえ父は、

わずか4つほど歳上という事実)長男が、その人が私の宿敵の本家の長男の父、というややこしさで、私とは2つ違いで、

世代が違う摩訶不思議な現実だ、

祖母は40代で父を産み、伯母は20代になるやならずかで従兄を産んだことになる、その子の位置が私と本家長男という

ことになる、

 

父が帰還した時は体調が優れなかったらしく、祖母はせっせとスイカを煮詰めて、スイカ糖を作り父の快復に努めたと

いう、家族揃っての歴史は、その頃は当たり前のことだったろうけど、私には大事な思い出、父方ファミリーの一人

ひとりが懐かしく顕つ、

 

そのような背景を持つ父に戒名をと言われたら、当時の私は30代半ば、「一番いいのにしてちょうだい!」と、確か葬儀

代表だった従姉の父親に言った

仕組みも知らなかったけど、Mrs.centuryが独居を誇り高く続ける支えとなればいい、そしてこの度のお坊様の父君は、

父 👇 に、その背景を考慮して授けて下さったのが

「永光院芳雲崇徳居士位」先代のお坊様にはとてもご縁があって、Mrs.centuryと、福祉関係で同行の機会が多く、私も

子連れで来る度にお参りに行っていた、

その時、今の度の協力者である子に、まだ幼稚園児だったのに言っていた、「あなたはこの家の責任者となる方だから、

母を護り家を護りなさい」現実にそうなってるところをみると、徳の高い方だと心底思えたから、私もその頃は素直だっ

たのだよ、

 

さてMrs.centuryは農家の第一子長女として生まれ、祖父母にこよなく愛された、その次に生まれたのがこの度亡くなった

次女であるmiss 98 叔母となる、三女は一足先に嫁に出た、

けど長男が(母の弟)が生まれると女子は蚊帳の外状態で、後継者溺愛で、高膳で仏間で特別仕様の食事を祖父と並んで

するというほどの扱いだったとのこと、

それでも小柄で農家には嫁に行けぬだろうと 👆 母を見た祖父はMrs.centuryを女学校に入れて職に就けるようにして

くれた、母の頑張りぶりは叔父叔母から聞き、更にはこの目で見続けてきて、私にはない性分だわと感嘆、

 

Mrs.centuryが働いてるときには母方実家で私は暮らしてた、曾祖母、祖父母、先のmissの叔母、養女に来た叔母、叔父、

叔父、そして農業を手伝ってた住み込みの男衆が二人と大所帯だった、

私はその中で一人だけの子供だったので今思えば可愛がられてた、特に子のいないmiss叔母はわが子のように遊んでくれ

たものだった、こちらのファミリーの一人ひとりも顕つ、

 

私を大事にしてくれたので、諄い様だけど、出来るだけのことはしたいと思い戒名に至る、

大¥持ちでもあるまいにそこかい?と思われるとは思うけど、なんたってこの家が無くなり苗字は消え両親のみの墓

ともなれば先行き暗澹、せめてもの私の思いを子は受け止めて鷹揚にも¥の一端をを担ってくれた、娘も恩恵には浴して

たから担ったのだ、私の育て方がいいからよ、ふふふとはジョークに似てても私の本音、借りは返すのが道理、

 

 

それを数えてた娘が言った「ここの葬儀は¥が飛ぶんだね~」(笑)

「永壽庵晶聲惠歌大姉位」晶子の文字、本人の名、短歌の歌、そして偶然にも大好きだった弟(私には叔父)の名の壽も

入ってた、例えば墓が無くなり名が消えても一時でもいいから感謝の意を親に、

贅沢などしなかった親だったんだもの、このくらいはね~もちろん私は【D】の苗字なのだからそうなるし、子には重荷

を残したくはない、子に【D】の墓守りさえかわいそうだと思ってる、

そこにはいません~~♬と歌われてるんだし、知らない方々と同じ墓ではね、この先それを阻止できる手立てがあったな

ら探し出したい、私のような思いはさせたくはない、時代が違う、その為にこれからの日を充てて過ごしてゆきたい、

まあローカルのこの風習をここで止めるわけだから、私としては仕舞うばかり、

 

 



 

 

ぉ他所の葬儀の話を延々とされてもなんだかなあと、そりゃ思いましょう、でも最近の私には取り急ぎ、この話をし終え

ないと次にすすめないのでね、

 

3人の娘が嫁に出てしまって後継者がいない家だもの、今までならどーすんだぁ?だった、そこへ出しゃばり私が入り込ん

で、頼まれてもいないのに介護をメインタイトルにした、

Mrs.centuryは84歳の現役バリバリで何ら不自由はしてなかったから戸惑ったらしい、先見の明がないわね、こういう日が

くるのよ~その前の介護暮らしだって娘がいればこそ、

その存在感を示し大事にされたといえなくもないのは現実なのよ、だから、老いの独居の自由と引き換えに破天荒な娘と

の同居はMrs.centuryにとっては最初は不本意だったろうし、◎たちにも言葉にしてたらしいけど、

この日を想像した私は徒労と思ったことはなかった、福祉ももちろんいいけど、その前に出来ることはしてみた方がいい

悔いがゼロってなかなかないと思うよ、

 

 

終わりよければいいんじゃない?と、今は私は思ってるけど、△◇達にも言い分はあるはず、それはそれでいいけどさ、

このお姉さまの(=私よこの私 ふふふ)深謀遠慮に気づかないとは、

そんな思いも葬儀の煩雑さと血脈ということでなあなあにならないとも言えないけど、だからなあなあになれないという

それぞれの持ち味で距離感ができて当たり前、

徐々に血は薄まっていくんだし時代も変わっていくんだし、生きざまも価値観も、

すっかり飛んでイスタンブール~~~♬

 

 

それで喪主は誰なの?という究極の選択に迫られた、そりゃあ葬儀屋さんに頼むわけだから、新聞にも掲載の運びとなる

奇想天外な登場人物じゃ話のローカル・ネタになるだけで、

なら私は介護に協力して呉れた 子 がいいと、けど、親がいるのにローカルじゃ、孫が喪主じゃ奇想天外のうち、そりゃあ

そーだわね~

字面は長女の夫、それが一番妥当だろうと、離れて暮らしててホンとのところはまだ夫婦なの?と喧しい世間様にご納得

頂くには丁度いい機会かもしれないと、

介護もこうも多岐に及ぶと色々な暮らし方は止むを得ずの時代だもの、

 



悲しみの中にもちょっと笑いがあるのは葬儀の定番で、ではありますけど、まさか大往生の葬儀とはいえ葬儀は葬儀です

なのに娘がプリントアウトした謝辞をスッキリ読み上げて終わった!と思った瞬間、

喪主の挨拶の段、【D】は駆け付けただけの喪主だというに「私に3分時間をください」ときたもんだ、遺留捜査かい?

上川さんならいざ知らず、そしてあろうことか、言うに事欠いてですよ~

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と、「わたしもそうのうちだとは思いますけど」嘘こけ

とか付け加えちゃって~(苦笑)

天下人と並べてどうする?と今までの私なら憤怒だったはずだけど、エナジーは皆目残ってなかったし、葬儀での挨拶

なんて皆忘れちゃうのが常道よ、

【D】で登場してる夫は何を思ったのか、freeトークにはいちゃった!

思わず坊様の木魚も心なしか止まったような、やってくれるぜ~と私は思いながら、

来ただけ上出来だと思っていた、この期待薄の夫に私は思っていた、

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」これからはこういうスタンスで【D】と、距離感を持って夫婦をやっていく

しかあるまい、不届きな夫婦の葬儀でのスベリだった、

百歳葬だし、Mrs.centuryもあの世から「相変わらずふざけた夫婦だ」と思っただけだろう、



 

介護 

 介護によって起こる齟齬は全くもって個人個人のキャパに因する、

どのような困難苦難があったとしても介護した者へのクレームと、たられば言い訳は頂けないなあとつくづく思ってる、

同じ子としての立場だったはずなのに、長い介護の末の葬儀となれば休む暇のないスケジュールは避けられない、

そこを巧く補ってくれるならいいのだけど、現実はなかなかそうはいかないのよ、

 

Mrs.centuryが100歳を迎えた時、しかもショートの方々に見守られ、奉行から賀詞を頂いたとき、

介護してきてよかったなあとつくづく思ったものだった、悔いることが一つもないほどだったし、

出来る限りのことはし尽くした!感が大きかったからね、やればできる、懐かしくさえある、

 

どんなに気を入れて介護しても必ずや「あーしてやればよかったかな?」の一つや二つはあるというけれど、

私がよほどノー天気だからか「Pちゃんにしてはよくやった!」しか思えないからぉ気楽っちゃあお気楽と、

でもね、Mrs.centuryに、私がまだ青春だった頃すごく迷惑やら心配やらかけたからね~

ここでそれを赤裸々告白したら面白いんだけど、まだそこまでフッきれていないので、折りがあったら ね、

ということでMrs.centuryに対して、プラマイナスゼロ!!!を目指しただけなのよ、



私など、この強靭な心身の持ち主で、まるで悪魔のようなオナゴでも越えられなかった、精進だったしね、この慣習NGだ

夜中は眠れず目まいが襲ってきてフード付きのパーカーを被るようにして寝てもダメ、

翌朝、Mrs.centuryのお世話になってた病院へ駆け込み、点滴の憂き目、精進の日々でしたのでね、2時間の時を経て帰宅

する前、事情を先刻ご承知のDr.は仰った、

「食べなきゃダメですよ、beerは水分じゃあありませんからね」脱水症と寝不足だった、

笑うしかない体たらくでした、今でも備蓄してしまった疲労は全身に、いいんだけど、



 

平等

子らの平等ということについては耳にすることが多い、そりゃあ同じ親の元に生まれ、同じ環境で育てられ教育を受け、

何ら差別感なく日々を過ごせたはずなのに、何故かそこには、いい知れぬ不平等があるらしい、

親の年齢や置かれた状況や、子の持って生まれた性分や考え方は千差万別、そもそも平等を云々する方がおかしいと、

思えないこともない、

親のせいで思い通りの選択ができなかった等とは親に失礼というもの、この時代、努力の仕方でどこにでも可能性は転が

ってるはず、躓く石も転がってるけど、

大正マダム夫婦が親だった場合は殊更価値観が、特に戦争をどこでどのように迎えて、それによる弊害が異なれば、子を

育てるときに思いは数知れないこととなる、

 

  

入院中のMrs.centuryを思いながら正月を迎えられるとは思っていたから、正月風な皿はね、

そして無事元日を迎え頂いた年賀状にぉ返事を書き、少し心に余裕はあった、 

到底出来なかった、新しいガラスを用意するなどとは到底出来なかったから、古いガラスの一部を使って文字入れをし

一日の夕方には一部を投函できたのだった、

「今年は自分にも時間をかけたいから一緒に遊ぼうね~」などと友には伝えたのよ、



 

老いの暮らし方

数多あるMrs.centuryの歌の中に「・・・たった独りに・・・」の言葉を、見つけた私は、いかに強くしかし鎮かに生きて

いようと寂しさはあると感じた、

 

殊更、このあたりの農村においては多世代家族の多い中、老いた親夫婦二人きりの暮らしは、思っても想像に難くない、

父は農家の後継者の身の男子にありながらも、末子という立場であったから、長子である父の姉(私には伯母)に

婿がきていたので、家を出る立場にあった、

祖母は身を立てさせようと、少しばかりの田を持たせて公務員の道へと自立させた、仕事を終えた頃には農家として自立

できるほどの田で、米を上納させての小作貸しの体で、

祖母の思いも複雑だったろうとは思うけれどもまたこの祖母が粋なオナゴだったのだ、

明治のオナゴで農家の長女(どこの誰だなんて野暮な推量はごめんね)で婿取りで、この抱いてるオボコがわが宿敵だ、

こうしてみると可愛いもんだったのね~でも今はいい爺様ですからね、

 

父方祖母のエピソード、

野菜を採ってはリアカーに載せて売り歩いてた、そしてその売った¥が貯まるとどこへいくと思います?

昔、街の中に栄えた料理屋があって、そこへ酒と肴を楽しみに出かけてた、ある日、繋がった襖仕切りの部屋で飲んでた

祖母の耳に聞き覚えがある声が、

それが父とその同僚だったというから面白い、何度書いてもおかしさは変わらないのよ、

 

ところで本家長男はなぜ私んちの葬儀で遠戚に知らせもせず、近隣の村知らせを阻止したのか疑問でもあった、もしや

相手方がそう希望したのか?でもそうならわざわざお届けにお出でにはならないはずだし線香さえあげないはずだという

のに、今思えばちょっと想像できることがある、

オナゴ所帯だというのに近隣様を蔑ろにせず極めて心からお付き合いさせて頂き、粗相がなさ過ぎた?

そう言われてもなあ~Mrs.centuryがしてきたことをし続けただけなのに、まだまだ近隣との相互扶助が活きてる農村だ

もんでね、「オナゴにしてはよくやった!」等と言うくらいなら遠戚を勝手に外さないでほしかったわ、

そちら様の行事でしたらいいのにね、



 

親を送る

Mrs.Centuryを華やかに送りたかった、百年の長きを病に臥すこともなく、地道に暮らして、父の転勤には否応なく同行

し、三人の娘の子育てに邁進し、

趣味に生き、山野草を植えて愛でて、野菜を作り、出来る限りの忍耐をして、だもの好きな花に囲まれてのシーンを用意

したかった、

Mrs.centuryの遺影を選ぶには苦労はしなかった、100歳記念のあの可愛い横顔をと思ってた

でも女優じゃあるまいしという意見が出て、ありきたりな96歳ごろの写真となった 👆

この生花のうねりが気に入って、またこの祭壇の前での入棺の式はとても穏やかで、孫やひ孫の揃い踏みでいかにも

優しいMrs.centuryの人がらを思い起こさせて好きだった、

お気に入りの大島紬を身に纏い棺の中に静かに横たわっていた、

 

内容が内容だというのに一寸ふざけ過ぎだと仰るお方々もおられましょうが、我が家の葬送は極めてライトな感覚で、

農村ですから手抜きは控えめに、伊達にあるわけじゃない大往生という言葉そのものでした、

親族、近隣、子や孫やひ孫に囲まれ、ちょっと涙ぐみながらもお疲れ様満載のね、

 

と思ってたら五日後に👇Mrs.Centuryの妹👇miss.98があっ気なく姉の後を、こちらも恙なきまま現在に至り、姉にひかれる

ように静かにスーッと、

こういう若かりし頃の二人👇はまるで連れ立つように川を渡ったのでしょう、そこに哀しみがないわけはないけどね、

言葉にはしたくないだけなの、



 

miss.98は独身(どこの誰と野暮な推量はごめんね)でしたので実家の従妹夫婦や私たち同じメンバーに送られて恙なく、

五日後のmiss.98の地元での葬送でした、従妹夫婦には感謝の気持ちがふつふつと、

以前にも掲載しましたところ、リアル・ネームで言及された覚えがありますので、なにとぞ享年101歳と享年99歳の、

合わせて200歳の姉妹のお話しゆえ、どうか苦笑交じりでスルーして頂きたい、供養ですので、

どちらも絵に描いたような大往生でしたから余談は数知れず、おいおいエピソードを、



 

家が絶える

三人の娘がいながら皆嫁に出て苗字を捨ててしまった、後継者のいない家に父母は、二人寂しく暮らしてた、その時私は

思ったのだ、せめて老後は身を惜しまず尽くそうと、そして出来るだけのことはしようと、

それから関東との往復を始めて、やがてはこっちにに多く暮らすようになって、そのための日々だったし、ブログもそう

だったんだから、これまた、終焉に近いかな?

だから捨て身で書いてるわけだけど残したい文章だから、ゆっくり楽しみながら記していくのです、

 

なにせ私のいかなるわがままをも通させてくれて見捨てずにいてくれた親だもの、せめて最後ぐらいは人間として、

子としての責務じゃないかとね、

いくら嫁に出て苗字を捨てる結果になったとしても、親は親、子は子なんだから、ましてや親が孤独の身に在れば、手を

差し伸べるのが子であり、育ててもらった恩義に報いるくらいの度量がほしいものだわ、

オトコならそれができて当たり前で、オナゴがしちゃあいけないなんて道理はない、したけりゃ工夫、努力してすれば

いいのだ、そこが私と◎達との齟齬の元だった、

婚家大事なら御託は並べないでそっちに徹すればいいし、実家を思うなら動けばいいのだった、今更ジローだけど、

 

今どきの葬儀事情は複雑で、所によりあるいは導師様のお考えにより、当事者により異なる、これは仕方のないことで、

どれがどうとは一刀両断できないしするものではない、



 

本家別家

古い話で恐縮だけど今更、本家別家論争もどうかと思うけど、本家という名跡にでんと構えて、別家たちを遍く面倒みて

た時代とは違い、今どきは自分のことで精いっぱいな時だもの、

都合のいい時だけ本家なんて、若者に笑われる、けど、面白いこともないわけじゃあない、先達になって(これはいい)

アチコチに頼みもしない電話をしたことが気に入らねぇ(江戸っ子じゃないけど ホホホ)

 

「世代交代もし、君たちも関東で暮らすんだろうし、今まで通りの葬儀をして近隣、親せきに、迷惑をかけるのは何だか

ら縮小して、村知らせもしないでお招きも控えて+*‘!”#$&’*」

したり顔で本家の長男が言い始めたのがMrs.centuryが亡くなって家に帰った時だった、

この辺りでは先ずは寺に知らせて日時を相談し段取りすることになっていて、それは喪主が

出向くものでもないし、親族の者が伺いを立てることになってる、そこから違うでしょ、

当事者の意志は当事者じゃなきゃ分からないし、希望もあろうものを、一方的に親せきの線引きをしちゃって、遠い親戚

を外しちゃったから腹が立った私、

葬儀の当事者は亡くなったとはいえ大正マダムであって、世話になったのもその筋の方々の言わば同士の親族様が、

先だろうに、大体、本家長男は私の従兄にあたる者の後継者、世代が違う

年恰好は同じでも、世代交代というなら、これから世代交代しそうな時なのだ、

 

本家長男の思いとは裏腹に近隣の方々や、避けられたように名が消された遠戚は、Mrs.centuryのためのため悪天候にも

かかわらず弔問にお出でくださった、目まいするほど申し訳ないと思い込んでた私には光明だった、

今まで通りの対応をしてくださった近隣には殊更感謝したし、遠戚の方々にも深謝した、

そして失礼した遠戚を回りお詫びとぉ品を、Mrs.centuryの気持ちとしてお届けし、

またセレモニーホールにお出で頂いた方々にも、気持ちを込めて回って行き届かなかった旨を説明して了解を得た、

ホッとした、



Mrs.centuryが最後の入院中は見舞いも含めて子と一緒の時が多かった、そりゃあ寂しさにうちふるえ、何とか時間をやり

過ごすしかなかった、それでも行事は追いかけてくる、

そして食事をきちんと取らないと体はもとより心もでしぼむ、ということで食べた、

 

幸いにも当時は食欲もあり、Mrs.centuryの安否確認は病院で診てもらってたから、

気は楽といえば楽だったことは事実で、でも退院できるとは思っていた、



今思えばラスト・クリスマスだったんだよね、この頃はMrs.centuryも酸素と点滴は受けていた、

それでも力強さはなく、淡々と呼吸してるというような、

私たちへの視線は動き、頷いてあげると頷き返すような感じとなっていった、 



Mrs.centuryが亡くなって聞き及んだ同級生の懐かしい声の便りが続いた、客待ちのような日々だったから、

とても慰めになった、だって17歳からの付き合いだし、途切れた時があったとしても何となく続いてたから、

皆元気でキラキラ輝いてたあのころとは違って、老い街道をテクテク歩いてる、というより歩かされてた、

「連れが亡くなりました、あなたもお気をつけて」「同級生が認知症になって車いすだからってお嬢さんが言ってた」

「離婚して子のところへ行って亡くなった」「連れが歩行困難になり一時も目が離せないのよ」「歯が抜けた」

「家から出たくないし誰にも会いたくないから電話だけ」「連れを施設に預けてしまった」「連れがカテーテル」

「免許返納した、しなきゃよかった」「親の介護が長引いて、私のほうが倒れそうだわ」「連れが私を離さない」etc.

ウーーーン、私にもよーく分かるわ、

老いの試練の道を、今まで生き抜いてきたんだし、老練な会の一員だし、必ずや越えられると思ってるけど、

77フェスには集おう!ということになった、

 

私は考えた、時がまだまだ経たず噂も沸騰してるところで何をやらかしても上手くいくはずはない、

そこで急きょ 49 日法要を3姉妹夫婦(私の遠隔地【D】はさておいて子)のみで、お寺さんでお経を頂き、

そのしきたりを護り怠りなくして、雪があろうとなかろうと納骨を済ませると算段した、

そしてその旨を書面で先ずはお坊様に伺いを立て、お招きした、しない論争を緩和することとした、

どちらも立つし私自身が火の粉を被ればそれで済む、そこに異論があったら黙殺、

きっとMrs.centuryは同じ思いなど幾度もしてきたと思うし聴いてる、こんな本家長男の横やりに

最早、腹も立たない代わりに母方実家関係には不義理だけど百か日法要でケジメをつけることにした、

それはまた後に書くこととするけどね、※コロナで止む無く中止となった



とはいえ子には何の罪もないし、おそらくは今なら子らはそのパパの極悪非道(あらごめ~ん)ぶりには気づかないわね

もし打ちひしがれるほどそのパパが反省してるなら(ワイドニュースで円脱)ここは一つ「私たちパパ要らない」と、

子らが言ったらそれは別だけど、ママよ、子らのために二人で育ててほしい、子にはそんなにひどくはないパパでしょう

「私たちのために離婚しなかったの?」と、対等に子らと話ができるようになるまで時間をかけて欲しい、

子らは意外ですけど両親がほしいんじゃあないのかなぁ、二人が元気なんだもの、今ならまだママ次第だと思うので、

どうしても堪えられないなら無理にとは言えないけど、

 

したたかなぉ嬢ちゃん、ぉ他人様のオトコは狙っちゃいけないエリアのひとなんですよ、とかく他人のものを欲しがる

オナゴは多いけど、そういうぉひとになってはいけません、いつか必ずあなたにも分かる時がくるでしょうけど、

殊更、「あーたの旦那さんに優しくしてもらってるのよ~」と、言葉にしたりするオナゴもいるのが世の中です、

それでもそういうぉ方にも理屈があって、「そんなに大事な連れなら、家の中に閉じ込めておいたら?」

などと屁理屈をいうぉひともおられるから太刀打ちできませんのよ、

「親御さんがお気の毒」とのご意見もありましたけど、それは教えなくちゃいけませんでした、10代の頃のぉ嬢の行動は

まだまだ本人が責任を意識できるものじゃあありませんものね、みんな勉強させて貰ったでしょうか、

 



 

コメント
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