猫面冠者Ⅱ

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初優勝は第二球場・・・雨と六大学の熱戦に泣かされた昭和37(1962)年春の東都大学野球

2016-10-01 10:32:00 | インポート
例年になくぐずつき気味のお天気のせいで、今季の東都大学野球は第四週までに四日が雨天中止となってしまいました。
特に第三週は、火曜日が中止になった御かげで22日・秋分の日の木曜日が一部・二部併用で四試合開催となったので、小躍りして喜んだ東都ファンの方もさぞかし多かったのではないかと思いますが、残念ながらこの日も恨みの雨となり、更に翌日も中止で東洋・国学、日大・亜大の二回戦が試合日未定のまま未消化となっております。

未消化ゲームが発生するのは東都にはつきものなのですが、この先の天気予報を見るとすっきりしない空模様が続きそうなので、この先更に増えると、ただでさえ戦国の東都は優勝の行方を占うのが難しくなってきます。

月も変わったことですし、爽やかな秋晴れが続くよう願いたいものであります。


未消化ゲームがなかなか消化できないと、スケジュールを変更して一日三試合開催日を設けることもありますが、東都大学野球で初めて三試合行ったのが昭和37年春・東洋大が初めて一部に昇格したときのシーズンでありました。

まず開幕の第一週で火曜と金曜が中止となり、1勝1敗で芝工対駒澤・東洋対中央の二カードがともに三回戦未消化となってしまいました。
この試合を第三週の火曜日に行ったのですが、東洋対中央は引き分けてしまい、引き続き未消化ゲームとなってしまいます。
この後一日空けて木・金に当初の第三週のカード組み入れましたが、木曜が雨のため翌週に三試合の日程が組まれました。
この三試合はいずれも二回戦で決着がついたのですが、この後リーグ後半戦に入って六大学も雨にたたられた上に、三回戦までもつれ込んだり、立大・早大戦が初戦から三試合連続で引き分けたりしたため、東都は水曜か木曜からの開催となってしまい、一週の東洋対中央、六週の駒澤対日大、七週の日大対農大の三カードが最終週を終えた後も未消化ゲームとして残ってしまいました。
神宮球場のスケジュールは六大学の早慶戦終了後に新人戦(当時は一回戦総当たりのリーグ戦)、さらに立教と法政が同率で並び、新人戦の前にプレーオフが行われることになり、おまけに早慶戦は日・月と二日続けて中止となり、東都の試合が入り込む余地は無くなってしまいました。

しかも、この時点ではまだ優勝は決まっておらず、芝工大が8勝4敗勝点4勝率・667で全日程終了、駒沢大が8勝4敗勝ち点3・勝率667で対日大戦を残し、中央大も7勝4敗勝ち点3・勝率・636で東洋大戦を残しておりました。

駒沢大は日大に勝てば念願の初優勝、中央大は勝って駒沢大が負ければ芝工大とプレーオフ、但し神宮は使えない…ということで、6月5日になって新聞には次のように日程が発表されました。

東都大学野球の日程
のびていた東都大学野球リーグの日程が次の通り決まった。
▽六日(零時半)中大・東洋大 日大・農大
▽七日(1時半) 日大・駒大
球場は神宮第二

なお中大、日大がそれぞれ勝った場合は、芝工大・中大による優勝決定戦を八日午後一時から同球場で行う。
(『毎日新聞』昭和三十七年六月五日付朝刊)

六日の試合は中央大が6-3で東洋大を破りって優勝に望みをつなぎ、日大・農大は連戦となる日大が駒大の初優勝阻止を意識したのか、エースの千原投手を温存し15-10の乱戦で農大に勝利しましたが、翌七日の試合は3-1で駒沢大が勝ち、昭和24年の一部昇格後25シーズン目で初優勝を飾りました…第二球場で。

このシーズンに神宮で行われた東都と六大学の試合は下記の通りであります。
昭和三十七年春の神宮での試合 (判別しやすいように六大学の校名は一文字にしました)

神宮球場 ............. .............
4/10 東都① 芝工 駒澤 中央 東洋
4/11 東都① 芝工 3 1 駒澤 中央 3 2 東洋
4/12 東都① 駒澤 3 2 芝工 東洋 4 0 中央
4/13 東都① 駒澤 芝工 東洋 中央
4/14 六大学① 1 0 4 0
4/15 六大学① 3 0 0 0
4/16 六大学① 6 0
4/17 六大学① 2 0
4/18 東都② 駒澤 5 0 農大 日大 東洋
4/19 東都② 農大 5 1 駒澤 日大 3 1 東洋
4/20 東都② 駒澤 6 0 農大 日大 2 0 東洋
4/21 六大学② 4 3 2 1
4/22 六大学② 4 0 2 0
4/23 六大学② 2 1
4/24 東都①残 芝工 9 2 駒澤 中央 2 2 東洋
4/25
4/26 東都③ 芝工 日大 駒澤 中央
4/27
4/28 六大学③ 1 0 2 0
4/29 六大学③ 4 3 2 1
4/30
5/1 東都④ 芝工 5 0 日大 駒澤 6 0 東洋
(三試合) 中央 2 1 農大
5/2 東都④ 芝工 2 0 日大 駒澤 4 3 東洋
(三試合) 中央 12 2 農大
5/3
5/4
5/5 六大学④
5/6 六大学④ 1 0 4 0
5/7 六大学④ 4 1 2 0
5/8 六大学④ 2 0 3 2
5/9 東都⑤ 芝工 2 0 東洋 駒澤 3 0 中央
5/10 東都⑤ 東洋 4 1 芝工 駒澤 5 4 中央
5/11 東都⑤ 芝工 4 2 東洋
5/12 六大学⑤
5/13 六大学⑤ 4 3 4 3
5/14 六大学⑤ 6 5 2 0
5/15 六大学⑤
5/16 六大学⑤ 6 4 3 0
5/17 東都⑥ 駒澤 3 2 日大 東洋 4 2 農大
5/18 東都⑥ 日大 3 1 駒澤 東洋 7 0 農大
5/19 六大学⑥ 1 0 2 2
5/20 六大学⑥ 6 5 2 2
5/21 六大学⑥ 7 0 5 5
5/22 六大学⑥ 6 4
5/23 六大学⑥ 4 3
5/24 東都⑦ 中央 3 1 芝工 日大 3 2 農大
5/25 東都⑦ 中央 5 4 芝工 農大 4 2 日大
5/26 六大学⑦ 2 1 7 0
5/27 六大学⑦ 5 2
5/28 六大学⑦ 7 2 10 2
5/29 六大学⑦ 2 1
5/30 東都⑧ 芝工 4 0 農大 中央 1 0 日大
5/31 東都⑧ 芝工 3 2 農大 日大 5 3 中央
6/1 東都⑧ 中央 8 5 日大
6/2 六大学⑧ 8 0
6/3 六大学⑧
6/4 六大学⑧
6/5 六大学⑧ 2 1 神宮第二
6/6 決定戦 3 0 東都①⑦残 中央 6 3 東洋 日大 15 10 農大
6/7 新人戦 東都⑥残 駒澤 3 1 日大
6/8 新人戦






第二球場は前年の昭和三十六年一月十一日に着工、三か月の突貫工事で四月十九日に球場開きが行われましたので、この時はまだ二年目の新しい球場で、当時はホームベースが国立競技場側にありました。

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また、東都の“球場難”について、当時の新聞は下記の様に論評しております。


― 球場難にたたられ練習にも余計な苦労 ―
ことしのリーグ戦は神宮球場を六大学の使わぬ火、水曜の両日を予定していたが、六大学が接戦の末、ほとんどのチームが三回戦までもちこまれた上に、雨にたたられたことなどが重なり、また東都大学も六大学同様の接戦を繰り返していたから、六大学が優先する神宮球場を思うように使えず、リーグ戦初の一日三試合制を実施したこともあった。そして、晴れの優勝を決定する最終試合も、神宮球場が六大学の新人戦にとられて、神宮第二球場で行うありさまだった。だから、各校ともいつ試合が行われるか、選手のコンディション調整には相当苦労していたようだ。
なにしろ、六大学の行われる土日曜のいずれかが雨で中止、その上この週の試合が三回戦まで持ち越されると、東都大学の予定日である火曜日にくい込み、かりに木曜と金曜日にやっても決勝戦は次週の神宮球場のあいているときに行うことになる。
 
ある学校では練習中、ラジオで六大学の実況を聞きながら、翌日予定どおり自分の学校が試合できるかどうかみきわめた上で、予定されている先発投手の練習法を変更するありさまだった。

こんな状態だから、結局頼れるエースのいるチームは、翌日ゲームが行われないとわかっていれば、一回戦に完投していても、また二回戦に投げさせ、そして次週行われる決勝戦にも投げさせることができるので、どうしても頼れる投手のいるチームが有利になっていたようだ。この点優勝した駒大には泉投手が終始故障もなく投げぬいたのに反し、昨秋優勝校芝工大は開幕当初駒大に勝ち越しながらも中盤戦の大事なときにエース薦田が右肩を手術、中大に連敗したことがたたって優勝を逸し、また一部昇格したばかりで活躍を期待されていた東洋大も、エース広沢が軸足をねんざして思うように投げられず、五位に泣いたなどがよい例となっていた…中略…総体的にみると優勝した駒大も、もし最終試合の日大に敗れると三位。改めて芝工大、中大との間で優勝決定戦が行われることになっており、実力的には大差なかった。三十八試合中、ストレートで勝負がついたのは、わずか八試合であったことからも証明されよう。六大学に比べると投手力の弱体が目立ち、試合運びの点で大事な時に無謀な盗塁失敗、バック守備陣の手痛いエラーが飛び出すなど、技術的にみて劣勢はまぬがれない。それにはやはり専用球場の確立が急務となっている。
(『毎日新聞』昭和三十七年六月九日付朝刊)


…毎シーズンのことだが、神宮第一球場の使用日が限られ、六大学リーグの日程に左右されて変則な日程編成で苦しんでいたが、なんとか専属球場は持てないものか。東都リーグ加盟校二十七校が心を一つにして、この問題を解決しなければいつまでも六大学野球を追い抜くことは出来まい。
(『朝日新聞』昭和三十七年六月九日付朝刊)



今日に至るまで球場問題は未解決のままでありますが、実はこの頃“専用球場”の候補がふたつ上がってくるのであります…。

一つは新宿御苑近くに新球場設立の話が持ち上がっており、二年後に東都を脱退して新たに首都大学野球を立ち上げた人たちもこの新球場を当てにしていた節があります。
結局、この新球場案は予定地が住宅街という事で、断念せざるを得なかったようであります(鮎川義介までが仲裁に乗り出したようですが…)。

もう一つは第二球場で、ファウルボールが日本青年館の玄関先に飛び込んでくるので、昭和三十八年にホームベースを現在の位置に改修する計画が持ち上がるのですが、その際スタンドを三万五千人収容に増築して、国鉄と東映のホームグラウンドにする構想が持ち上がりました。

アマチュア側の猛反対で実現はしませんでしたが、東都だけは一時賛成に回るすったもんだが起こるのですが、このお話はいずれまた機会を改めてまとめてみたいと思います…。



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