釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

京都散歩(その6・祇園そして八坂神社)

2006年08月04日 04時55分50秒 | 旅日記
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
『平家物語』の有名な冒頭である。
この祇園精舎と京都の祇園は何か関係があるのだろうか。

祇園祭は八坂神社の祭りだが、なぜ八坂祭じゃなくて祇園祭なんだろう?
まぁ、いろいろギオンは・・・・・ギモンはありますが。

八坂神社は明治になってから、八坂神社と呼ばれるようになった。
それまでは、「感神院」とか「祇園社」と呼ばれていて、明治の神仏分離で「八坂神社」と改称されて、神社となった。
それまでは日本の宗教の縮図のような神仏習合の社だった。

八坂神社の前身は「天神堂」という観慶寺(祇園寺)の中にあったお堂で、天神〈現在の天神・菅原道真ではない。)・婆利女・八王子という神を祀っていた。
その後、釈迦の生誕地である祇園精舎の守護神である牛頭天王(ゴズテンノウ)があわせて祀られたようである。
この時点で、天神と牛頭天王が混同されて、観慶寺が祇園寺と呼ばれるようになる。
牛頭天王は、道教の泰山府君や泰山王〈閻魔〉と同一視される。
神仏習合の本地垂迹の考え方から泰山王の本地である薬師如来とスサノオノミコトの本地である薬師如来が同一であったために、牛頭天王とスサノオノミコトの習合がおこる。
天神(牛頭天王)=夫・婆利女=妻・八王子=八人の子供の構図はそのまま、現在の八坂神社の祭神である、スサノオノミコト(素戔嗚尊)=夫・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)=妻・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)=八人の子供に合致する。

その後、観慶寺は廃れて、天神堂だけが残り、それが「祇園社」または「観心院」と呼ばれるようになり、明治以降に八坂神社に改称されたわけだ。

鴨川の東に広がる花街の「祇園」は、祇園社との門前町であることからその名を得た。
「祇園祭」、正式には「祇園御霊会」といわれ、平安時代の869年に疫病が流行したことから、疫病退散の目的で、強力な神であった牛頭天王=スサノオノミコトを祀ったことがはじめといわれる。

日本各地の「祇園祭」や「天王祭」といわれるものはほとんどがスサノオノミコトを祭神としたものだ。そのくらい、スサノオノミコト=祇園・天王というイメージが広がっているということだ。

もともと天神や牛頭天王を祀ったのは、奈良時代に帰化した「八坂造〈ヤサカノミヤツコ)」の一族であったといわれている。
八坂神社の名称はこの八坂氏に因んだものである。

鴨川を渡って、四条通の北側の小道を東に八坂神社に向かった。
途中の花見小路までが「祇園甲部」といわれる花街で、そこから東、四条通の北側が「祇園東」の花街である。四条通の南側はすべて「祇園甲部」となる。
四条通の北側は、お茶屋さんのほかに、スナックやクラブがひしめきあっている。


祇園

そして、八坂神社に到着。〈最初の画像が八坂神社の石段)
拝殿に向かう。



お参りして、厄除けの粽を購入した。



粽には「蘇民将来之子孫也」と書かれている。蘇民将来の話は次回。


*八坂神社については八坂神社のサイトが詳しいので見てください。参考になります。
八坂神社のサイト
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