御朱印あつめに燃えていたので
高槻市の山奥までやってきました。
最近はさっぱりですが去年のこのころはハイペースで
集めてました。
「神峯山寺秘密縁起」によれば、文武天皇元年(697年)に役小角が
葛城山(金剛山)で修行をしていた時、北方の山から黄金の光が
発せられて霊感を受け、神峯山寺に位置する場所にやってきた。
そこで天童(金比羅飯綱大権現)と出会い、天童の霊木で4体の
毘沙門天が刻まれ役小角は伽藍を建立し毘沙門天を
祀ったことが起源とされているそうです。
開山以後、神峯山寺は修験霊場として多くの修験者を
迎え入れたとされ、同じく近畿の修験霊場として名高い比叡山
比良山、伊吹山、愛宕山、金峰山、葛城山に並ぶ七高山の
一角として大いに栄えたそうです。
宝亀5年(774年)、光仁天皇の子息であり桓武天皇の庶兄に
あたる開成皇子が、勝尾寺(現・大阪府箕面市)から入山し
光仁天皇の命によって本堂を創建して住職となった。
これを機に神峯山寺は天台宗仏教寺院となる。また光仁天皇の
勅願所となって以降、神峯山寺は皇室に緊密な天台宗寺院となり
その関係は幕末まで続いていたそうです。
楠木正成が奉納したと伝わる殿中刀は現在も
神峯山寺本堂に所蔵されており、室町幕府三代将軍・足利義満
摂津守護代・三好長慶に仕えていた松永久秀や
豊臣秀頼の生母淀殿らによる寄進があったそうです。
上方文化が栄えた元禄時代の頃より、神峯山寺は
大坂商人から厚い信仰を受け巡礼地として栄えた。これは
毘沙門天が七福神の一神であったことから
商売繁盛を祈願するために商人達が淀川を上り
三島江から神峯山寺まで歩いて参拝したことが記録されている。
江戸時代の代表的な豪商である鴻池善右衛門もまた巡拝者の
一人であり、三島江から神峯山寺参道にかけて十数か所に
石造の道標を建立したんだとか。
最盛期には七つの堂に加え伽藍および僧坊が21か所
寺領は1,300石あったんだとか。
新西国三十三箇所14番、役行者霊蹟札所
神仏霊場巡拝の道 64番 の札所になってます。
宗派 天台宗、本尊 毘沙門天。
住所は大阪府高槻市原3301-1。
124枚目。
ご訪問ありがとうございました。
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