ここで、一瞬「SWITCH」と場面が変わり…
「僕、元々、生まれつき左利きなんですけど
打ったり投げたりは右なんですよ、僕…」と甲斐さん
「一番、プロ野球選手とかになっちゃいけないタイプじゃないですか?
左利きで生まれてるのに、ナンで右で投げる?右で捕る?右で打つ?っていうことなんですけど…(笑)
で、僕…実は、右ギターを左でしか弾けないんです」と明かされると
中井さんは「えっ!?」と驚き、考え込まれるご様子(笑)
それをご覧になった甲斐さんが笑いながら
「みんなが弾くギターありますよね?」と話し始められたトコで
「それをこうでしか弾けないの?」と、エアギターのネックを
右から左にひっくり返すジェスチャーをなさると(笑)
甲斐さんも同じようなジェスチャーで「アレをこうしてしか弾けないんですよ」と説明
「へんなの!」とおっしゃる中井さんに
「だから、サウスポー用に弦を張り替えると、僕、弾けないんですよ
(証拠映像として?(笑)甲斐バンドの赤レンガ倉庫ライブの「バス通り」が流れ)
で、ポール・マッカートニーは(左右)どっちでも弾けるらしいんですけど
『ええーっ!?』って思うんですけど、僕は右用のギターでしか弾けない
だから、つまり、僕に何か教える先生とか師匠って、いないんですよ」と甲斐さん
「九州少年」には…「人が才能に恵まれる幸運が、その出発点にあるとしたら
まさに、それは母のおかげである。左利きの僕に文句を言わず、一切直さなかった
小学校に上がる昭和30年代といえば、左利きに対する偏見も強く厳しかった
折に触れ、教師が事あるごとに意見をして来た
『ウチは直しませんから』…家庭訪問に来た教師に
強い口調でそう言っていたのを聞いたことがある
右利きの脳の使い方と違って、左利きが使う右脳は、情操感が鋭く
言葉やビジュアルに敏感だと言われている。美意識優先なのだ。独特で変わっている
特に僕の場合は、字を書くとか、ハシを使うとかの細かいことはすべて左なのに
スポーツになると、投げる打つは右利きという
野球でいえば、これくらいプロ向きではない人間も珍しい
バスケットのドリブルは左が得意だが、シュートは右の方がスムーズ
サッカーは左右とも使えるが、利き足は左である
さらにギターに至っては、右用のギターを左でしか弾けない
左用に弦を張っても無理です。弾けません
こうなると、一般のステレオタイプの考え方はハマらない
だから、僕には形の上での師はいない。他人に学ぶのは心の在り方だけだ」…と記されてます
それはともかく…中井さんが「だって、コードの押さえ方とか…?」とおっしゃると
「うん、逆」と、当たり前だと言わんばかりにお答えになり(笑)
中井さんが「だけど…逆だけど…?」と戸惑われているのへ
「うん、フツーの人はこうなるんですって」と
まず、右利きの方がコードを押さえる時の左手首を真似なさってから
今度は「僕、こうなるんですよ」と右手首をエグい角度に曲げて見せられると(笑)
「でも、それって…なに?最初ナンでそうなっちゃったんですか?」と中井さん(笑)
甲斐さんは「ハイ、出ました!そうですよね?(笑)」と
想定なさっていた通りの?展開にニンマリされ(笑)
「兄弟4人います…(『それ(余分にギターを)買って貰えないね』と中井さん)
ギターが1台あります…(『(右用のギターが)あるから…』)…そう!そう!
ある日、こうやって(左手で)持って、覚えちゃったんですよ
3ヶ月か4ヶ月で…加山雄三の『旅人よ』っていう曲があって…(と「旅人よ」が流れ始め)
アレ、FとBフラットなんですよ(…とギターを弾くジェスチャー)…もう、結構(難しい)
(『もう、Fなんて、一番押さえられないコードじゃない』と中井さん)
Bフラット、もっと押さえられないです(笑)
僕なんてもう…そっち(右利きは)すごく楽でしょ?
したら、兄貴が…僕…『Bフラットちゃんと鳴らないんだよね』って言ったんですよ
したら、対面に兄貴がいて『お前さあ、逆で押さえてるの知ってた?』って言われたんですよ
『ええっ!?』って、その時初めて気がついた(笑)」と説明なさってましたが
一時は「子供に『頬っぺたにごはん粒ついてるよ!』って言うと
(鏡に映したみたいに反対側の頬っぺたを指差して)
『こっち?』ってやる、アレとは違うから!(笑)」と、おっしゃっていたんですよね?(笑)
ともあれ…「でも、その時、もうそれなりに弾けて歌えてたんで
『どうせプロになる訳じゃないし…』って思って、ずっとそれで行った…
で、プロになっちゃったっていう…(笑)
(『で、そこで磨きをかけたってこと?』)…そう!そう!そう!磨きを…
楽しいし、歌えて『俺ってイイな』と思ってました(笑)」と笑っておられましたが
「磨き」をかけることは元より、独自のコードを編み出されたりもしてらしたんですよね?
ともあれ…ここで「ポップコーンをほおばって」が流れ始め
六角精児さんが「1974年、甲斐は20才の時、全国的なフォークコンテストで優勝する
(コンテストのステージで、ギターを手に歌っておられる甲斐さんの写真)
その後、甲斐は地元のミュージシャンたちと甲斐バンドを結成し、レコード会社と契約
(「裏切りの街角」のジャケ写とメンバーの氏名がクレジットされ)
同じ年『バス通り』でデビューする(「バス通り」のジャケ写)」とプロフィールを紹介
そして、奥さんの大好物(笑)…「渋谷公会堂 1977」のライブから
「氷のくちびる」を歌われる「ロン毛の甲斐さん」が流れる中
「やがて、その音楽性はロック色を増し、ライブは熱狂的な若者で埋めつくされるようになった
一方で、テレビの歌番組に出演することは、ほとんどなかった」とのナレーションがあり
中井さんが「断るじゃないですか『テレビはもう、ちょっと…』って
その時、不安なかったんですか?」と質問なさると、甲斐さんは「ない!」と即答(笑)
「えーと…最初…最初出てたんですよ…(『最初?』と中井さん)
ハイ、で…あっ!NHKの『レッツゴーヤング』とかも、2~3回出たこともありましたけど…
えーと…10時くらいに(テレビ局に)入って、撮りが夕方の6時くらいだったりするんですよ
もう、半日潰れるじゃない?もったいないじゃないですか?
だったらもう、その間、ツアーで自分たちの…
地道に自分たちのファンを地固めするために…作るために切り替えたんですよ
もう、ツアーだけ延々やるっていう風にした
テレビ出て、売れて行った方が簡単じゃないですか?
だけど、簡…そうじゃない方を選んだんです」と話されたトコで
中井さんから「うーん、やっぱり『じゃない』方を選ぶタイプですよね?」と言われて
「ああっ!ホントだ!そうですね、そう!そう!そう!そうなの」とお気づきになった模様(笑)
中井さんが「だから、ホントにその…結構『じゃない』方を選ぶって、勇気いるじゃないですか?
(『イヤ、そうです』と甲斐さん)…だから、あのー、ホントにすごい!
損得を考えると、ナンか大勢に巻かれてる方が、得が多いような気がするんですよね」
…と、おっしゃるのへ「でも、近道って怖くないですか?」とカブセられる甲斐さん(笑)
中井さんが「怖いです」とお答えになっていた番組ツイッターの動画に続き…
「そうなんですよ!俺、近道もちょっと怖いなって思ってるのがあって
だから、僕らが『裏切りの街角』…まっ、2枚目のシングルだったんですけど
75万(枚)くらい売れて、そこでツアーすごい出来るようになったんですよ
売れて…って、まあ日本中(回れるように…)」
…と話されてましたが、神田共立講堂でのデビューコンサートが
ゲストで出演していたチューリップのファンで埋め尽くされていたことで
「本当に悔しかった。俺たちは、たった100人でもいい
俺たち甲斐バンドを見に来てくれるお客さんが欲しかった」という気持ちをもたらされ
「このセカンドシングル『裏切りの街角』は死んでも売りたい!」と
「毎日、どんな所へでも出かけて行って、必死でやっていた
その年は、俺たちは、たったの1日も休んでいない」といった活動の結果
掴み取られた全国ツアーなんですよね?
もっとも、前述のテレビ収録のやり方もさりながら
終了後の「反省会」で「ナンか、他のアイドル系歌手と違う扱われ方をしたり」とか
「甲斐バンドなんて『イカバンド』だ!」と言われたり…といったことに加え
そうしたテレビ業界も含めた、当時のいわゆる「ザ・芸能界」を見聞きなさって
「派手な見てくれの虚像に踊ってる内に、俺自身、足元すくわれちゃうぞ」
「甲斐バンドの実体が食われてボロボロになりかねないぞ」
「この世界は、ほどほどにしとけ、ヤバイぞ」…という「内部の声が発信された」ことが
「じゃない方」をお選びになった理由みたいです