続いては、甲斐さんが番組冒頭で触れていらした「天声人語」についての投稿…
「ひどく落ち込んだとき、あるいは疲れきったときに」
「部屋のあかりを消し、暗闇で甲斐バンドの曲を聴くのだ」という一節を挙げられ
「一面のコラムを任されるくらいなら、執筆者はベテランでキャリアを積んだ方なのでしょうが
『高校生のころから変わっていない』とのことで」
「『励まされる、というのとは違う。絶望のなかでもがくようなロックに、なぜか心が落ち着くのだ』
…と続く文章の中の『もがく』という言葉が胸に残りました」との内容に
「『人生の悲しさ、恋のつらさを懸命に伝えようとする歌声とギターがある』
…ってトコも書いて欲しかったなあ」と奥さん
まあ「オリジナル甲斐バンド」にこだわりのある彼女にとって
初期から中期の曲に代表される「歌声とギター」は外せないんでしょう(苦笑)
かつて、甲斐さんが「エラそうなヤツがよくいうじゃないか『くじけるな、立ち上がれ!』って。
ふざけんなよな!聖人君子じゃないんだから、俺たちは。
くじけるよ!くじけるにきまっているじゃないか!」とおっしゃった通り
「負けるな!頑張れ!」などという直截な応援の言葉を使わず
「そのとき、俺が一番思っていること、一番傷ついたこと、一番痛んだこと
一番深い想い、それらに一番近いニュアンスでつくった歌がいい歌だと俺は思う」
…と、お書きになった歌の中に「腰まで泥につかり、泥まみれになりながら」
「高く駆けあがりたい」と「もがく」姿を感じることで癒されていたんじゃないかと…?
今年のツアーを「史上最強」と呼ぶのも、湾岸戦争について書かれた「レッドスター」や
アメリカのご友人お二人に捧げられた「カオス」
「家族はいても家庭はない時代」に「味噌と土鍋が売れ始めた」ことで
改めて「家族」というものを見つめ直されたという「風の中の火のように」や「嵐の明日」
「こんな時代だからこそ、せめて目線は上げて行こうよ」と呼びかけられた「目線を上げて」
…などなど、その時時の甲斐さんが「書きたい」「書かずにはいられない」
…と、いわば衝動にかられてお書きになったと思われる曲が
現在のコロナ禍やウクライナ情勢と相まって、再び新たな輝きを放っていたからかなあと…?
それはともかく…甲斐さんは「そうなんですよね、さっきも言いましたけど
昔は、大学入試の問題にさえ…(『そうですね』と松藤さん)…って、俺たち言うじゃん?
で、山田くんが…文化放送の山田くんが、俺に電話かかって来た第一声も
『甲斐さん、天声人語ですよ!あの大学入試までやった』って、おんなじこと言うんですよ(笑)
つまり、40…今の40代以上の人たち、みんなそういう風に言うってことですよね
えー、最近はちょっとまあ、どうか知りませんけどねぇ…だから、僕も少し驚きました」と話され
「えー、ねぇ、この彼はですね、(投稿者名)くんは
『ライブのあと、大切な人をそっと抱きしめたい気持ちになりました』と…天声人語読んでね
『が、あいにく独り身で、恋人もおらず無念です』って…(笑)残念ですね
これ、キミ、独り身で残念だったらね、もて余す時間は、せめて僕らのライブに費やして下さい
(『そうですね』)…ええ、あのー、それがお互い幸せなんで…」とアドバイス?なさって(笑)
「えー、ナンか、最近あのー、天声人語の数ヶ月前に、福岡の西日本新聞っていう
そこの一面のコラムにも載ったんですよ!コラムづいてるのか、ナンか…(笑)
そういう世代が…(『そう思いますね』)…そういうことね
50代前半の世代が、もうこういうコラムを書く…書き始めたと…
(『そうですね、社説的なところを書くような感じですよね』)
そうなんだ?…っていうことですよね?
ナンか、ちょ…ちょっと、いっぱしになったような気になりましたね
ダメですか?(笑)いっぱしになったら(笑)ちょっと、いっぱしになった気が…うるさい(笑)
(『そういうこと言うようになったね(笑)』)
いっぱしになりましたね…うるさい(笑)」と、おっしゃってましたが(笑)
この「数ヶ月前」の「西日本新聞のコラム」というのは、おそらく?1ヶ月前の5月8日…
「母の日」の「春秋オピニオン」のことかと…?(笑)
「いつの世にも『母』がいて」というタイトルで
「戦後日本の占領行政を率いたマッカーサー
母親は8歳まで息子にスカートをはかせ、大学に入ると近くのホテルに移り住んだ」
「超偏愛型の母子関係であろう」に始まり
「溺愛タイプは江戸の昔にも『女親(おんなおや)せがれの嘘に足してやり』と古川柳
説教どころか嘘の補強までとは」と「親バカぶりには呆れるばかり」とか
「もっと(時代が)進めば信頼崩壊型の関係になる
放蕩無頼の棋士として知られる囲碁の藤沢秀行さん。母親は墓を買うとき孫の名義にした
『あいつのことだから墓まで売り飛ばすかも』」と来て
「一人前に育てても心配は絶えない
映画のポスターを見た高倉健さんの母親は、かかとの絆創膏に目を留めた
『あの子、またあかぎれ切らして』
他には誰一人気づかなかったのに
福岡から東京に出た甲斐バンド。武道館の大舞台で初のコンサートをしている時刻
リーダーの甲斐よしひろさんの母親は小雨の中でお百度を踏んでいたという」
…とファンの皆さまには、お馴染みのエピソードが綴られていて
「超偏愛型」や「信頼崩壊型」の例じゃなくて良かったなあと…(笑)
ちなみに…最後は「歌手の小林幸子さんは新潟の母親に『来月、新潟に行く』と電話で伝えた
母は声を落としてもらした『そうかあ、新潟はもう帰るところではなく、行くところね…
故郷はもうないのか』
母とは信じて案じて待つ身の人か。せめて『ありがとう』を届ける、今日は母の日」と結ばれてました
それはさておき…「えー、ということで…えー、小坂忠さんのナンバーを聴きましょう
えー、忠さん、4月29日に73(歳)で亡くなったということですね
えー、もうホンットに僕は好きで、高校の時、ホントによく聴いてましたが、残念です、ハイ
その小坂忠…これ、セカンドシングルですか?そうですか
72年リリースということなんですけど」と話されたトコで
「あのー、ちょっと、松藤、訊いていいですか?」と甲斐さん
「福岡に能古島って、あるでしょ?能古島に『オールナイト・ロック・フェス』ってのがあって
で、それを『照和』で、やっ…『照和』で(ステージを)やったあとに
掃除して、みんなで…6~7人で観に行って…
確か、あの…能古島は船で7~8分かかるんで
フツーは、もう絶対(船が)ない時間なのに、あの…
そういうロックンロール・フェスなんで、ね?オールナイトの…
『12時まで(船が)ありますよー!』って言って
ワーッと頑張って行って(島に)渡って…って、そういう時、松藤いた?」とお訊ねになり
松藤さんの「僕はいなかった、一郎はいたでしょ?」というお答えに
「一郎いた!一郎はいたのよ!で、ナンかさ、テントのシートかナンか、誰かが持って来てて
そこで、何となくボーッと観ながら、いつの間にか寝ちゃって
で、夜明けの一発目に『あー、あー、あー』って言って、小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ
『デン!タッタッ!』って始まったんですよ
ウワーッ!と観て…まあまあ、それを観に来てた訳だから…
それと、はっぴいえんど…そのあとに出て来る…
ウワッとなったら、夕…夕陽じゃないや(笑)
朝日を背景にライブが始まるって、それは夢じゃないですよね?
僕、もうすぐ、そういうインタビュー受けなきゃいけないんですけど、俺、初めて思い出したのよ、それ…
(『あの…その話、聞いたことないですもん』と松藤さん)
ないでしょ?…(『あの…行った話はよく聞いたけど…』)
それ、ナンでかっていうと、そのアンケートに…もうすぐやるアンケートに
えーと…『昔、感激した野外ライブは何ですか?』って、質問があって
それを思い出したんですけど、おおーっと思って…
あっ!そっか!松藤はいないんだね、あの頃、ちょっと仲悪かったもんね、俺たちね(笑)
(『イヤイヤ、それは、知り合う前じゃん!(笑)』)…スイマセン(笑)」と話されてましたが
これは、やはり、7月31日に甲斐さんご出演予定の
「歌える!J-POP黄金のベストアルバム30M」の当日のテーマであるらしい
「野外で聴きたい曲」に関するアンケートのことかなあと…?
でも、だったら、ナンで、甲斐バンドの放送予定曲が「裏切りの街角」なんでしょうね?(笑)