猫面冠者Ⅱ

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東洋大学野球部の歴史-戦後編⑧昭和37年Ⅱ

2009-01-20 15:59:00 | インポート
昭和37年春のリーグ戦
(前稿「東洋大学野球部の歴史-戦後編⑧昭和37年Ⅰ=一部リーグ初登場:対中央大戦 」の続き)

対日本大 0勝2敗

一回戦 4月19日 於・神宮球場
日本大111 000 000 3
東洋大010 000 000 1
勝:竹中克
負:竹ノ下
二塁打:宮寺(東)
日大東洋
(三)岡本 5 21(右)井上 1 0 0
(右)矢野 4 20重松 4 0 0
(左)矢口 4 00(一) 2 0 0
(一)千原 4 10本多 2 1 0
(中)出雲 4 10(中)岡野 4 1 0
(遊)式見 4 21(遊)右羽賀井 3 1 0
(二)田代 4 10(三) 1 0 0
(捕)大島 3 00松井 2 1 0
(投)生田目100(二)真部 4 0 0
大川 1 00(捕)宮寺 3 2 1
竹中克2 10(投)竹ノ下1 1 0
広沢 10 0
佐々木1 0 0
(左) 島中 2 0 0
宮本 1 0 0
末松 1 0 0
36102 3371
日大 東洋
50107 42219

生田目341竹ノ下252
竹中克630 広沢750
盗塁:日2東1 失策:日1東1



二回戦4月20日於・神宮球場
東洋大000 000 000 0
日本大000 100 10X 2
勝:千原
負:広沢
二塁打:宮寺2(東)田代・大川(日)
東洋日大
(中)岡野 3 10(三)岡本 420
(左)島中 4 10(右)矢野 410
(一)4 10(左)矢口 300
(右)羽賀井400渡辺 000
(三)松井 4 00(投)千原 301
(二)真部 4 10(一)大川 310
(捕)宮寺 3 30(中)出雲 300
(遊)重松 2 00(遊)式見 311
本多 1 00(二)田代 310
伊塚 0 00(捕)大島 300
(投)広沢 2 00
3170 296 2
東洋 日大
5 1116 20023

広沢862千原970
失策:日1


対駒澤大 0勝2敗

5月1日一回戦 於・神宮球場
駒澤大010 300 200  6
東洋大000 000 000  0
勝:泉
負:竹ノ下
本塁打:小桐(竹ノ下) 二塁打:岡野(東)松村・宮下(駒)
駒大東洋
(左)木沢(中)岡部
(右)唐木(二)真部
生田(右)投羽賀井
石鍋(一)本多
(一)三沢
(二)松村(捕)宮寺
(中)太田(左)宮本
(捕)小島(三)松井
(三)小桐(遊)重松
(投)(投)竹ノ下
(遊)宮下島中
佐々木
井上
3131
駒沢 東洋
1

竹ノ下3 1/3
羽賀井5 2/3
盗塁:駒1 失策:駒2東3


5月2日二回戦 於・神宮球場
東洋大000 001 110  3
駒澤大100 101 001x  4
勝:泉
負:広沢
本塁打:三沢(広沢) 二塁打:宮寺・岡野(東)
東洋駒澤
(中)岡野(左)木沢
(二)真部(右)唐木
(一)生田
(右)羽賀井石鍋
(捕)宮寺(一)三沢
(左)宮本(二)松村
(三)松井(中)太田
(遊)重松(捕)小島
(投)広沢(三)小桐
(投)岡部
新谷
吉光

(遊)宮下
33123511
東洋 駒沢

広沢8 1/311岡部
吉光

盗塁:駒2 失策:駒1


対芝工大 1勝2敗

5月9日一回戦 於・神宮球場
芝工大000 000 020  2
東洋大000 000 000  0
勝:薦田
負:広沢
三塁打:尾関・和田(芝)
芝工東洋
(中)足達(中)岡部
深沢(二)真部
走中棟居(一)
(左)由島(右)羽賀井
和田(捕)宮寺
(遊)茅野(左)宮本
(右)尾関(三)松井
(三)花田(遊)重松
(一)斎藤修(投)広沢
(捕)末田
(二)中野
(投)斉田
薦田
3128
芝工 東洋
1

斉田広沢
薦田
盗塁:芝1 


5月10日二回戦 於・神宮球場
東洋大000 012 001  4
芝工大001 000 000  1
勝:竹ノ下
負:斎藤征
本塁打:宮寺(小椋) 
東洋芝工
(中)岡野(中)棟居
(二)真部(右)足達
(一)(左)和田
(右)羽賀井(遊)茅野
(左)宮本(三)花田
(捕)宮寺(一)斎藤修
(三)松井(捕)末田
(二)中野
(遊)伊塚秋井
重松宮脇
(投)大沢(投)小椋
竹ノ下斎藤征
永井
柳川
3031
東洋 芝工

大沢小椋
竹ノ下斎藤征
柳川
盗塁:芝2 失策:東1
東洋大は五回宮寺が左中間に本塁打した。2-1からのカーブをねらったもので、百二十メートルは飛んだ大きな当たり。この一撃で東洋大は活気づいた。
(『朝日新聞』昭和三十七年五月十一日付朝刊)
*宮寺のこのホームランが一部リーグで東洋大選手が放った第一号ホームランである。

5月11日三回戦 於・神宮球場
芝工大200 010 100  4
東洋大000 000 200  2
勝:斉田
負:広沢
二塁打:宮本(東)尾関(芝)
芝工東洋
(中)左足達1(中)岡部
(左)和田(二)真部
棟居(一)
(遊)茅野西川
(右)尾関(左)宮本0 
(三)花田(右)羽賀井
(一)斎藤修島中
(捕)末田(三)
(二)中野松井
(投)斉田(捕)宮寺
薦田(遊)重松
(投)広沢
竹ノ下
381329
芝工 東洋
11

斉田広沢
薦田竹ノ下
盗塁:芝1 失策:芝1東3

対東農大 2勝0敗

5月7日一回戦 於・神宮球場
東農大000 110 000  2
東洋大000 040 000  4
勝:広沢
負:浅野
三塁打:友部(農) 二塁打:峯田(農)
農大東洋
(左)米倉(中)岡部
(三)西村(二)真部
(一)友部(一)
(右)石渡(左)宮本
(捕)峯田(右)羽賀井
(二)石原本多
(中)松本島中
(遊)石井(捕)宮寺
(投)浅野(遊)重松
後藤(投)広沢
百々竹ノ下
伊藤
3131
農大 東洋

浅野広沢5 1/3
後藤竹ノ下3 2/3
伊藤
失策:農1


5月18日二回戦 於・神宮球場
東洋大000 210 400  7
東農大000 000 000  0
勝:広沢
負:小河
三塁打:宮寺(東) 二塁打:友部(農) 宮寺(東)
東洋農大
(中)岡野(左)米倉
(二)真部(二)石原
(一)(一)友部
(左)宮本 (右)石渡
(捕)宮寺(捕)峯田
(右)羽賀井(三)西村
(遊)重松(中)松本
(三)松井打中川村
佐々木小河
後藤
(投)広沢水口
村北
伊藤
百々
浅野
351031
東洋 農大

広沢小河
後藤
伊藤
浅野
盗塁:東1 失策:東2農2


勝点
駒澤大9勝4敗
芝工大8勝4敗
中央大8勝4敗
日本大6勝7敗
東洋大4勝8敗
東農大2勝10敗


ベストナイン(満票13票)
捕  手:宮寺勝利= 7票・初
外野手:岡野聖三=10票・初

打撃十傑入り打者
 2位:宮寺13試合44打数18安打10打点1本塁打、打率・409
 6位:岡野13試合50打数15安打 3打点0本塁打、打率・300
 7位:楠  13試合47打数14安打 3打点0本塁打、打率・298


宮寺勝利 みやでら・かつとし
1940.2.13~  出身:東京都目黒区/荏原高(現・日体荏原高)→東洋大
球団:’64-’66巨人、’67-’72西鉄、’73-’74太平洋 ポジション:捕手
経歴:東洋大3年秋*1に打率.409で東都大学リーグの打率2位に入る。’64年巨人に入団。’67年西鉄に移籍。オールスター出場2回。引退後、大宮ゴルフに入社。のち福岡で稲尾和久の経営する「稲尾スポーツ」に勤務する傍ら、テレビ西日本の解説者も務める。
打撃成績:実働11年、737試合、1639打数353安打、42本塁打、145打点、27盗塁、414三振、打率.215
(『プロ野球人名辞典1999』日外アソシエーツ)
*1原文通りに引用したが、宮寺は昭和37年度卒業で4年春の誤りである。

前稿「東洋大学野球部の歴史-戦後編⑧昭和37年Ⅰ=一部リーグ初登場:対中央大戦 」でも触れたように、このシーズンは悪天候で日程が大幅に狂った。その為シーズン終了後の講評記事では次のような指摘がされている。

― 球場難にたたられ練習にも余計な苦労 ―
ことしのリーグ戦は神宮球場を六大学の使わぬ火、水曜の両日を予定していたが、六大学が接戦の末、ほとんどのチームが三回戦までもちこまれた上に、雨にたたられたことなどが重なり、また東都大学も六大学同様の接戦を繰り返していたから、六大学が優先する神宮球場を思うように使えず、リーグ戦初の一日三試合制を実施したこともあった。そして、晴れの優勝を決定する最終試合も、神宮球場が六大学の新人戦にとられて、神宮第二球場で行うありさまだった。だから、各校ともいつ試合が行われるか、選手のコンディション調整には相当苦労していたようだ。
なにしろ、六大学の行われる土日曜のいずれかが雨で中止、その上この週の試合が三回戦まで持ち越されると、東都大学の予定日である火曜日にくい込み、かりに木曜と金曜日にやっても決勝戦は次週の神宮球場のあいているときに行うことになる。
 
ある学校では練習中、ラジオで六大学の実況を聞きながら、翌日予定どおり自分の学校が試合できるかどうかみきわめた上で、予定されている先発投手の練習法を変更するありさまだった。

こんな状態だから、結局頼れるエースのいるチームは、翌日ゲームが行われないとわかっていれば、一回戦に完投していても、また二回戦に投げさせ、そして次週行われる決勝戦にも投げさせることができるので、どうしても頼れる投手のいるチームが有利になっていたようだ。この点優勝した駒大には泉投手が終始故障もなく投げぬいたのに反し、昨秋優勝校芝工大は開幕当初駒大に勝ち越しながらも中盤戦の大事なときにエース薦田が右肩を手術、中大に連敗したことがたたって優勝を逸し、また一部昇格したばかりで活躍を期待されていた東洋大も、エース広沢が軸足をねんざして思うように投げられず、五位に泣いたなどがよい例となっていた。
(『毎日新聞』昭和三十七年六月九日付朝刊)

毎シーズンのことだが、神宮第一球場の使用日が限られ、六大学リーグの日程に左右されて変則な日程編成で苦しんでいたが、なんとか専属球場は持てないものか。東都リーグ加盟校二十七校が心を一つにして、この問題を解決しなければいつまでも六大学野球を追い抜くことは出来まい。
(『朝日新聞』昭和三十七年六月九日付朝刊)


参考:駒大初優勝を伝える新聞紙面
画像



















六大学新人戦にも大きく紙面を割いている。
(当時、六大学新人戦はトーナメントでは無く、六校総当たりで行われていた)


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