心安らぐひと時をあなたと・・・

「美しい日本語」の歌を世界に広げよう!
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高山千代美

チャンスは誰にでもある!その2

2015-05-05 | 今日の一言

ちびっこクラブを、一緒にやってくれたのが、同じマンションに住んでいた

神野朋子さん、武蔵野音大を出て、高校の音楽教師をしていた彼女は、

本当にピアノの腕も確かで、しっかりしていて、一緒にひっぱってくれました。

ちびっこクラブは、4年半やりましたが、他が忙しくなり、辞めました。




それから、三男が生まれ、長男が幼稚園に入ると、私は幼稚園のお母さんコーラスに入りました。

そこで、出会ったのが、山下やよいさん、国立音大を出られて、ピアノの先生や伴奏者として

活躍されていました。

他にもピアノを教えている方も近所に何人もいらして、ピアノの発表会や、

福祉施設でのコンサートなどで歌ってほしい、とお声がかかるようになりました。

そのうちに、私は幼稚園のコーラスの指導者になりました。


時期を同じくして、近所のお母さんに、子供に勉強を教えてほしいと頼まれ

半年間断り続けたのですが、とうとう教えることになりました。

生徒は口コミでどんどん増えていきました。その中には、学校へ行けない子や

学習障害のお子さん、普通の塾には絶対に行きたくないという子もいました。

私の手帳はスケジュールでいっぱいで、いつも真っ黒でした。

たまに、生徒をすっぽかしてしまうこともありました。

生徒が帰ったあとには、テーブルの下で、三男が寝ていたこともありました。



そして、1996年春、プレゼントファンという雑誌に「あなたのCD作ります」という

公募がありました。日本マーキュリーレコードという会社の企画で、一枚だけ出したはがきが

選ばれて、2時間の録音があたり、5月8日大安の日に録音しました。

その時に山下さんのピアノで歌ったのが、「母を想う時」です。

子どもの時に、母が病気で入院していたこと、私が教師を辞めるときに母とケンカしたこと

などなど、ふと思いつきで、母との出来事を綴り、歌の間に朗読しました。



このCDは、かなり反響がありました。

もちろん一番喜んでくれたのは母でしたが、みんな涙を流して聴いてくださるのです。

自分の歌で感動してもらえると実感したのは、このころかもしれません。




幼稚園のコーラスを卒業したお母さんたちに、もっとコーラスを続けたい!という声があがり

地域の公民館を借りて、コーラス「三色すみれ」が誕生しました。

最初は、神野朋子さんの伴奏でしたが、彼女が引っ越すと、高橋寛子さんの伴奏になりました。


住んでいたマンションの隣には、障害者の施設がありました。

こんなところで歌ったらいいだろうな~と思っていたので、そこにお願いして

三色すみれで、コンサートを開くようになりました。他にも老人ホームでも毎年

コンサートを開きました。



それでも、私は40歳までに自分のライフワークを見つけたい!!と思っていました。

アメリカで覚えたデコパージュや手芸も好きで、周りの友達に教えていましたし、

家に勉強を習いにくる生徒もたくさんいました。




そして37歳ぐらいの時に、ある方に「ひとつ」というCDを頂きました。

高橋晴美さんという方が作られた歌で、ミネハハさんという方が歌っておられました。

とても素敵な歌でしたので、この歌を次の福祉施設でのコンサートで歌いたいな~と思って

高橋晴美さんに連絡をしました。そして、トントンと晴美さんとのご縁がつながり

晴美さんのところで、彼女の作った歌を習うようになりました。

子育て中の主婦にとって、一回1万円のレッスン代はとっても高価でしたが、

家で勉強を教えていたので、なんとか捻出することができました。

晴美さんとはとても親しくなり、合唱団を作ったり、当時は彼女の右腕!と呼ばれて

まるで秘書のように、名簿を作ったり会報を作ったり、全部ボランティアでやっていました。



それが数年続きましたが、横浜に引っ越した2001年、9.11事件をきっかけにして、

私も自分で歌を作りはじめ、2002年に、「21世紀の子どもたちへ」というCDを作りました。

その伴奏は、その前に知り会った吉田典代さん(井上文代さん)にお願いしました。

彼女は、寄り添うような丁寧なピアノで支えてくれていました。

一緒に何度も自宅で録音して、自分たちの演奏を聴いては練習をしました。



やっと、40歳までに見つけたいと思っていたライフワークが、音楽であることが確信でき、

自分で歌を作ることに、すっかりはまってしまった私は、晴美さんのお手伝いや合唱団を辞めて

自分の歌作りに専念しました。

その後、吉田さんは結婚して水戸に引っ越され、ピアノ伴奏者を探していたのですが、

20代の時に伴奏してもらったことがある永瀬純子さんにお願いすることにしました。



編曲者も探していたのですが、インターネットの不思議なご縁で、林満代さんに出会い

そのまた先生の宗川博先生に出会いました。宗川先生には、一度しかお会いしたことがないのですが

23曲のも編曲をしていただきました。

永瀬さんのピアノで、そのうちの17曲を録音しました。

それが、2005年12月に出した「虹の輪」というアルバムです。


つづく・・・・








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チャンスは誰にでもある!その1

2015-05-05 | 今日の一言
たまに「どこの音楽大学を出られたのですか?」と聞かれることがありますが、

私は、音楽大学を出ていません。

ただ、まったく考えなかったわけではありません。

1回目は、高校3年生になる時、音楽室に音大進学希望者が集められ

音楽の先生から説明がありました。

それには、一応参加しました。高校の時は、合唱はやっていましたが、

ピアノを習うことも中学で辞めていたし、声楽以外に楽典や聴音などいろんなことを

習わなくてはいけないと聞いて、音大への興味はゼロになりました。

それで、高校2年から理系クラスにいたので、中学からの夢であった数学教師を目指したのです。




大学では、合唱団に所属し、指揮者の鈴木茂明先生や、作曲家の高田三郎先生の指導を受ける

機会にも恵まれました。また大学3年になったときから、大学の合唱団のボイストレーナーだった

河野美年子先生に、個人レッスンで歌を習いはじめました。河野先生はメゾソプラノで

東京芸大、二期会を出られたとても素晴らしい先生でした。

ちょうど1年ならった3年生の春に、筑波大学の大学会館の小ホールでの演奏会に

ソロで出演し、プッチーニのアリア「ああ、愛しのお父様」と「イタリア歌曲を歌いました。

その頃です。河野先生から、宮崎の母に電話があり、

「千代美さんを東京芸大に進学させたいのですが、お母さん、ご理解いただけないでしょうか。

私が必ず合格するように責任もってやりますから」と言われたそうです。

しかし、母は、あと1年で卒業だし、卒業したら宮崎で教師になると思っていたので、断ったそうです。

私は、そのことを、後から聞きました。




その後、宮崎の延岡市で教師になりましたが、当時、藤原歌劇団で主役を歌っていらした

日越喜美香先生と出会いました。

たまたま見学に行った延岡混声合唱団で、隣に座った方に、「この辺にいい歌の先生はいませんか?」と

聞いたところ、東京から月に一度宮崎に帰って教えていらした日越先生を紹介されたのです。

そして、日越先生にレッスンを受けるようになりました。10月ごろでしたでしょうか、

先生がレッスン中に、「チャンスは誰にでもあるのよ、ただみんなやろうとしないだけなのよ」と

仰いました。私は、その言葉に心動かされ、教師を1年で辞めて、また上京しました。

大学で情報科学を学んだので、第一勧銀システム開発に再就職して、働きながら藤原歌劇団の研究生を

目指しました。そこは、音大を出た人が受験するところです。

日越先生も、大丈夫と言って下さっていたし、絶対に受かるだろうと思って受けたのに、一度目は失敗。

高校受験、大学受験、就職試験と、これまで受験に落ちたことのない私にとって、初めての挫折でした。



やがて日越先生は結婚して広島に引っ越され、そのあともまた受けましたが、落ちました。

ソロで人前で歌う経験の少ない私は、本番で緊張してしまい、うまく歌えなかったのです。

2度目の受験の時、審査員の先生が「歌をやめないで、続けてくださいね!」と

言って下さいました。その言葉も心に刻まれました。



その後、ピアノの関三知子さんの紹介で、オペラの演出家の三谷礼二先生の木曜会に

参加するようになりました。そこには、プロアマいろんな人が集まってきていました。

三谷先生の紹介で、次の遠藤幸子先生に習うようになりました。

そのころ、遠藤先生は、「大人のための童謡曲集」というCDを三谷先生のプロデュース、

作曲家の岩河智子さんの編曲で作られました。


それから、歌は続けてはいましたが、大学時代の先輩である夫と、結婚することになり

子どもを授かり、子育てに専念しながら、できる範囲で歌ってきました。

最初は、アメリカ赴任から帰国後、移り住んだマンションの近所の親子を集めて

ちびっこクラブを作り、そこで歌ったり、踊ったり・・・

まだ三男が生まれる前に、宮崎南校の親友の日高百合子さんのピアノで、

子育て中の私たちだから出来ることがあるかもしれないよね~と言って

「大人と子供のための元気の出るコンサート」というコンサートをやりました。

これが私のソロコンサートの第一回目です。


・・・・つづく




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