先日、ある古書店で見つけ大枚?2,000円を投じて購入した『1951年度両リーグ選手総覧』。
購入した理由はプロ野球が二リーグに分裂して二年目の選手名鑑にはこの方が載っていたからである。
野本喜一郎さんがプロ野球界に入ったのは前年の1950年、二リーグに分裂した年の事だ。この時社会人野球からプロ入りした選手は約八十名。前年の選手名鑑であれば後に津久見高校の監督になった小嶋仁八郎選手(西日本)や池田の攻めだるま・蔦文也選手(東急)も載っていたはずであるが、お二人とも一年で退団してしまった。
一方で大量に有力選手を失ってしまった社会人野球側が対抗策として考え出したのが、都市対抗野球の補強選手制度だ。予選で敗退してしまったチームでも看板選手であれば本大会に出場できるようにしたのである。
(野本喜一郎さんについては下記の記事もご覧ください)
東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅠ
東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅡ
’51年の選手名鑑にはこんな人も載っている・・・。
大沢伸夫(本名清)は大沢三兄弟の長兄、日曜日の朝に“あっぱれ!”などとやっている親分・大沢啓二は末の弟である。
出身が“専大”となっているのは誤りで国学院出身。在学中の昭和10年春のリーグ戦では投手でありながら打率.429で打撃十傑の二位となっている。プロ引退後は1960年から16年間国学院大の監督を務めた。
この選手名鑑には載っていないが、大沢三兄弟のもう一人・大沢君夫は’86年秋の『神宮球場ガイドブック』の中にその姿があった。
大沢君夫はプロ野球では実働2年だが、退団後はいすゞ自動車で活躍。同じ神奈川の日本コロンビアで投げていた野本喜一郎さんとも対戦している。
その後、社会人チームの監督を経て1979年から88年まで東農大の監督を務めた。その間、’86年春に二部で優勝し入替戦でも日大を破り、49シーズンぶりの一部復帰を果たしている。上の写真もその時のものだ。
大沢親分の二人の兄はいずれも東都大学野球に指導者として貢献しているのだ。二人の兄君にも“あっぱれ!”を差し上げて欲しいものである。
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購入した理由はプロ野球が二リーグに分裂して二年目の選手名鑑にはこの方が載っていたからである。
野本喜一郎さんがプロ野球界に入ったのは前年の1950年、二リーグに分裂した年の事だ。この時社会人野球からプロ入りした選手は約八十名。前年の選手名鑑であれば後に津久見高校の監督になった小嶋仁八郎選手(西日本)や池田の攻めだるま・蔦文也選手(東急)も載っていたはずであるが、お二人とも一年で退団してしまった。
一方で大量に有力選手を失ってしまった社会人野球側が対抗策として考え出したのが、都市対抗野球の補強選手制度だ。予選で敗退してしまったチームでも看板選手であれば本大会に出場できるようにしたのである。
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東洋大学野球部の歴史-人物①野本喜一郎さんⅠ
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’51年の選手名鑑にはこんな人も載っている・・・。
大沢伸夫(本名清)は大沢三兄弟の長兄、日曜日の朝に“あっぱれ!”などとやっている親分・大沢啓二は末の弟である。
出身が“専大”となっているのは誤りで国学院出身。在学中の昭和10年春のリーグ戦では投手でありながら打率.429で打撃十傑の二位となっている。プロ引退後は1960年から16年間国学院大の監督を務めた。
この選手名鑑には載っていないが、大沢三兄弟のもう一人・大沢君夫は’86年秋の『神宮球場ガイドブック』の中にその姿があった。
大沢君夫はプロ野球では実働2年だが、退団後はいすゞ自動車で活躍。同じ神奈川の日本コロンビアで投げていた野本喜一郎さんとも対戦している。
その後、社会人チームの監督を経て1979年から88年まで東農大の監督を務めた。その間、’86年春に二部で優勝し入替戦でも日大を破り、49シーズンぶりの一部復帰を果たしている。上の写真もその時のものだ。
大沢親分の二人の兄はいずれも東都大学野球に指導者として貢献しているのだ。二人の兄君にも“あっぱれ!”を差し上げて欲しいものである。
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