「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
mikunenona@gmail.com

荒熊神社 その2

2022-01-19 07:30:00 | 日記
お食事の後に、荒熊神社の拝殿まで階段を昇って行きました。
K会長は、ここに来るのが初めてだったので、Iさんに言われるままに、鈴を頭上で鳴らしていました。



みんなで並んで伊勢神宮の方向に、ご挨拶しました。



思えば、約5年前に荒熊神社の存在も知らずに「ふるべの鈴」を求めるように言われて、Iさんと私は初めて清水宮司さんとお会いしました。

今回は、K会長のために「ふるべの鈴」を授けてくださるとのことで、私達みんなで宮司さんと禰宜さんの後ろに白い帷子(かたびら)を着せていただき座っていました。

ご祈祷が始まり宮司さんに降りる神様は、その時によって違うようですが、この時は奥津彦(おくつひこ)の神様が降りていらっしゃいました。

奥津彦の神は、竈(かまど)の神様でK会長は、板前さんなのでやっぱり合っている神様だったのだと、記事を作るのに調べて思いました。

禰宜さんに促されてK会長は、宮司さんの前に座り、鈴を授けてもらい、次に私が呼ばれました。

宮司さんは、布で出来た巻物のような物を持っていらして、私の手の上に置いて、奥津彦の神様から「これからも宮司を助けてやって欲しい」ということを言われ、私はお話しを聞いていて、涙が流れました。

次にIさんが呼ばれ、今度はその巻物で両方の肩の辺りを何度も叩いていて、前が終わり後ろもという感じでした。

次にみこちゃんも呼ばれて、Iさんほどではなく叩いていただいていて、やっぱり朝から憑いてきただろう何者かを祓ってくださったのだと思いました。

午前中、いらしていたご夫妻のご祈祷の時には、釣り師のOさんもいきなり神様に呼ばれ、やっぱり祓っていただいたようです。
宮司さんには特に話していなかったらしいですが、しばらく具合が悪かったそうですよ。

霊障は、病院に行っても、異状なしと言われるのがオチで、わかる人ではないと治せないことなので、憑かれやすい人は大変だと思いますね。

儀式が終わり、奥津彦の神様も帰って行かれて、宮司さんは元に戻りました。
神様を降ろしている間のことは、全然覚えていないそうです。
厳しい修行をして出来ることですね。

お食事の時に、宮司さんのお師匠様の話も出て、その方は座ったまま宙に浮いていたそうで、「それは修行しても私には出来なかったし、この目で見ているのでやっぱり凄かったですよ」とお話しされていました。

みこちゃんがお友達のお守りを頼もうと禰宜さんにお話しすると、お守りはその人の手のひらのサイズで作っているそうです。
本当にご丁寧なやり方なのだと思いました。


この日には家に帰らないといけないので、駐車場で、釣り師のOさんとK会長とお別れしました。
Iさんは、朝はやっと運転していましたが、帰りは問題なくなっていて、良かったのですが、名古屋に近づいた時に仕事の電話が入ったりしていて、邪魔になりそうだったので、私とみこちゃんは名古屋の駅前で車を降り、まだ電話中だったIさんに手を振って地下から駅に向かいました。

みこちゃんは、私の荷物を持ってくれたりして、年寄りを労って駅まで来ると、すぐに「のぞみ」が来て自由席に座った瞬間に、

あれっ?私リュック持ってないですね。

あ!本当だ。

降ります。

と言って、歩いて行きましたが、もう新幹線は走り出していて戻って来ました。
次は新横浜なので、Iさんに伝えるとまだ仕事があって、1時間半後になるとのことだったので、みこちゃんは新横浜の駅で待つことになりました。

荷物は、Iさんが持って来てくれて、なんとか助かりましたが、Iさんはまた足が痛み出していて、その後3日くらい痛みが続き寝込んでいて、やっぱりお城は彼にとっては、大変な場所なのだと思いました。

以前に、網走刑務所に行った時も、しばらく大変だったことも、思い出しました。
この時は、5日間でしたね。


🐷 痛み、地の塩



🐶 網走の話 その3


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荒熊神社

2022-01-17 07:30:00 | 日記
岐阜城に行った次の日は、荒熊神社に久しぶりに行く予定でした。

実は、K会長は一緒に行けないとの話でしたが、私達が名古屋に泊まっていた頃に、知多半島にいたようで、何とか都合をつけて来てくれたのですね。
前日はひとりで椿大神社(つばきおおかみやしろ)などを巡っていたそうです。

そして、朝の4時くらいに、Iさんが「痛い!」と言ったのが始まりで、そこから彼が苦しみ出して本当に大変なことになってしまいました。

私は、今回の旅にみこちゃんとK会長が都合が合わなくて、二人で行くことになった時に、何とも言えない不安な気持ちになったのは、このことだったのかと思う程の苦しみようで、私とみこちゃんもどうしてあげたらいいのかわからない状態でした。

みこちゃんが、K会長に電話をしてどうしたらいいか聞いていて、「代わって!」と言われたので代わろうとすると、絞り出すような声で「無理、、」と言って代われませんでした。

その後は、私が持って行ったプラス80の塩と前日に買った「剣菱」を使って何とかしようとIさんはお風呂でもがき苦しんでいました。
しかも、あいにくの雨が降って来ていて、このままでは荒熊神社まで行けないのではないかと本当に思いました。

Iさんは右足の足首がかなり痛いようで、足を引き摺りながら歩いていて、それでも力を振り絞って何とか運転して、知多半島に向かってくれました。
荒熊神社に近づいた時に、Iさんが海にまず行った方がいいみたいだ、海に行きたいと伝わってくると言っていて、後ろに座っていたみこちゃんが、

ねーさん、私の手を握ってもらっていいですか?

と言いながら泣いていて、

これは、私の涙ではなく、誰かのなので。。

という感じで、私は特に何も感じないので、私が変なのか?と思いました。

ということで、荒熊神社の近くにある「つぶて浦」にまずは行くことになりました。



階段の上から、先に行っていたIさんが、やっとの思いで歩いている姿が見えました。



前日に清洲城と岐阜城に繋いで行った「剣菱」を「つぶて岩」の上に乗せて三人でお祈りしました。



雨はしとしとと降っていました。

Iさんは、これで少し軽くなったようで、荒熊神社に向かいました。
私達が荒熊神社の清水宮司さんのお宅に着くと、K会長は既に着いていて、連絡してあった釣り師のOさんと、初対面になって話していました。

丁度、信者さんの方で神社の塗装をしてくださっているご夫妻がご祈祷のためにいらしていて、その方達を交えていろいろお話しをしていて、禰宜さんに私達は順番にコロナウィルスを撃退するご祈祷もしていただきました。


清水宮司さんも、本当にお元気で、私とIさんが二人で5年前の2016年10月1日に初めて伺った時より、若返っているように思いました。


🐶 知多半島の話 その4



🐷 南知多徒然

もう、5年も前のことなのかと感慨無量ですが、その後私は還暦の記念に鳥居を建てさせていただいたりして、いつも気に掛けていただいているので、本当にありがたいことだと思います。

5年前に来た時は、知る人ぞ知る「つぶて浦」も整備されて、駐車場も出来てインスタ映えスポットとなっているようですし、私達のブログをご覧になった方達も荒熊神社に訪ねて来ているようで、少しは宣伝になったのかと思っています。

その後に、宮司さんと禰宜さんと私達5人で、近くのステキなレストランに行って、お食事となりました。



海が窓から見える「シーサイドカプリ」さんです。
天気がイマイチだったのは、残念でした。


ワタリガニのパスタが出て、私がカニが食べられないと言っていると、別にシラスのパスタを作ってくださってありがたかったです。



禰宜さんの面白い話や、宮司さんの修行時代の話をお聞きすることも出来ました。
宮司さんの普段着も、とてもかわいらしかったですよ。


続きます。
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私の超現実の話

2022-01-14 07:30:00 | 日記
12月の旅の話の途中ですが、先にこの話にします。

1年半前の2020,5,3に私の超現実の話を記事にしました。




記事に書いた通り、2020年の4月に、夫のために同じマンションの中にある2階の部屋を買い、5月から別居生活が始まりました。

夫は、その前の2019年の暮れから腹膜透析を始めていて、毎日自分でキチンと時間通りに透析をして、毎食後にキチンと薬を飲む生活をしています。
1ヶ月に1回は腎臓内科の先生に診てもらい、2ヶ月に1回は循環器内科の先生に心臓を診てもらい、2019年に大腸癌の切除手術をしたので、その後の検査も年1回してもらい、大動脈の太さについても年1回CT検査をしてもらい、栄養相談もあり、毎月血液検査をしているので、まぁ安定はしているのです。

しかし、12月21日の通院の時に腎臓内科の先生から1ヶ月前より体重が3キロ増えているのが問題だという指摘があり、透析液をもっと強力の物に変えましょうと言われて12月28日の配達の時から、新しい透析液に変わりました。

この日は、暮れの最終日の配達で、運んで来た配達の人も、30個くらいの段ボールを2階まで運んでいたので、かなりヘロヘロになっていました。



私も玄関から部屋まで運ぶので、なかなか重労働ですよ。
1箱8キロくらいありますからね。
夫のために3階の自宅から2階の部屋にしたのも、そのことが大きかったのです。


そして、腎臓内科の先生が言っていたことが、1月になって現実になりました。
体重が増えるというのは、別に太った訳ではなく、除水(じょすい)が出来ていないので、足にどんどん水が貯まってしまってどんどん足が丸太のように浮腫(むく)んで、体が思うように動かなくなっているのですね。

年が明けて1月3日の夜8時頃に、ガタンという音がして、後ろを振り向くと夫が床に転んでいました。

夏にも、一度転んだことがあり、その時にも起き上がれなくなって大変だったことがあったのですが、その時は昼間だったので、ケアマネージャーさんに電話をすると、いつも使っている介護タクシーの方にお願いしてくれて、なんとか事なきを得たのですが、お正月の夜だし、どうにも出来ないだろうと思いながらも、ケアマネージャーさんに電話しました。

ケアマネジャーさんは、とにかく床に蒲団を敷いて寝るしかないけど、24時間助けてくれる会社を探してみましょうと言ってくれて、やっぱり頼りになる方だと思いました。

思えば、部屋を移った時にも、介護用のベッドもすぐに手配してくれて、助かりました。
やっぱり今回介護用のベッドでよかったと思ったのは、電動で一番下までベッドを下げて、なんとか夫を乗せることが出来たからですね。

実は、転んだ時に夫は右腕と左足を負傷していました。
その時はあまり気が付かなかったのですが、次の日の朝に見ると、右腕の傷でパジャマが血だらけになっていました。
血が固まらない薬を飲んでいるので、止血が難しいのですね。

私は、傷よりもそこからバイ菌が入ってしまうことが怖くて、かかりつけの大学病院に電話をしましたが、お正月明けでなかなか掛からなかったし、それよりも介護タクシーがなかなか見つからなかったりで、またケアマネージャーさんにお世話になりました。

まずは、腎臓内科のその日にいらした先生に診て貰いましたが、傷については形成外科に行って診てもらうことになり、形成外科に行くと若い女性の先生が、ピンセットで丁寧に傷口を塞いでくれて、また7日に来てくださいと言われました。

実は、介護タクシーは7日の方が全然取れなくて、やっと別の会社を探してくれたのですが、朝の7時しか取れないとのことでした。

そんな時に、6日は関東全体の雪だったのですね。
7日は雪は止んでいましたが、道は凍っていて、転んでしまう人続出の日でした。

ケアマネージャーさんは、言っていた通り24時間助けてくれる会社の方を4日の夕方に連れて来てくれて、訪問看護師の方を7日に連れて来てくれました。

訪問看護師さんの見立てでは、足の甲の部分が炎症している感じなので、やっぱりもう一度診てもらった方がいいとのことを言われて、ケアマネージャーさんと一緒に夫を説得してくれました。

ということで、人の言うことは聞かない夫ですが、11日にまた病院に行くことになり、たまたま4日に診てくれた同じ先生だったので、1週間経っても変わっていないのは、入院するしかないでしょうとなり、夕方にPCR検査をして、12日から入院しています。

今はこのご時世で面会も相変わらず出来ないので、先生にお任せするしかないのですが、私としては夫が家にいるよりは全然安心です。

入院期間は、10日から2週間と言われています。

1月3日から、1週間くらいの話ですが、何度も病院に行き、何時間も待ち、かなり疲れました。
夫は車椅子なので、もっと疲れたと思います。

病院に行くと、当たり前ですが病人は沢山いるのだなと思います。
病院の車椅子も30台くらいあるのに、11日に行った時は10時くらいで最後の1台でした。

以上が私の超現実の話です。




画像は、夫が入院した朝の太陽。

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岐阜城 その2

2022-01-12 07:30:00 | 日記
W夫妻とお会いするのは、一昨年の四国の旅以来でしたが、二人ともFBでよく発信しているので、チラチラ見ていて、久しぶりの感じはしませんでした。

奥さんのあけみちゃんが金華山ロープウェイのところで待っていてくれて、しんやさんは車を駐車しているという話だったので、始めは近くにある「コメダ珈琲店」に行こうとして「岐阜公園」の中を歩いていました。

紅葉がキレイですね。



板垣退助の銅像がありました。



噴水。



なぜ、板垣退助さんの銅像があるのか調べてみると、岐阜で講演をした夕方に暴漢に襲われて、その時に言ったと言われている有名な言葉が「板垣死すとも、自由は死なず」なのだそうです。

私はてっきりこの言葉を残して亡くなったのだと、勝手に思っていましたが、板垣退助さんは82才まで生きたようで、40代の時の言葉だったのですね。

大河ドラマの「青天を衝け」で、渋沢栄一さんも暴漢に襲われて怪我をする場面がありました。
大隈重信さんも、襲撃され右足を失っていたし、伊藤博文さんも中国で暗殺されていたし、当時の政治家は本当に大変だったのですね。

結局、戦国時代と同じようだったのだと思いました。

私はずいぶん前に板垣退助さんと話したことがあったと思ったので、「かつこ内親王」のブログを検索してみました。

2012,12,12の記事を抜粋します。



板垣退助だ。

霊界にいるのですか?

そうらしいな。
菩薩界に入れてほしいので、ここに来た。
私は板垣という人だった時に、大日本帝国の草案を作った。
壊してほしくないことは、平和のことだ。


板垣退助?私の記憶では百円紙幣に描いてあった、髭のおじさんです。
取りあえず調べてみました。

★板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 1919年(大正8年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、迅衝隊総督。明治・大正の政治家。
「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。
薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

人気があったのですね。
そして、大日本帝国憲法は

★大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に発布、1890年(明治23年)11月29日に施行された。

時代的には合っていましたね。


そして、約2年後の2014,11,17の記事も抜粋します。


イラタの神(天之御中主之神)

新しい顔触れが、八階層の神になったぞ。
ミタアカの神(福澤諭吉)もなったし、板垣退助もなった。
勝海舟もいたな。明治の偉人達は、神になったのだ。
狭い中でなっているのは、当時も友達の輪
があったからだ。
明治の偉人達は繋がっていたのだな。
八階層の神には、意外とすぐなれるぞ。
その上にいくのが大変なのだ。生まれ変わったりするからな。
カラツの神は、本当にスゴいことなのだ。
私が引き上げたのもあるが、それだけの働きをしてくれた。
感謝しているぞ。


私は明治の偉人達に、友達の輪があったことに驚きました。


🐶 霊界、菩薩界、神界

🐶 出雲の会議 2014 その3



さて、岐阜の話の続きです。

「コメダ珈琲店」のところで、しんやさんと会い、もう時間も時間なので、名古屋に帰るかと話していた時に、Iさんがこの日にどうしても行きたいと言っていた、名古屋名物の味噌煮込みうどんの「山本屋本店」さんの岐阜のお店があることがあけみちゃん情報でわかり、しんや号にみんなで連れて行って貰いました。

残念なことにお店はお休みで、岐阜公園の駐車場に行くまでの間、しんやさんが長良川の風情のある街並みをぐるっと回ってくださいました。
丁度、夕日が沈む瞬間で、美しいオレンジの光とすすきの群生をみんなで感動して見ていました。






その後は、岐阜公園の駐車場まで戻り、一路名古屋に、Iさんお勧めの「山本屋本店」さんで、味噌煮込みうどんをあつあつで美味しくいただきました。



Iさんの青春の味だそうですよ。


続きます。
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岐阜城

2022-01-09 07:30:00 | 日記
岐阜城の「金華山ロープウェイ」のところの絵です。



ロープウェイに乗って上がっている時に、かなり険しい山を見て、昔はどうやって登っていたのだろうと思っていました。

この時に、岐阜に着いたら連絡しますと伝えていたしんやさんに、「岐阜城のロープウェイに乗っています」とLINEを送ったのですが、既読にならなくて、忙しいのかな?と思いながら、山頂駅から岐阜城を目指して階段を昇っていました。

岐阜城は本当にてっぺんにあり、階段も思っていたより長かったので、私はハァハァと言いながら昇りました。



金華山は、チャートという硬い岩石で出来ているそうです。
所々で、その断面が見えていました。



やっと、岐阜城が見えてきました。
これは、1956年(昭和31年)に、想像で造られた鉄筋コンクリートの城なので、実際はよくわからないそうです。


岐阜城は、稲葉山城から始まり1201年から1600年に徳川家康により廃城されるまで、沢山の城主がいたのですが、みんな短命で、斎藤道三の呪いがあるのではと言われているそうですよ。
確かに調べてみると、大体が20代で亡くなっていて、織田信長も49才だったので、長命とは言えませんよね。
ちなみに斎藤道三は、63才で長良川の戦いで敗れたそうで、家来達が就いてこなかったような感じですね。
長良川の戦いは、嫡男との戦いであり、子供達が殺しあったりして、乱世とはいえ、残念な生涯だったのかと思いました。

岐阜城の中は、資料館になっていて、織田信長の鎧などがありました。





なんとも、金ぴかですね。



やっぱり、織田信長という人は、武将が憧れる存在だったのではないかと思いました。
マントを翻している感じは、最近ずっと観ていた、「東京リベンジャーズ」の総長のマイキー君が特効服を肩に掛けている姿に似ていると思ったりしました。

岐阜城の一番上の階は、展望台のようになっていて、ぐるっと濃尾平野が見渡せました。

私達が昇った時には、光の柱が出ていて、下を流れる長良川が金色に光っていて、感動しました。



本当に、遠くまで見渡せるのですね。



展望台の天井。


岐阜城を降りたところの岩に、登って写真を撮っているIさん。
やっぱり険しい岩場ですね。



ロープウェイに向かって階段を降りている途中で、連絡していたしんやさんから反応があり、なんだか寝てしまっていたそうでした。

もう、4時になろうとしていたので、今回は残念だけど、会えないと伝えると、すぐ近くなので行きますとの返事で、私達がロープウェイを降りた時に、奥さんのあけみちゃんが下で待っていてくれました。


続きます。
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