二月二日のお散歩は足立区へ。
足立区で降りたことのない駅を探すとありました・・・・・五反野。
未踏の地です。(笑)
足立区はいままでにいろいろ歩き回っています。
西新井をキーステーションに都市農業公園(鹿浜)
北区東十条駅から新田経由、都市農業公園
西新井駅からTX青井駅方面
お隣、草加市の蒲生駅から花畑経由、TX六町駅
大師前駅から舎人公園、舎人方面
西新井駅から竹の塚駅
竹の塚駅から元淵江公園
北綾瀬駅から綾瀬駅
梅島駅から西新井橋を渡って尾竹橋を渡って荒川区町屋
お隣葛飾区亀有駅から綾瀬駅
同じく堀切菖蒲園駅から綾瀬駅
大師前駅から舎人ライナー高野駅
小台駅から尾竹橋
千住大橋駅から北千住駅
町屋駅から北千住駅
北千住駅周辺散歩
北千住駅から牛田駅
墨田区方面から北千住駅
相当歩いています。
で、未踏地があったわけです。
五反野駅で降りて、北東に行くか南西に行くか思案。
でもここまできたら大好きな荒川が見たいので、南へ。
思ったよりのお店がたくさんある駅周辺から南へ。
生活感あります。
少し歩くと民家やアパートがきっしり、遠くに荒川の土手をはしる首都高中央環状線がみえる。
環状線の高架の下をくぐると荒川の左岸の堤防。
正面にスカイツリーが見える。(冒頭画像)
荒川はご存知のように人口河川。
明治43年(1910年)8月に荒川・隅田川下流域に未曾有の被害をもたらした大水害を契機に、国は水害対策として放水路の建設をけいかくしました。
大正2年(1913年)に工事は着工され、1924年(大正13年)に岩淵水門完成により放水路へ注水されるまで10年、関連工事がすめて完成したのは1930年(昭和5年)で、17年間の歳月を要した大工事でした。
工事途中には1917年の台風の高潮や1912年の関東大震災などの天災や第一次大戦による不況なども工事を長引かせる要因となったようです。
今はまるで自然の川のようで、そんな大土木工事が嘘のようです。
そして、私たちが子供の頃は「荒川放水路」と呼ばれていましたが、1965年(昭和40年)荒川の本流とされました。
それに伴って、それまでは綾瀬川合流地点付近までが荒川、それより下流が隅田川と呼ばれていた荒川本流は、岩淵水門より下流がすべて「隅田川」となったのです。
ですから、「荒川」も流れていないのに何で「荒川区」の謎を解けるわけです。
荒川と隅田川の分かれる場所、岩淵水門付近の地図
都市農業公園から上流赤羽方面を望む
荒川(旧・荒川放水路)は川幅も広く、河川敷も広いので本当に気分爽快な場所です。
土手も見晴らしよくて遠くまでよく見えます。
足立区では荒川五色桜の復活も行われるようです。
ますます、素敵な行楽地になるでしょうね。
少し左岸を上流に歩いて、千住新橋を渡りました。
この橋も日光街道が放水路で分断されたのでかけられた橋です。
こんな大きな川なのに向こう側に渡ってもまだ足立区です。
日光街道から左に入って少し歩くと旧日光街道、千住宿です。
接骨医の代名詞「名倉医院」や旧家が数軒見られます。
裏道に一歩入ると、寺や神社も多く宿場の名残を見ることができます。
交通の要所、北千住駅を迂回して、駅の南側に回りました。
南口は最近電気通信大学が移転してきて近代的な街並みが現れましたが、少し歩くと細い路地や軒を連ねた民家がぎっしり並んでいます。
歩みを進めていくとやがて東武スカイツリーラインの牛田駅と京成本線の関屋駅に辿り着きます。
足立区で降りたことのない駅を探すとありました・・・・・五反野。
未踏の地です。(笑)
足立区はいままでにいろいろ歩き回っています。
西新井をキーステーションに都市農業公園(鹿浜)
北区東十条駅から新田経由、都市農業公園
西新井駅からTX青井駅方面
お隣、草加市の蒲生駅から花畑経由、TX六町駅
大師前駅から舎人公園、舎人方面
西新井駅から竹の塚駅
竹の塚駅から元淵江公園
北綾瀬駅から綾瀬駅
梅島駅から西新井橋を渡って尾竹橋を渡って荒川区町屋
お隣葛飾区亀有駅から綾瀬駅
同じく堀切菖蒲園駅から綾瀬駅
大師前駅から舎人ライナー高野駅
小台駅から尾竹橋
千住大橋駅から北千住駅
町屋駅から北千住駅
北千住駅周辺散歩
北千住駅から牛田駅
墨田区方面から北千住駅
相当歩いています。
で、未踏地があったわけです。
五反野駅で降りて、北東に行くか南西に行くか思案。
でもここまできたら大好きな荒川が見たいので、南へ。
思ったよりのお店がたくさんある駅周辺から南へ。
生活感あります。
少し歩くと民家やアパートがきっしり、遠くに荒川の土手をはしる首都高中央環状線がみえる。
環状線の高架の下をくぐると荒川の左岸の堤防。
正面にスカイツリーが見える。(冒頭画像)
荒川はご存知のように人口河川。
明治43年(1910年)8月に荒川・隅田川下流域に未曾有の被害をもたらした大水害を契機に、国は水害対策として放水路の建設をけいかくしました。
大正2年(1913年)に工事は着工され、1924年(大正13年)に岩淵水門完成により放水路へ注水されるまで10年、関連工事がすめて完成したのは1930年(昭和5年)で、17年間の歳月を要した大工事でした。
工事途中には1917年の台風の高潮や1912年の関東大震災などの天災や第一次大戦による不況なども工事を長引かせる要因となったようです。
今はまるで自然の川のようで、そんな大土木工事が嘘のようです。
そして、私たちが子供の頃は「荒川放水路」と呼ばれていましたが、1965年(昭和40年)荒川の本流とされました。
それに伴って、それまでは綾瀬川合流地点付近までが荒川、それより下流が隅田川と呼ばれていた荒川本流は、岩淵水門より下流がすべて「隅田川」となったのです。
ですから、「荒川」も流れていないのに何で「荒川区」の謎を解けるわけです。
荒川と隅田川の分かれる場所、岩淵水門付近の地図
都市農業公園から上流赤羽方面を望む
荒川(旧・荒川放水路)は川幅も広く、河川敷も広いので本当に気分爽快な場所です。
土手も見晴らしよくて遠くまでよく見えます。
足立区では荒川五色桜の復活も行われるようです。
ますます、素敵な行楽地になるでしょうね。
少し左岸を上流に歩いて、千住新橋を渡りました。
この橋も日光街道が放水路で分断されたのでかけられた橋です。
こんな大きな川なのに向こう側に渡ってもまだ足立区です。
日光街道から左に入って少し歩くと旧日光街道、千住宿です。
接骨医の代名詞「名倉医院」や旧家が数軒見られます。
裏道に一歩入ると、寺や神社も多く宿場の名残を見ることができます。
交通の要所、北千住駅を迂回して、駅の南側に回りました。
南口は最近電気通信大学が移転してきて近代的な街並みが現れましたが、少し歩くと細い路地や軒を連ねた民家がぎっしり並んでいます。
歩みを進めていくとやがて東武スカイツリーラインの牛田駅と京成本線の関屋駅に辿り着きます。