猫面冠者Ⅱ

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ノーヒットノーランに一安打完封でお返し・・・:鶴岡昌宏選手=東洋大野球部の歴史―人物⑧

2008-08-08 22:08:00 | インポート
今年は早々と姿を消してしまったものの、過去には全国制覇の実績もある東洋大姫路高に比べ、未だ甲子園出場の叶わぬのが東洋大牛久高だが、近年、大野久監督を迎えて徐々に力をつけ甲子園まであと一歩のところまで来ている。今年も茨城大会ベスト4で力尽きてしまったが、来年以降に期待したいものだ。

その東洋大牛久高が夏の茨城大会で最有力候補に挙げられていたのが昭和五十年。この年は春の県大会を制し、関東大会では準々決勝で小川淳司投手の習志野高に2-1で惜敗。(夏の甲子園では習志野が優勝した)

当時の夏の茨城大会展望記事は次のように記している。
春季大会優勝の東洋大牛久と取手一、太田一がやや先行している。東洋大牛久の主戦鶴岡は一七四センチと小柄だが、カーブの威力は相当なもの。制球も良く、春季大会では失点わずか一。打線はそれほどの破壊力は感じられないがしぶとい。(『朝日新聞』昭和五十年六月十九日付朝刊)

ところがこの記事からちょうど一ヶ月後の七月十九日の紙面には次のような記事。
東洋大牛久(茨城)は姿消す
・・・茨城で大番狂わせ。最有力とみられた春の県大会優勝校東洋大牛久が、主戦鶴岡を温存したため、一回に四点を奪われ、伏兵の鉾田一に敗れ、初出場の二回戦で早くも姿を消した。

    鉾田一7-2東洋大牛久

(『朝日新聞』昭和五十年七月十九日付朝刊)


あっさりと甲子園の夢破れてしまった鶴岡選手は東洋大に進学するが、当時は一級上に松沼雅之投手、同期には広島商業出身、甲子園ベスト4でしかも同タイプの左腕山村力人投手が一年時からマウンドを踏んで実績を挙げており、鶴岡選手がリーグ戦に登場するのは三年の秋になってからである。

初登板は昭和53年9月14日対中大一回戦でリリーフで1イニングのみ。翌日の二回戦には一点リードされた九回代打で登場、同点に追いつくタイムリースリーベースを放つ。更に9月20日の対亜大二回戦では初先発し7回1/3を投げ被安打8自責点2、試合は引き分けに終わり勝敗は付かなかったが打撃の方ではこの日も3打数2安打1打点、しかも安打は三塁打と二塁打である
結局このシーズンは投手としては登板3試合10回1/3・被安打10・自責点2、打撃では終盤三番ライトでスタメン出場しトータルでは12打数6安打4打点、三塁打2・二塁打2、と打撃の方で光っていた。二回目の優勝を決めた最終戦こそ出番はなかったが、打撃面では貢献したといえようか。

最終学年となった昭和53年春、開幕の中大戦。先発はエース格と目された同期の左腕山村力人投手であった。

昭和54年4月3日:対中大一回戦
東洋大000 000 000  0
中央大001 001 00X  2
(東)山村・兵頭・望月-田鎖・浜田
(中)香坂-長井
二塁打:熊野・浜村(中)
2700153013
266264206

香坂(中大)がノーヒット・ノーラン
開幕に快記録 21年ぶり、東洋大戦で

・・・中大の香坂英典投手=四年、川越工出=が無安打無得点試合を達成した。
香坂は速球を主体に快調に投げ、七回に四球を出し惜しくも完全試合を逃したが、毎回の15三振を奪って東洋大を抑え、三、六回にあげた2点を守り切った。同リーグの無安打無得点試合は三十三年四月十日に若生照元投手(中大)が対東農大二回戦で記録して以来、二十一年ぶりで七人、通算八度目(完全試合2を含む)である。・・・

・・・記録へのヤマ場は七回。一死から二十人目の代打鶴岡に四球を与え初めての走者を出した時。・・・
(『朝日新聞』昭和五十四年四月四日付朝刊)


翌日の二回戦はパーフェクトを阻止した鶴岡選手が先発した。

昭和54年4月4日:対中大二回戦
中央大000 000 000  0
東洋大001 000 10X  2
(中)米村・鳥居・松田-長井・土肥
(東)鶴岡-浜田
281083004
264264206

大記録の後は完敗
鶴岡(東洋大)にわずか1安打

東洋大の勝因は鶴岡の好投にあった。一回、いきなり一死満塁のピンチを招いたが、落ち着いた投球で切り抜け、二回からは切れのよいカーブと直球をうまく散らして中大打線を完全に封じた。・・・

香坂KOへ執念
前日の汚名を1安打完封でお返しした東洋大の佐藤監督だが、「いや、まだすっきりしません。なんせ二十一年ぶりの出来事だったんですからね」とすっきりしない表情。前日は合宿に帰ってから夜の十時まで、この日は朝八時から十一時まで練習して選手をしごいたそうだ。
「もう一回香坂君と勝負したいと思っていた通りになったのはきのうからの練習のたまものといえる。どうなるかわからないが、“後遺症”を完全に吹っ切るためにも彼を打ちくずしたい」と佐藤監督は高坂KOへ並々ならぬ執念をみせていた。(『朝日新聞』昭和五十四年四月五日付朝刊)


翌日の三回戦は中一日の香坂投手と連投の鶴岡投手の投げ合いとなった。
昭和54年4月5日:対中大三回戦
東洋大000 100 000  1
中央大000 000 000  0
(東)鶴岡-浜田
(中)香坂-長井・土肥
本塁打:塚原(東)
302152004
272042103

鶴岡、連日の完封
東洋大勝ち点 香坂(中大)痛恨の一球
香坂が力で、鶴岡がコーナーワークで、ともに持ち味を出しきって投げ合った。香坂は三回まで失策の走者を一人、鶴岡は四球の走者を一人出しただけという危なげない投球だった。しかし、勝負はたった一球で決まった。東洋大は四回も簡単に二死となった。ここで塚原が0-1からの胸元の直球を強打、右翼席へたたき込んだ。・・・

雨のち晴れ佐藤監督
実力ナンバーワンの中大から勝ち点をあげた東洋大の佐藤監督は「選手が本当によくやってくれた。夢のようだ」と言葉をはずませる。一回戦で屈辱(無安打無得点)を味わわされた香坂を攻略してのうれしい勝ち星だけに、実感がこもっていた。
その前で投打のヒーローである鶴岡と塚原が肩を抱き合って健闘をたたえ合っていた。二回戦に続いて完封勝ちした鶴岡は「中大は一発があるので慎重にコーナーを突いた。七回ごろからは一点でも勝てると思ったが、連続完封なんて信じられない」と照れる。・・・(『朝日新聞』昭和五十四年四月六日付朝刊)


鶴岡投手のこのシーズンは登板10試合で5勝2敗、71回2/3・被安打57・自責点15。打では33打数7安打6打点、二塁打2であった。(中大はこの東洋大戦以外は勝ち点をあげ優勝、大学選手権も制している。打の中心となったのは習志野高の小川淳司選手であった)


最後のシーズンとなった秋のリーグ戦、開幕の対青学大一回戦では3回で降板となってしまったが、三回戦では延長11回を投げ切り、決勝のツーランを含む2本塁打を放っている。
昭和54年9月6日:対青学大三回戦
東洋大010 000 100 03  5
青学大000 001 100 00  2
(東)鶴岡-田鎖・浜田
(青)吉田・小菅-谷・楠戸・井上
本塁打:鶴岡2(東) 二塁打:藤倉(青)

投打の中心となった鶴岡選手は主に5番を打っていたが9月19日の対亜大二回戦では四番・右翼手でスタメン出場し4打数2安打、翌三回戦のスタメン発表ではついに「四番、ピッチャー鶴岡君」のアナウンスが流れた。投げる方では5回途中の降板となってしまったが、降板後もレフトに回って4打数1安打の結果を残している。

打撃では10月4日の対国士大一回戦を終えた時点で24打数9安打4打点、本塁打2・二塁打3であった。最終的には投では10試合登板で4勝5敗、70回1/3・被安打74・自責点18、打の方は45打数12安打5打点、本塁打2・二塁打4。さすがにスタミナも切れたのか最終戦では投・打とも出場がなかった。

大学での通算成績は
   投:投板23試合9勝7敗・152回1/3・被安打141・自責点35・防御率2・07
   打:90打数25安打15打点・打率2割7分8厘・本塁打2・三塁打2・二塁打8
である。

卒業後は日産自動車に進み本選出場はならなかったものの、ロサンゼルス・ソウルと二度のオリンピック予選に日本代表として出場。また、都市対抗野球では昭和59年の第55回大会で三番・大野久、四番・鶴岡の東洋大コンビで優勝を果たし、平成3年の第62回大会では10年連続出場の表彰を受けた。社会人では打者一筋である。

鶴岡選手のプロフィールはtoyo-jinguuさんの「応援します 東洋大野球部」の中の
「1978年 東都大学春季リーグ 主要メンバー① 東洋大野球部」 のページ で見ることができます。


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