厳頭之感
悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、
曰く「不可解。」
我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
一高生藤村操が上に掲げた「巖頭之感」を残し華厳の滝に身を投げたのは明治36年の今日、5月22日の事。
人生「不可解」としてわずか十六歳で自らその命を絶ったこの事件の反響は大きく、同時代の知識人や青年学生にも多くの影響を与えた。
また、華厳の滝では後追い自殺を図る青少年も後を絶たず、当時の「時事新報」によればその数は明治四十年までに百八十五名に達したそうだ。(ただし、その殆どは未遂に終わっている)
藤村操は北海道出身で旧制札幌中学に進んだが、一年を終えると一人で上京し母親の実家から当時府立の開成中学に通う。
ところが、明治32年に父が亡くなり、母親は後妻であったため家督は先妻の二男が継ぐことになる。
そのため
翌、明治35年春には京北中学を卒業し9月には第一高等学校へ入学しているので、京北中学へ通っていたのは一年程だ。
京北中学は明治30年に哲学館(東洋大学)が小石川原町(現・文京区白山)に移転した際、宮内省から下賜された恩賜金を基に明治32年、哲学館の敷地内に開設された。藤村操の入学する明治34年は三月に第一回の卒業式を行ったばかりのまだ新しい学校であった。
何故藤村操が転入先に京北中学を選んだのかはわからないが、上京した当初に住んだ母親の実家は小石川区小日向茗荷谷(現・文京区小日向)に有り、その後父親の死亡にともなって上京した家族らと麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)へ移り、さらに小石川区新諏訪町(現・文京区後楽)へと転居しているので、地理的に馴染みがあったからかもしれない。
『京北中学校五十年小史』と云うガリ版刷りの小冊子には、かつて同校の校友会雑誌に掲載された、明治36年当時の在校生が手紙形式で書いた学校の様子が再録されている。藤村操が通っていた頃の白山校地の様子を彷彿とさせるので一部をここに引用してみることにする。
井上円了は引退後はその居を中野の哲学堂内に移しているが、当時は原町の校内に住んでいたのである。
藤村操とも或いは“純正哲学”について言葉を交わしたことも有ったかもしれない・・・・。
事件後、失恋説も出るなどその見方は今日に至ってもなお様々である。
ただ、当時一大センセーションを巻き起こした“一高生”藤村操が、“曰く「不可解」”の結論を出すに至るまでの短い生涯の一時期を、筆者にとっても思い出深い白山の地で過ごしていた事を思うとやはり感慨も一入なのである。
明治三十二年頃の白山校地
“つきあたり石段の上の図書館”はまだ無い。
(図書館と講堂の落成式は明治33年5月10日に行われている)
グーグルアースで見た現在の白山(向きは上図に合わせてみた)
原町(現白山)校舎
中央右手の二階家が井上円了宅
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悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、
曰く「不可解。」
我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
一高生藤村操が上に掲げた「巖頭之感」を残し華厳の滝に身を投げたのは明治36年の今日、5月22日の事。
人生「不可解」としてわずか十六歳で自らその命を絶ったこの事件の反響は大きく、同時代の知識人や青年学生にも多くの影響を与えた。
また、華厳の滝では後追い自殺を図る青少年も後を絶たず、当時の「時事新報」によればその数は明治四十年までに百八十五名に達したそうだ。(ただし、その殆どは未遂に終わっている)
藤村操は北海道出身で旧制札幌中学に進んだが、一年を終えると一人で上京し母親の実家から当時府立の開成中学に通う。
ところが、明治32年に父が亡くなり、母親は後妻であったため家督は先妻の二男が継ぐことになる。
そのため
・・・家の将来を双肩に担うようになった操は、一年でも早く中学を卒業するため開成中学の三年を終えると明治三十四年四月京北中学五年に編入学した。京北中学は幽霊博士として知られた仏教哲学者井上円了が創設した学校で、後に第一高等学校に入学した操が同級の安倍能成に、「僕は科学、倫理、宗教を超越せる純正哲学をやる積りだ」(伊藤整『日本文壇史』)と語っていることや、彼の身内が「京北へ行ってから気風がすっかり変った」(蘆野弘「藤村操の少年時代」)と洩らしているところをみると、京北中学の哲学的雰囲気に富む校風は、操にかなりの影響を与えたものらしい。
(平岩昭三『検証-藤村操華厳の滝投身事件』より)
翌、明治35年春には京北中学を卒業し9月には第一高等学校へ入学しているので、京北中学へ通っていたのは一年程だ。
京北中学は明治30年に哲学館(東洋大学)が小石川原町(現・文京区白山)に移転した際、宮内省から下賜された恩賜金を基に明治32年、哲学館の敷地内に開設された。藤村操の入学する明治34年は三月に第一回の卒業式を行ったばかりのまだ新しい学校であった。
何故藤村操が転入先に京北中学を選んだのかはわからないが、上京した当初に住んだ母親の実家は小石川区小日向茗荷谷(現・文京区小日向)に有り、その後父親の死亡にともなって上京した家族らと麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)へ移り、さらに小石川区新諏訪町(現・文京区後楽)へと転居しているので、地理的に馴染みがあったからかもしれない。
『京北中学校五十年小史』と云うガリ版刷りの小冊子には、かつて同校の校友会雑誌に掲載された、明治36年当時の在校生が手紙形式で書いた学校の様子が再録されている。藤村操が通っていた頃の白山校地の様子を彷彿とさせるので一部をここに引用してみることにする。
拝啓薄暑の候、皆々様御機嫌よく為らせられ候や、伺い上げ候。先日御知らせ申候通り、小生こと其後京北に入学致し、以来一ヶ月餘にも相成候へば、此間に気付候事少々御知らせ申すべく候。本校は井上先生校長として監督せられ、現在は六百人ばかり、教員は湯本、杉谷等の諸先生を始め三十餘名詰められ候。校舎は小石川原町にて古より名高き鷄声ヶ窪といふ処に有之中仙道街道に面し居り候。明治三十二年に創立せられたるものに候。門を入り候へば第一に目に止まり候は、つきあたり石段の上の図書館にて、其右には校長様の家が見え候。門左は監督にて其側なるは生徒の控所に有之候。控所の奥には博物及び理化学の特別教室これ有。体操場を通り抜けつきあたりの石段を昇り終れば、左に築山の如きもの有之、樹木多く緑滴るばかりに候へば涼みには適當ならんと存候。石段の上より見晴し候へば、駒込曙町などの森相見え、そこに種々の木共生ひ茂りて実に涼しき様に見え候。図書館の北に講堂これ有。講堂につきて北西に廻り候へば、此にも一つの運動場有之候。樫の木など植ゑ付けられ、生徒は此緑陰に勇ましく遊戯致し居り候。その運動場の南は哲学館の教室にて、また其南は第一號生徒の控所に候。控所との間より西に向かひて裏門これ有。それより白山神社の森つづき候。・・・以下略
(『京北中学五十年小史』(四)学校の様子を通知す 明治三十六年 一年孝組 松倉丈夫 )
井上円了は引退後はその居を中野の哲学堂内に移しているが、当時は原町の校内に住んでいたのである。
藤村操とも或いは“純正哲学”について言葉を交わしたことも有ったかもしれない・・・・。
事件後、失恋説も出るなどその見方は今日に至ってもなお様々である。
ただ、当時一大センセーションを巻き起こした“一高生”藤村操が、“曰く「不可解」”の結論を出すに至るまでの短い生涯の一時期を、筆者にとっても思い出深い白山の地で過ごしていた事を思うとやはり感慨も一入なのである。
明治三十二年頃の白山校地
“つきあたり石段の上の図書館”はまだ無い。
(図書館と講堂の落成式は明治33年5月10日に行われている)
グーグルアースで見た現在の白山(向きは上図に合わせてみた)
原町(現白山)校舎
中央右手の二階家が井上円了宅
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