甲斐さんは「照和」時代のチューリップと海援隊について触れられたあと
阿川さんから「陽水さんは重なってないんですか?」と訊かれて
「陽水さんはプロになった後、フラリと『照和』にいらしたことがありました
僕が『照和』のウェイターみたいなバイトをやってた頃で
そこでチーフが陽水さんに『歌っていただけませんか?』ってお願いしたことがあります
ご本人は覚えてらっしゃらないだろうけど『ああ、いいですよ』って言ってくださってね
『リンゴ追分』歌ってくれましたよ。これがすんげぇ上手くって
プロってすごいって思い知らされたよ
(『そこで「リンゴ追分」っていうのがまた…』と阿川さん)
陽水さんだよねえ。ここ!って時の決め方が」とお答えになってますが
かつて、ご自身の著書「荒馬のように」でも「『照和』のチーフが陽水に言った
『すいません、コーラくらいしか出せませんけど、1曲歌って下さい』って
彼は気軽に『ああ、いいですよ』とステージに向かった訳ね
そこで彼は、コーラ1杯しか出せないというステージなのに、ギターの弦を張り替え始めた
そして『リンゴ追分』とビートルズナンバー、それに『傘がない』を歌った
俺はその時、プロは東京でどんなに厳しい生活をやっているのかを
まざまざと見せつけられた気がしたよ、はっきりと
『クソッ!俺もやってやるぞ』と心に決めたね」と記されていて
その後、ご自身のラジオ番組「サウンドストリート」に、陽水さんがゲスト出演なさった際に
この著書に書かれた通り「プロって厳しいんだなあと思い知った」と話されたところ
陽水さんは「僕みたいな欲どうしい人間が、そんなコーラ1杯で歌う訳ないじゃない(笑)」
…と全く記憶にないご様子で返されたそうだけど
奥さんは「イヤ!きっと照れくさくて、覚えてないフリしたんだと思うよ」と申しておりました(笑)
ともあれ…「じゃ、そういう人たちの姿を見て
甲斐少年もデビューを目指した?」という阿川さんの質問に
甲斐さんは「バンドで出始めた頃は高校生でしたけど
卒業したらサラリーマンになるつもりでしたよ。ちゃんと朝でかけて、夜に帰ってくる
日銭じゃない、月給取りの仕事に憧れてた
(『家庭環境の影響?私もサラリーマンと結婚するのが夢だったし』と阿川さん)
たぶんそう。だから卒業してわりと大手の旅行代理店にちゃんと就職したんですよ
でもさ、会社員だから背広で過ごすんだけど
何着も持ってるわけじゃないから、少ない手持ちを着回す羽目になるんです
それで、ある雨が降った日、そんなにキレイじゃない背広に雨粒がポツリと落ちた
そこで白いホコリがシュッと舞い上がったんですね
俺はそれを見て『ダメだ、毎日新しい服を着られるような生活がしたい』と思って
辞めようと決意したんです…(『そんなことで!?』と阿川さん)
変なところがデリケートなんだよね。なんにせよ、スーツひとつで心が折れちゃうような
そんな細い神経のやつには、サラリーマンは向いてないって確信したんですよ
だから就職したとか、会社員生活をしたことがある、なんて本当は言う資格ないよね」
…とお答えになってますが「スーツのホコリ」は、いわゆる「最後の一押し」で
それも「毎日新品の服を着たい」のではなく、洗いざらしのTシャツでもいいから
「こざっぱりとしていたい」という意味みたいですし
そのお考えに至るまでに、例えば、先輩社員の方が運転する車の助手席で
「寝たらいけないと思いつつ、どうしても眠っちゃう
ああ、俺、サラリーマンに向いてないなと、その時に思った」とか
「どんな仕事でも、苦しいことや辛いことはある
でも、それを我慢して、この先30年勤め上げて部長になれたとして、それが嬉しいのか?
…と考えた時に、全然嬉しくないって思っちゃったんだよね
だったら、同じ苦しく辛いなら、自分の好きなことをやりたいって思った」といった
日々悩まれたことの積み重ねがベースになっていらしたようで
プロデビューなさったあとには「今、当時を振り返って思うのはね、俺がサラリーマンを辞めたのは
決して仕事が嫌いだったとか、人間関係に悩んでしまったというのでなく
もっと基本的なところにあったような気がする
学校に通ってる時に、遅刻の王者だった俺が
毎日同じ時間に、同じメンバーで、同じような昼メシを食って…
何か時計を背負って生きてるみたいなところがイヤだったんだ」とか
「サラリーマン挫折派ではあるけど、わずか4ヶ月でもやって良かったのは
満員電車に乗ったか、乗らなかったかというようなことではなくて
ある決められた9時から5時まで働くということが、いかにハードかと知るだけでも
かなり違ったと思うからなんだ」とおっしゃってました
その一方で「日本の社会で働く男の70~80%がサラリーマンな訳だから
ミュージシャンを選んだ時は、もうここをハズしたら
俺は何なんだ!?っていう危機感があった」ともお考えになったみたいです
阿川さんが「辞めてどうなさったんですか?」とお訊ねになると
「サラリーマンに憧れてたというのは、つまり自立したかったってことだと改めて気づきました
生計を立てる手段なら、そうか『照和』に戻るしかないよなって
で、当然、高校時代のバンドはなくなってるから、ソロで歌い始めたんです」と甲斐さん
もっとも、当時の「照和」の皆さんは「絶対に戻って来る」と思っておられたらしく
「サラリーマンを続ける」という方がいらっしゃらなくて、賭けが成立しなかったんですよね?(笑)
「かくしてライブハウスの周りに行列ができるくらいの人気者になったと」という阿川さんの言葉に
「話を戻してくれてありがとうございます(笑)
レコード会社の人が目を付けてくれて、最初はソロでデビューしないかって話だったんです
でも、僕がとにかくバンドサウンドが好きだったから
バンドでデビューできるようにねじ込んだんです。それが甲斐バンド
やっぱりやるなら楽しい音楽がいいじゃない
エンターテイメントがやりたかったんですよ、ストーンズのようなね」と返され
「何でも自分で決めてきたって感じです
詞も曲もそうだし、アレンジャーでもプロデューサーでもある
レコードジャケットの構図や誰に撮ってもらうのか
そういう細かいところまで全部自分でやってきた
(『誰かに任せようって思わなかったの?』と阿川さん)
結局、音楽をやっていくうちに自分が今、本当に聞きたい音楽は誰もやってくれないんだ
だったら自分で書くしかない。海外の素晴らしい曲をたくさん聞いてきた
で、メロディーは洋楽だけど歌詞は日本語で泣きたいんだ
それが自分のスタイルだと思ったのが大きかった。そこから曲を書き始めたんです」
…と、これも甲斐フリークには有名な話ですよね?
阿川さんが「デビューなさってからあっという間に売れましたよね
やっぱり『HERO』のヒットで世間的に認知された感じですか?」とお訊きになると
「二枚目の『裏切りの街角』が七十五万枚くらい売れて、すでに下地は整っていたと思います
ライブをすれば、チケットは即完売。三日間、会場は満員御礼
さあ、あとはどでかいシングルのヒットさえあれば…という雰囲気でしたね
(『「HERO」の出現は画期的でしたよ』と阿川さん)…セイコーのCM曲だったんだけど
一月一日の午前零時に全民放をジャックして流したんですよね
いやあ、すごいプロジェクトでした」と甲斐さん
でも、いくら「来年、俺たちは1位になります!」宣言をなさったくらい
自信がおありだったとはいえ、20代の若者が「絶対にコケられない」
ン億円がかかった巨大プロジェクトの担い手になるという重圧は、いかばかりかと…(汗)
実際、大晦日の夜は落ち着かない気分で、新年を迎える直前まで国営放送をご覧になっていて
「危うく見逃すトコだった(笑)」とおっしゃってましたよね?(笑)
もっとも、そんなこととは夢にもご存知なかったであろう阿川さんが
「派手なことをなさるわりに、テレビにはあんまり出てなかったですよね」とおっしゃると
甲斐さんは「テレビってインパクトと即効性はあるけど、拘束時間が長いでしょう
夕方から放送される番組に出るのに、午前中に局に入ってずっと待ってなきゃいけなかったりする
それは無駄だろうと思ったんです。テレビに出るのに長い時間無為に過ごすより
百人でもいいから自分たちだけの観客をつかまえる
ライブをたくさんこなした方がいいって僕が主張してね
二年目からはすっぱり出るのをやめました」と説明なさってましたが
当時から「何百万人という視聴者が、テレビ画面の向こうにいると頭では判っていても
カメラとスタッフしかいないスタジオで歌うのと
目の前に生きた観客がいるステージで歌うのは全然違う」と話され
その数年後には「テレビっていうのは、バストショットが多いから
ずっとテレビに出て慣れている人は、どうしても上半身だけの動きになって来る
これが、ライブやる時にはマズイんだよね
やっぱり、全身使って歌わないと何も伝わらないよ」とおっしゃっていたそうで
「ボーカルは全身が楽器だから、ジムに通って身体を整える」というお考えといい
やはり根っからの「ライブバンドマン」でいらっしゃるんだなあと…