猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

“神々の末裔”が築いた野球部=國學院大学

2016-06-19 09:30:00 | インポート
千家尊紀氏はまだ若い精悍な人物である。この人が私の目の前に正座し、まったくの不動の姿勢で巻きあがった豊かな髯に、不思議な形の冠を高々と聳えたたせ、ゆったりと腰もとにひろがる雪のような白袍に、みごとな陰影を波うたせた姿は、まさしく日本の古画から抜け出たようで、古えの名高い王侯貴族はかくもあったかと思わせるほどの英姿であった。身に具えた威儀だけでも、人から敬われるのに充分だが、そのとき私の心を打つものが、もうひとつあった。それは、この人が日本の国史発祥の地とも言うべき出雲の国で、人々からこぞって仰ぎ崇められているという事実である。その計り知れぬほどの宗教的権威、そして、神々に遡るという貴い血統を思いあわせる時、この人の一族が太古の昔から身に帯びてきた神威がまざまざと感じられ――私の敬愛の念は、畏怖というに近い思いにまで深まるのである。その微動だにしない姿は、まさに神像のようで、この人の遠つ祖(おや)を木石に刻めば、こうもなろうかと思われた。しかし初めの怖ろしいほどの威圧感も、その口から流れ出た、穏やかな太く低い挨拶の声で、なごやかに打ち破られた。ただ、黒い優しげな目だけは、相変わらず、ぴたりと私の顔に据えられている。

いつになく厳かな書き出しで始まりましたが、もちろんこれはわたくしの文章ではございませんで、講談社学術文庫版の小泉八雲『神々の国の首都』の中の「杵築」の項からの引用であります。

八雲は明治二十三年(1890)四月に来日し、同年の八月から翌年十一月まで島根県尋常中学校の英語教師として松江に滞在しておりました。「杵築」には“杵築をめざして松江を立ったのは、ある美しい九月の午後のことだった”とありますので、二十三年か四年なのかはわかりませんが、万延元年(1860)生まれの千家尊紀が八雲と出会ったのはまだ三十歳位の頃のことであります。

千家尊紀が若くして宮司の座に就いたのには少々訳がありまして、当初第七十九代の宮司・千家尊澄から第八十代として引き継いだのは尊紀の実兄・尊福(たかとみ)でしたが、明治十五年(1882)に尊紀に宮司の座を譲り、尊福は政治の世界にも進出し、貴族院議員となったほか、埼玉県や静岡、東京府の知事を歴任したため、弟の尊紀が第八十一代の出雲大社宮司となったのであります。

ちなみに千家尊福は哲学館開設時の「私立哲学館設立賛助者」にその名があり、また、明治三十四年の京北中学校第一回卒業式に東京府知事として列席し祝詞を述べておりますので、東洋大学にも少しばかり御縁のある方であります。

さて、八雲との出会いから八年ほど後に尊紀の四男として誕生したのが千家尊宣(幼名剛麿)であります。

高校野球の歴史について書かれた本は山ほどありますが、少し詳しく書かれたものをお読みになった方は、鳥取中学(現鳥取西高)と杵築中学(現大社高)の間で行われた第一回中等学校野球大会の山陰地区代表決定戦が、本大会と同じ豊中グラウンドで行われたという逸話を御存じかと思います。
これは、前年の鳥取・米子中学と島根・松江中学との定期試合で双方の応援団が過熱して乱闘騒ぎまで起こしたからで、地元でやればまた騒ぎになりかねないという事で、遠く離れた豊中での代表決定戦となったわけであります。

そして、この試合の杵築中学のエースが千家尊宣なのでありました。

鳥取・杵築戦は八月十五日、豊中球場でおこなわれた。このとき杵築チームの投手は出雲大社宮司の御曹司千家剛麿氏であった。
プレーボールが宣せられ、千家投手はマウンドに上ると、第一球の前に、くるりと西北へ向かい、おごそかに柏手を打った。出雲の神様に、必勝を祈ったものであろう。

しかし、柏手のかいもなく、この試合は5-2で鳥取が勝ち、鳥取は山陰代表という事になった。
千家投手は鳥取の鹿田一郎投手の手をにぎると、「これまでは敵同士だったが、これからは、君たちはわれわれの代表です。健闘を祈る」といった。

それから四十数年たつ。鹿田投手は五高、京大を経て、逓信省に入り、熊本通信局長を最後に、退官して、日赤本社会計室長になっていたが、ある日、葛西副社長から、ちょっと部屋へ来てほしいと呼び出しがあった。行ってみると、往年の敵投手千家氏がにこにこしている。
「これはこれは」
葛西氏も
「あなた方が、そういうご関係とは、思いがけませんでした」
そこで、千家氏が打ち明け話をした。
「あのときは、わがチームの全員、腹をこわして、激しい下痢に悩んでいたのです」
「どうして、また?」
「大阪在住の先輩が、よく来たといって、歓迎会をひらいてくれたのですが、その席でやたらにジュースなんか飲んだものですから」
鹿田氏の記憶によると、試合のときの両軍の力はほとんど伯仲していたというから、下痢がなかったら、杵築中学が勝っていたかも知れないのである。
(朝日新聞社編『甲子園グラフティーⅠ』所収「記念すべき最初の試合―鳥取中対広島中」より)


試合のスコア(『全国中等学校野球大会史』より)
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タイトルを見て本記事を訪問された方にはもうピンと来たかと思いますが、この千家投手がその後國學院へと進み、野球部を創部するに至るのでありました。

その際の経緯を、後に千家尊宣自身が『國學院雑誌』に書いておられます。

…当時の全国中等学校野球大会の第一回の時私は島根県で杵築中学の主将投手で優勝したが、山陰道の決勝戦を事情があって大阪でやる事になった時、田舎者の悲しさに、赤いストロベリーや黄色のオレンジ汁のかかった氷水を見て感心し、夫れを食べすぎたり、先輩から五月五日の男の節句の日に作られた勝餅を、八月十五日にたべさせられたりして全員下痢をして、勝つべき力をもち乍ら敗けたと云ふ悔しさを体験してをり、国大に入ってからも何とか野球部を作り、早慶に泡をふかせたいと考えてゐたが、同志も無いままに剣道に入ってウサ晴らしをしてゐた。大正六年の初夏頃のこと、後に母校の剣道講師になられた三年生の鈴木勝治さんと愛知一中時代にマニラの東洋オリンピックのクロスカントリーで優勝された田舎片善次さんとが校舎の横でキャッチボールをして居られるのを見て、始めて「ここでもやる人があった」と懐かしく思った。そして私が学部の二年になった時、新入生から部員を募集しようと考へ、各教室を一席ずつまはった処、今日は和歌山の日前国懸神社の宮司をして居られる紀俊嗣君をはじめ荒井敏夫君や小木鉄彦君等が予科から、又長野師範の名選手であった田中勘蔵君等が高師部から入部してくれた。
(『國學院雑誌』昭和三十八年五・六月:河野省三博士追悼号所収、千家尊宣「河野先生と国大野球部」より)


どうやら豊中での試合前にはジュース類だけでなく、搗いてから三か月も経っている(しかも夏場)お餅まで食べていたようで…。

さて、文中に出てきた紀俊嗣君という方は、和歌山中学が第二回と第三回の全国中等学校野球大会に出場した時のメンバー表の中に外野手としてその名を見ることができる、今日で言う所の“甲子園組”でありました。

当時、国学院には運動部という括りでいくつかのスポーツは行われていたようですが、野球部はまだなかったようです。


…かうして十人余の部員は出来たが正式に部を認められてはゐない。そこで教務課長の河野先生に相談とい云ふよりお願いに行ったワケである。当時の国大は教務課長が全権を持ってゐるやうな組織であったが、丁度その直前頃に河野先生が三十才代で課長になって来られた。そもそも河野先生の累代の奉仕神社は御祭神が大国主命であり、あの騎西の町にあのお社があるワケは続日本紀によると私の家の先祖の一人が、武蔵国造に補任せられてゐて、その影響であるらしい事は知ってゐたので、河野先生に対しては只、国民道徳の講義を承る門人としてより以上に懐しみを抱いてゐた。そんな事情もあって、部を正式に認めてもらひたい丈でなく、「部費も何とかして頂けませんか」とイイキな事をお願いに出たワケである。その結果、先生から芳賀学長に話して頂いて、ある日、飯田町の校舎のウス暗い応接室で芳賀先生にお目にかかってお願いした処、只一言のもとに御承知下さって、その上に「明日私のうちに来たまえ、五十円上げます」とおっしゃって下さった。このお言葉は実は少々マゴツクほど有難いものであった。そして翌日紀君と田中君とをつれて小石川竹早町の芳賀先生のお宅に伺ひ、それから日を改めて江戸川の近くにある美津濃へミンナで道具買ひに行った。その時ワセダの堀田選手が店にいた。何分グローブが一ヶ三円五十銭の時代だから、五十円で一式揃ったものである。
(前出『國學院雑誌』同記事より)



日前国懸神社は紀伊国一宮で、宮司は代々“紀国造家”であり、また、出雲大社の宮司が“出雲国造家”であることは、二年ほど前に現在の宮司の御子息と高円宮家王女・典子さまがご結婚された際に報じられたのでご記憶有る方も多いかと思います。
国学院に野球部が発足したのは出雲と紀ノ國の二人の“国造”の末裔の力によるところが大きかったのであります。

さすがは“国の基を究る”大学でありますね~。


…正式に学校から認めてもらった以上、部長を置かねばならない。処がその頃教習科の講師をしてをられた今の佐々木学長が京都大学で亡兄尊建と級友で、しかも野球友だちでもあった事を知ってゐたので、之亦河野先生からお話しして頂いておいて私が青山のお宅へお願いに伺って初代部長になって頂き、十月頃に部長先生に審判して頂いて代々木の練兵場で紅白試合をした事がある。但し、これは大正七年か八年かハッキリ思い出せない。かうして我国大野球部は正式に誕生したのである。
(前出『國學院雑誌』同記事より)


以前、國学院大が東都大学野球で初優勝した際にUPした

六大学に加盟申請していた国学院、祝“80年ぶり?”の快挙!

でもふれましたが、國學院の野球は大正末から昭和初期にかけて、六大学以外の学校の中では実力校であり、昭和四年には日大とともに六大学加盟の“試験試合”まで行われたのですが、当時の『野球界』という雑誌によると発足当初は

…学友会の中に野球部を割込まさせる猛運動を起こして目的を達することは出来たが野球そのものは問題にならず一年間を通じ一回の試合(これも名もないチームと戦い負)でお話にならず、曾て全国野球大会に和歌山中選手として出場した、閲歴の保持者たる「紀君」の如き、切歯扼腕して頑張ったが、烏合の衆に加えて、あらゆる条件に恵まれないためどうにもこうにもなりようはなく…中略…紀君は悲憤の涙にくれながら卒業していった。
(『野球界』昭和四年六月号 国学院大学野球部マネージャー白井吉彦「リーグへ加入する迄の苦心」より)


という状況だったようです。

引用した『野球界』の記事によると、その後入学してきた平岡好正という人が当時明治大学の監督をしていた岡田源三郎と姻戚関係にあり、また岡田氏の弟が“国大弓道部の重鎮”だったことから“爾来部は直接間接に明大野球部の援助を受けること多大なるものあるに至った”とのことで、さらに高等師範科に松尾勝栄(この方については右記リンク先もご参照ください。“みちのくの雄”東北高…ダル争奪戦に勝利)が入学してきたことにより
…大正十二年前後は中学チームにも敗れる有様で、同君等が入学した春も目白中学(現日大バッテリー田村・亀井君のバッテリー)にさんざんな目にあわされた有様で、ここで今迄の旧弊を退け、新鋭に依りチームを編成し練習も規則正しくする様になり、五月には旧早大の池田豊氏を招聘し、約二週間に亘りて飯能で合宿練習を行い、続いて学校裏の羽根澤に合宿所を作り制度一変したのである。
(前出『野球界』より)


“制度一変”して六大学との“試験試合”迄に至った國學院ですが、六大学側は昭和五年二月二十二日の会合で「国大日大は本年度は其加入を認めず、より内容の充実後に加盟を認む」と決定し、翌年に東都の前身五大学野球連盟結成へと向かったのでありました。



この春のリーグ戦では東洋大戦であと一つ勝てば二回目の優勝という所までこぎつけながら連敗してしまった國學院。
東洋大OBであるわたくしも少々心苦しい気も致しますが、三回戦で救援投手として2回1/3を投げ、リーグ戦初勝利を挙げた東洋大・片山翔太投手は大社高校出身。百以上歳は離れていますが千家尊宣の後輩なのであります。

ですので、これも何かの御縁という事で水に流して頂き、秋のリーグ戦では両校ともに頂点を目指して頑張ってほしいものであります。


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