猫面冠者Ⅱ

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箱根ランナーが繋いだ御縁?=大正11年第三回箱根駅伝:法政大学六区・川村衛と東洋大牛久高校

2019-12-22 22:23:23 | インポート
東洋大学の付属高校では東洋大姫路高校が野球の方で活躍し、校名も全国的に知られておりますが、東洋大牛久高校の方はスポーツでは相撲が全国大会にも出場しているようです(あまり詳しくないもので…)

その東洋大牛久高校が茨城県高校新人大会の駅伝部門で優勝したとの事。

平成29年度 茨城県高等学校新人駅伝競走大会(男子)

新人戦とはいえ、創部三年目で初めての優勝ですので、今後の活躍が大いに期待されます。



東洋大牛久高校が開校したのは昭和39年のことです。
牛久市は上野から常磐線で約一時間、東京から通勤圏内のベッドタウンでありますが、市になったのは昭和61年のことで、昭和28年までは牛久村でありました。昭和29年1月に牛久町となり、同年4月にはお隣の岡田村と合併し、初代町長には川村衛という方が就任いたしました。
更にその翌年の昭和30年には奥野村が編入されました。そのため、昭和37年にそれぞれの村にあった中学校は牛久中学と岡田中学が統合されて牛久第一中学、奥野中学は牛久第二中学に改められました。旧岡田村にあった岡田中学は廃校となり、台地の上にあった校舎跡地(宮の台)の転用先を探していたのであります。

そこで、牛久在住で東洋大学経済学部教授の坂本市郎氏が大学に働きかけて、牛久の町に付属高校が建てられることになる訳でありますが、そのきっかけについて『東洋大学校友会100周年記念誌』で坂本氏が次のように回想しておられます。

昭和38年の晩春、町長と床屋で偶然一緒になった。いろんな話の末「牛久にも高校が欲しい。できることなら大学の付属高校がいい」。
かつて箱根駅伝の法大ランナーであった町長は「母校に話してみようかと思っている」と語った。それから数日経って町長室を訪ね「東洋大学の付属を誘致したらどうか」と進言したら「とにかく見に行こう」ということになり、はじめて草深い「宮の台」へ案内された。
松籟爽やかな宮の台は、学祖建学の理念を顕現するのにふさわしい教育環境であった。町長は「あなたは牛久の住人だ。東洋大の付属を誘致してもらえないか。校地・校舎を無償で貸与してもいいんだ」と言うので、すぐに大学の意向を打診してみることになった。
(『東洋大学校友会100周年記念誌』所収「牛久高校覚え書」)


法大出身の町長が母校に話していたら、東洋大の付属高ではなく「法政三高」が出来ていたのか?、だとしたらその方が近隣住民にとっては……などと今更言っても仕方のない“たられば話”はさて置きまして、ともあれ床屋さんでの出会いがきっかけで、その後周辺用地の買収が難航するなど色々紆余曲折はあったものの、どうにか昭和39年4月5日に第一回の入学式が執り行われたのであります。

さて、気になるのは“箱根駅伝の法大ランナーであった町長”でありますが、箱根駅伝の公式サイトで調べてみると、大正11年に行われた第三回の六区の走者で、1時間39分32秒(七位)の記録が残っておりました。

選手詳細情報 川村衛
画像


出場したのはこの第三回だけだったようなのですが、この川村衛氏についてはこのところ大きな図書館に立ち寄る時間がなかなか取れず、詳しくはわからなかったのですが、ウェブ上に公開されていた牛久市の広報誌『USHIKU CITY NEWS 2009・5・1第1000号 』に掲載されている「歴史・読み物 昔の牛久」に氏の経歴が載っておりました。

同記事によりますと、明治35年に岡田村長の村田喜太郎の末っ子長男として生まれ、竜ケ崎中学から大正10年に法政大学に進みましたが、中退して岡田村に戻ったとの事。中退した時期はわかりませんが、箱根の六区を走ったのは一年生のときだったことになります。
岡田村に帰ってからは税務署吏員、小学校の訓導を経て昭和8年に村会議員に当選し、昭和10年には村会議員の互選により村長に選ばれ昭和17年まで在任、一方で昭和10年から22年までは県会議員も兼務していたそうです。

戦後はGHQの公職追放令により議席を離れますが、昭和26年に解除されると岡田村村長に返り咲き、先に記したように昭和29年に牛久町の初代町長に就任しました。

その後、昭和38年9月に参議員の補欠選挙に立候補することとなり、東洋大牛久高校が開校する前に町長の座を辞してしまいますが、体育館建設のための基金募集のための後援会長を務めるなど牛久高校誘致のために尽力されたようで、坂本市郎氏も先に紹介した回想録「牛久高校覚え書」の末尾の一文を
仮に地主の協力がなく、川村というひとりの人間がいなかったならば、今日の牛久高校は存在しえなかったであろう。

と結んでいます。

奇しくも黎明期の箱根駅伝ランナーとの因縁が牛久の土地に導いた東洋大牛久高校。
創部間もない駅伝部からも近い将来、箱根路を駆け抜ける選手が出て来ることでありましょう。


*H31年1月20日追記
平成29年の新人大会では優勝した東洋大牛久でしたが、翌年の茨城県高等学校駅伝では強豪の水城高校に24秒差の二位に終わり“都大路”への夢は断たれてしまいましたが、その時のメンバーの内前田義弘選手と板倉颯大選手が平成31年度の新入生として東洋大の門をくぐることになったようです。
特に前田選手は第24回都道府県対抗男子駅伝の茨城県代表チームに選ばれ、5区8.5キロの区間を13位で走りました。

東洋大の付属校では東洋大姫路と、昭和52年に閉校となった青森県の東洋大南部からはこれまでに各一人OBが箱根駅伝を走っております。

前田・板倉の両君が付属高出身箱根ランナーとなることを心より願うのであります……。

東洋大南部:沢村佐多夫
昭和52年 1977 第53回 九区 12位 1:24:04
昭和53年 1978 第54回 七区 11位 1:09:54
昭和54年 1979 第55回 六区 8位 1:02:28

東洋大姫路:多田裕志
平成11年 1999 第75回 六区 2位 0:59:40
平成12年 2000 第76回 六区 8位 1:01:27




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