新しい年が来ると、どんどん日差しが明るくなってきて、自分のバイオリズムはよくなるように感じます
出会いと別れ。
ママ生活にもありますね。
公園でいっしょに遊んでいたいっちゃんの1つ上の子どもたちも入園であまり会えなくなります。
片や、1才前後であんよができるようになってきたいっちゃんの後輩たちが公園に遊びにくるようになってきます。
もうじき2才のいっちゃんにとって、半年ほど小さいお友だちに新しく出会います。
今日もそんないっちゃんよりちょっと小さい子の新しいママ友と、喫茶店でやっている子育ての集まりに初めて参加してきました。
ボランティアの方(?)が子どもたちの相手を引き受けて下さって、その間にママたちはお茶を飲んで語り合うというものです。
店内はイスやテーブルを大幅に配置換えして所狭しとちっちゃい子がうごめいていました
ママ友といっしょに園庭開放に行っても、子どもはバラバラ行動で、あまり話もできません。
だから、こんな場所をいただけると、正味20分ぐらいだとしても、ほっとできるものですね
話は全然違いますが、早春の風が冷たく日差しがあたたかいこの空気にぴったりの思いがあります。
ホットでもなく、クールでもない思いです。
今、私はある若者を励ます役目を担っているんですが、親というもの、そして、若者を導く立場、そこでいろいろ考えさせられます。
スランプに陥っている人を叱咤激励することの難しさです。
それなりに人生経験で苦い思いもしてきてそこから立ち直ってやってきた自分から見て、どこか甘えがあるから状況がよくならないんじゃないかと思う部分がある。
でも、親でも本人がどれぐらい傷ついているかって本当はわからない。
ましてや、そこまで当人のことを理解していないであろう私では、甘さについては見抜けない。
もう少しハングリーになって新しい目で世の中を眺めてごらんよ・・・スランプから新しい自分が生まれることだってあるよ・・・
そう言いたいけど、なかなかうまく伝わりません。
私自身もスランプにいたときに、甘さについて指摘されて傷ついたこともあります。
今だから甘かったんだと思えるけど、そのときはつらいだけだったし・・・。
結局、甘い基準で考えて行こうと、どん底まで落ちてそこからグーンと昇って行こうと、それも本人の人生なんですよね。
他人から言われた基準では結局人は動けない。
きつく言ってあげた方が本人のためじゃないかと思う気持ちもあるけど、どんな判断でも本人のやり方を認めてあげることがその人を生かすことなのかなあ、と思うようになってきました。
敢えて言うなら、適切な指摘ができるほどにその人を理解している自信がないのならば、それはできないということでしょうか。
「あなたのことを大事に思っている。だから、よい方向に進んでほしいと思う。」
そういう愛情をもって見守り、思いやりの中でほんのちょっと気づいたことを口にする。
それを続けて、信頼が成り立つなら、長い年月の末にいつか自分で気づくときが来る・・・。
そういうことでしょうか。
目に見えないものが大切だということを私たちは知っているけれど、人のこころを風景のように確かにつかむことは難しいですね。
手探りで、思いやりをもって、霧がかかっていたり、もやもやとしていたり、暗くて見えなかったりするこころを大事に扱って行かなきゃ・・・。
それが本当に成熟した人になるということなんでしょうか。
早春のこころに去来するあれこれをつらつら書いてみました
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