猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

昭和15年の箱根五区区間賞、朴鉱采の「秋窓雑感」

2016-10-15 11:28:00 | インポート
戦前の東洋大学では明治27年から大正12年まで『東洋哲学』、大正13年から昭和4年まで『観想』、昭和4年からは『東洋学苑』と誌名や発行母体を変えながら学内誌が発行されておりました。

更に『東洋学苑』も昭和8年に経済的理由により廃刊となってしまいますが、昭和10年に新たに『思想と文学』が刊行され昭和15年12月まで発行されました。

内容は学生・教員による学術論文から学内の状況や随筆など色々ですが、昭和13年(1938)年12月発行の『思想と文学』に朴鉱采筆「秋窓雑感」という一文を見つけました。

秋窓雑感 朴鉱采
秋風も出て来た。それは我々に或一種の緊張を與える反面に哀愁を誘うものがある。夏が去り秋が来ると云う自然現象は、無意味に流れ易い人間の生活を意義あらしめる為の造化主の仕業かも知れぬ。秋は来た。確かに我々の周囲に忍び寄ってきた。悪戯に哀愁を事とする秋ではない。秋風の囁きは確かに我々に何物かを暗示してくれた。

箱根の峻嶺へと若人の血を滾(たぎ)らす駅伝競走もあと四カ月余りに迫った。その雌雄を決する精力の蓄積こそは今からであらねばならぬ。百数十名の健脚達者が各々母校の栄誉を背負って全く崇高な精神にたちかえって勝負を決すると云うことは、宛(さなが)ら古代ギリシャに於いてペルシャの大軍がこれを一呑せんとしてマラソンに上陸するや、この急報を齎す爲蜿蜒(えんえん)四萬二千餘米突を走破してその任を果すや、悲壮な最期を遂げた勇者の面影を彷彿せしめるものがある。

それには先ず練習だ。彼此と理屈を云うよりも実行だ。体験は自ら尊い真理を我々に與えるから――先ず練習一本主義で行こう。二、三日間続いた鬱陶しい天気も今日は秋晴れの申し分ない日和、筋骨隆々たる大男が六、七人も打揃って鋪道を疾駆するのだからその強勢たるや大したものである。走る、また走る。翁婆は杖を止めて羨ましそうに眺めている。その昔自分達の溌溂だった時代が恋しくなってきたのだろう。道端で遊びに耽っていた子供等は良き相手を見付けたとばかり小さな拳を握り緊めて、断然我等を引離したかと思うと、力尽きて、はたとその場にたち止まってしまう。そして今に見ろとばかり睨みつける。そう云えば将来のマラソンの勇者はこの小童子かも知れぬ。

さあ帰ってきて見ると練習を始めてから間もないN君が見当たらない。後に君の話に依ると一人後に残されてノソノソやってくると側を通って行く電車の中の女性から微笑の視線を投げられて、これに元気を得たN君今迄のノロ坊が一転して超特急にたちかえり、無我夢中で尾行して行く途中道を間違えて閉口したと云う話。N君くれぐれも悔しがって曰く「彼女は今晩はよう寝れまい」と。

台所から焦げ飯の匂いが漂い奥座敷から花の一騎打ちで騒擾を演ずるかと思えば、何処からか宵待草のメロディが流れてくる。我等はこの中に何物かを掴んで已まないものがある。

鶏声台上にも秋は訪れた。学園興隆の秋である。我等若人はこの秋に直面して身を共に練ってお互い融和の中に何物かを捧げて行きたいものである。
(『思想と文学』第4巻2号1938年12月刊)


文中にあるように朴鉱采さんは昭和13年~15年の箱根駅伝に出場し、昭和15年には山登りの五区で区間一位(昭和10年の池中康雄さんに続く東洋大では二人目の区間賞)となっています。

朴鉱采さんの出場した箱根駅伝は下記の通り。
*円内数字は各々の区間順位
昭和13年 第19回 一区 二区 三区 四区 五区
(1938) 14:44:28 磯 清一 小椋 実 福島 徳令 金成 元夫 原 茂清
七位 1:27:47 1:18:26 1:18:48 1:22:05 1:43:28
(参加12校) 2:46:13 4:05:01 5:27:06 7:10:34
六区 七区 八区 九区 十区
大竹 太郎 松浦 重治 朴 鉱采 青樹 信正 原田 博
1:26:47 1:33:01 1:29:24 1:27:35 1:37:07
2:59:48 4:29:12 5:56:47 7:33:54


昭和14年 第20回 一区 二区 三区 四区 五区
(1939) 15:12:05 吉川 謙治 小椋 実 高岡 幸雄 原 茂清 朴 鉱采
八位 1:22:20 1:20:03 1:24:32 1:18:38 1:43:57
(参加10校) 2:42:23 4:06:55 5:25:33 7:09:30
六区 七区 八区 九区 十区
石本 三郎 那須 武則 小川 務 安城 敬二郎 松浦 重治
1:48:41 1:25:14 1:37:33 1:30:20 1:40:47
3:13:55 4:51:28 6:21:48 8:02:35


昭和15年 第21回 一区 二区 三区 四区 五区
(1940) 14:21:42 高岡 幸雄 高瀬 登 池中 康雄 小椋 実 朴 鉱采
八位 1:24:25 1:14:12 1:17:44 1:20:49 1:40:34
(参加10校) 2:38:37 3:56:21 5:17:10 6:57:44
六区 七区 八区 九区 十区
松尾 喜雄 赤木 義夫 小川 務 安城 敬二郎 武智 徳令
1:32:46 1:24:08 1:29:18 1:22:18 1:35:28
2:56:54 4:26:12 5:48:30 7:23:58



「秋窓雑感」が書かれたのは二回目の箱根を目指していた昭和13年の秋。文中に出て来るN君は七区を走った那須武則さんのことでしょうか……。


以前にも紹介しましたが昭和53年発行の『校友会報』111号に掲載されている陸上部OBの方による座談会「われらの時代の“箱根駅伝”を語る」では、箱根駅伝に初めて出場した時の一区の走者である兼頼米太郎さんが、戦前の練習の様子を次のように語っています

兼頼:陸上競技部ができましたのは昭和二年ですが、その頃は相当な人がいたようです。けれども、グランドがあるわけじゃない。たまには他の学校のグランドを借りにいったりしたわけです。そんな関係でおのずと長距離ということになりまして、じゃ、ひとつ箱根駅伝に参加しようじゃないかということになったわけです。駅伝に参加するには最低十人の選手が必要でして、中学時代に長距離をやっていた人を選ぼうということになって、昭和七年の四月から選手を養成するわけです。肴町の風呂屋(現白山・南天堂書店のとなり)から駒込、飛鳥山、西巣鴨を通って池袋までのコースを走るわけですが、風呂屋を出発点にするのは、お風呂屋へ行って裸になって、帰りにはお風呂で汗を流すというわけですよ。(笑)



同座談会によれば、川越にグラウンドができるまではトラックの練習は企業や他校のグラウンドを拝借していて、長距離の練習は昭和三十年代の半ばまで白山を出発点として、時には都電と競争しながら学校周辺を走っていたようです。


時は移り、戦前の箱根を走った方々は、いまや殆どが冥界からレースを見つめている事と思いますが、合宿所で集団生活を送り、日々の練習から食事のメニューまで科学的に管理されている今日の箱根ランナーの生活ぶりを見たとき、彼らはどのように思うのでありましょうか……。


関連記事
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初優勝は第二球場・・・雨と六大学の熱戦に泣かされた昭和37(1962)年春の東都大学野球

2016-10-01 10:32:00 | インポート
例年になくぐずつき気味のお天気のせいで、今季の東都大学野球は第四週までに四日が雨天中止となってしまいました。
特に第三週は、火曜日が中止になった御かげで22日・秋分の日の木曜日が一部・二部併用で四試合開催となったので、小躍りして喜んだ東都ファンの方もさぞかし多かったのではないかと思いますが、残念ながらこの日も恨みの雨となり、更に翌日も中止で東洋・国学、日大・亜大の二回戦が試合日未定のまま未消化となっております。

未消化ゲームが発生するのは東都にはつきものなのですが、この先の天気予報を見るとすっきりしない空模様が続きそうなので、この先更に増えると、ただでさえ戦国の東都は優勝の行方を占うのが難しくなってきます。

月も変わったことですし、爽やかな秋晴れが続くよう願いたいものであります。


未消化ゲームがなかなか消化できないと、スケジュールを変更して一日三試合開催日を設けることもありますが、東都大学野球で初めて三試合行ったのが昭和37年春・東洋大が初めて一部に昇格したときのシーズンでありました。

まず開幕の第一週で火曜と金曜が中止となり、1勝1敗で芝工対駒澤・東洋対中央の二カードがともに三回戦未消化となってしまいました。
この試合を第三週の火曜日に行ったのですが、東洋対中央は引き分けてしまい、引き続き未消化ゲームとなってしまいます。
この後一日空けて木・金に当初の第三週のカード組み入れましたが、木曜が雨のため翌週に三試合の日程が組まれました。
この三試合はいずれも二回戦で決着がついたのですが、この後リーグ後半戦に入って六大学も雨にたたられた上に、三回戦までもつれ込んだり、立大・早大戦が初戦から三試合連続で引き分けたりしたため、東都は水曜か木曜からの開催となってしまい、一週の東洋対中央、六週の駒澤対日大、七週の日大対農大の三カードが最終週を終えた後も未消化ゲームとして残ってしまいました。
神宮球場のスケジュールは六大学の早慶戦終了後に新人戦(当時は一回戦総当たりのリーグ戦)、さらに立教と法政が同率で並び、新人戦の前にプレーオフが行われることになり、おまけに早慶戦は日・月と二日続けて中止となり、東都の試合が入り込む余地は無くなってしまいました。

しかも、この時点ではまだ優勝は決まっておらず、芝工大が8勝4敗勝点4勝率・667で全日程終了、駒沢大が8勝4敗勝ち点3・勝率667で対日大戦を残し、中央大も7勝4敗勝ち点3・勝率・636で東洋大戦を残しておりました。

駒沢大は日大に勝てば念願の初優勝、中央大は勝って駒沢大が負ければ芝工大とプレーオフ、但し神宮は使えない…ということで、6月5日になって新聞には次のように日程が発表されました。

東都大学野球の日程
のびていた東都大学野球リーグの日程が次の通り決まった。
▽六日(零時半)中大・東洋大 日大・農大
▽七日(1時半) 日大・駒大
球場は神宮第二

なお中大、日大がそれぞれ勝った場合は、芝工大・中大による優勝決定戦を八日午後一時から同球場で行う。
(『毎日新聞』昭和三十七年六月五日付朝刊)

六日の試合は中央大が6-3で東洋大を破りって優勝に望みをつなぎ、日大・農大は連戦となる日大が駒大の初優勝阻止を意識したのか、エースの千原投手を温存し15-10の乱戦で農大に勝利しましたが、翌七日の試合は3-1で駒沢大が勝ち、昭和24年の一部昇格後25シーズン目で初優勝を飾りました…第二球場で。

このシーズンに神宮で行われた東都と六大学の試合は下記の通りであります。
昭和三十七年春の神宮での試合 (判別しやすいように六大学の校名は一文字にしました)

神宮球場 ............. .............
4/10 東都① 芝工 駒澤 中央 東洋
4/11 東都① 芝工 3 1 駒澤 中央 3 2 東洋
4/12 東都① 駒澤 3 2 芝工 東洋 4 0 中央
4/13 東都① 駒澤 芝工 東洋 中央
4/14 六大学① 1 0 4 0
4/15 六大学① 3 0 0 0
4/16 六大学① 6 0
4/17 六大学① 2 0
4/18 東都② 駒澤 5 0 農大 日大 東洋
4/19 東都② 農大 5 1 駒澤 日大 3 1 東洋
4/20 東都② 駒澤 6 0 農大 日大 2 0 東洋
4/21 六大学② 4 3 2 1
4/22 六大学② 4 0 2 0
4/23 六大学② 2 1
4/24 東都①残 芝工 9 2 駒澤 中央 2 2 東洋
4/25
4/26 東都③ 芝工 日大 駒澤 中央
4/27
4/28 六大学③ 1 0 2 0
4/29 六大学③ 4 3 2 1
4/30
5/1 東都④ 芝工 5 0 日大 駒澤 6 0 東洋
(三試合) 中央 2 1 農大
5/2 東都④ 芝工 2 0 日大 駒澤 4 3 東洋
(三試合) 中央 12 2 農大
5/3
5/4
5/5 六大学④
5/6 六大学④ 1 0 4 0
5/7 六大学④ 4 1 2 0
5/8 六大学④ 2 0 3 2
5/9 東都⑤ 芝工 2 0 東洋 駒澤 3 0 中央
5/10 東都⑤ 東洋 4 1 芝工 駒澤 5 4 中央
5/11 東都⑤ 芝工 4 2 東洋
5/12 六大学⑤
5/13 六大学⑤ 4 3 4 3
5/14 六大学⑤ 6 5 2 0
5/15 六大学⑤
5/16 六大学⑤ 6 4 3 0
5/17 東都⑥ 駒澤 3 2 日大 東洋 4 2 農大
5/18 東都⑥ 日大 3 1 駒澤 東洋 7 0 農大
5/19 六大学⑥ 1 0 2 2
5/20 六大学⑥ 6 5 2 2
5/21 六大学⑥ 7 0 5 5
5/22 六大学⑥ 6 4
5/23 六大学⑥ 4 3
5/24 東都⑦ 中央 3 1 芝工 日大 3 2 農大
5/25 東都⑦ 中央 5 4 芝工 農大 4 2 日大
5/26 六大学⑦ 2 1 7 0
5/27 六大学⑦ 5 2
5/28 六大学⑦ 7 2 10 2
5/29 六大学⑦ 2 1
5/30 東都⑧ 芝工 4 0 農大 中央 1 0 日大
5/31 東都⑧ 芝工 3 2 農大 日大 5 3 中央
6/1 東都⑧ 中央 8 5 日大
6/2 六大学⑧ 8 0
6/3 六大学⑧
6/4 六大学⑧
6/5 六大学⑧ 2 1 神宮第二
6/6 決定戦 3 0 東都①⑦残 中央 6 3 東洋 日大 15 10 農大
6/7 新人戦 東都⑥残 駒澤 3 1 日大
6/8 新人戦






第二球場は前年の昭和三十六年一月十一日に着工、三か月の突貫工事で四月十九日に球場開きが行われましたので、この時はまだ二年目の新しい球場で、当時はホームベースが国立競技場側にありました。

画像















画像






















また、東都の“球場難”について、当時の新聞は下記の様に論評しております。


― 球場難にたたられ練習にも余計な苦労 ―
ことしのリーグ戦は神宮球場を六大学の使わぬ火、水曜の両日を予定していたが、六大学が接戦の末、ほとんどのチームが三回戦までもちこまれた上に、雨にたたられたことなどが重なり、また東都大学も六大学同様の接戦を繰り返していたから、六大学が優先する神宮球場を思うように使えず、リーグ戦初の一日三試合制を実施したこともあった。そして、晴れの優勝を決定する最終試合も、神宮球場が六大学の新人戦にとられて、神宮第二球場で行うありさまだった。だから、各校ともいつ試合が行われるか、選手のコンディション調整には相当苦労していたようだ。
なにしろ、六大学の行われる土日曜のいずれかが雨で中止、その上この週の試合が三回戦まで持ち越されると、東都大学の予定日である火曜日にくい込み、かりに木曜と金曜日にやっても決勝戦は次週の神宮球場のあいているときに行うことになる。
 
ある学校では練習中、ラジオで六大学の実況を聞きながら、翌日予定どおり自分の学校が試合できるかどうかみきわめた上で、予定されている先発投手の練習法を変更するありさまだった。

こんな状態だから、結局頼れるエースのいるチームは、翌日ゲームが行われないとわかっていれば、一回戦に完投していても、また二回戦に投げさせ、そして次週行われる決勝戦にも投げさせることができるので、どうしても頼れる投手のいるチームが有利になっていたようだ。この点優勝した駒大には泉投手が終始故障もなく投げぬいたのに反し、昨秋優勝校芝工大は開幕当初駒大に勝ち越しながらも中盤戦の大事なときにエース薦田が右肩を手術、中大に連敗したことがたたって優勝を逸し、また一部昇格したばかりで活躍を期待されていた東洋大も、エース広沢が軸足をねんざして思うように投げられず、五位に泣いたなどがよい例となっていた…中略…総体的にみると優勝した駒大も、もし最終試合の日大に敗れると三位。改めて芝工大、中大との間で優勝決定戦が行われることになっており、実力的には大差なかった。三十八試合中、ストレートで勝負がついたのは、わずか八試合であったことからも証明されよう。六大学に比べると投手力の弱体が目立ち、試合運びの点で大事な時に無謀な盗塁失敗、バック守備陣の手痛いエラーが飛び出すなど、技術的にみて劣勢はまぬがれない。それにはやはり専用球場の確立が急務となっている。
(『毎日新聞』昭和三十七年六月九日付朝刊)


…毎シーズンのことだが、神宮第一球場の使用日が限られ、六大学リーグの日程に左右されて変則な日程編成で苦しんでいたが、なんとか専属球場は持てないものか。東都リーグ加盟校二十七校が心を一つにして、この問題を解決しなければいつまでも六大学野球を追い抜くことは出来まい。
(『朝日新聞』昭和三十七年六月九日付朝刊)



今日に至るまで球場問題は未解決のままでありますが、実はこの頃“専用球場”の候補がふたつ上がってくるのであります…。

一つは新宿御苑近くに新球場設立の話が持ち上がっており、二年後に東都を脱退して新たに首都大学野球を立ち上げた人たちもこの新球場を当てにしていた節があります。
結局、この新球場案は予定地が住宅街という事で、断念せざるを得なかったようであります(鮎川義介までが仲裁に乗り出したようですが…)。

もう一つは第二球場で、ファウルボールが日本青年館の玄関先に飛び込んでくるので、昭和三十八年にホームベースを現在の位置に改修する計画が持ち上がるのですが、その際スタンドを三万五千人収容に増築して、国鉄と東映のホームグラウンドにする構想が持ち上がりました。

アマチュア側の猛反対で実現はしませんでしたが、東都だけは一時賛成に回るすったもんだが起こるのですが、このお話はいずれまた機会を改めてまとめてみたいと思います…。



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