まだブツがないのですから、やむを得ませんね。
皇位継承まんがの『誰があなたを護るのか 不安の時代の皇 ( すめらぎ ) 』は、版元の扶桑社がセットアップした予約サイトでランキング外に、落ちました。
皇位継承まんがの『誰があなたを護るのか 不安の時代の皇 ( すめらぎ ) 』は、版元の扶桑社がセットアップした予約サイトでランキング外に、落ちました。
逆に、実際のまんが本を見ないままに、予約をしてくださったかたがたに、あらためて深い敬意と感謝を捧げます。
天皇陛下のご存在を護るためには、まず国民が世代を問わず真実を知ることだとお考えになったみなさんが、新しい試みに共感してくださった・・・それが、多数の予約によって伝わってきました。
おかげで、価格も下がりました。
天皇陛下のご存在を護るためには、まず国民が世代を問わず真実を知ることだとお考えになったみなさんが、新しい試みに共感してくださった・・・それが、多数の予約によって伝わってきました。
おかげで、価格も下がりました。
▼その新しい試みは、まんがによって、たとえば「女性天皇と女系天皇の根本的な違い」という基本中の基本から、日本の国の真髄まで伝えようとする初めての試みです。
▼公務の絶対最優先のなかで、過去にない物語を構想し、その構想を土台に原作を執筆し、その原作を、まんがのコマ割りをイメージしたシナリオにする、いずれも困難を極めました。
正直に申せば、ですね。
それにとどまらず、タイトルの考案と決定、表紙デザインの検討と決定、帯の文案の作成と決定、それから扶桑社の編集部が頑張って書いてくれた、丁寧な解説文の点検と改訂を全文に渡っておこなうこと・・・すべてが、ギリギリの作業でした。
しかし、それを通じて、不肖ながらぼくは、出来映えに確信を持つようになりました。
★弘兼憲史さん率いるヒロカネプロダクションの絵も、期待どおり、素晴らしいです。その明瞭な線には、説得力と夢があります。
▼とはいえ、まだ本が登場していません。
1週間ぐらいで、見本の本が出来上がるかも知れませんので、そうしたら、この地味ブログでは外見の写真を見ていただけると思います。
そして、6月18日金曜に発刊です。
それまで、今日を入れてあと16日。
たとえひとりでもおおくの主権者・国民が読んでくださる準備、すなわち予約が増えればいいなと思います。
・・・思いますが、もう一度、申します。
本を見ないまま予約してくださったみなさんは、ぼくのヒーローとヒロインです。
このまんがに関心のあるかたは、ここをどうぞ。
基本的な情報は盛り込まれています。
▼公務の絶対最優先のなかで、過去にない物語を構想し、その構想を土台に原作を執筆し、その原作を、まんがのコマ割りをイメージしたシナリオにする、いずれも困難を極めました。
正直に申せば、ですね。
それにとどまらず、タイトルの考案と決定、表紙デザインの検討と決定、帯の文案の作成と決定、それから扶桑社の編集部が頑張って書いてくれた、丁寧な解説文の点検と改訂を全文に渡っておこなうこと・・・すべてが、ギリギリの作業でした。
しかし、それを通じて、不肖ながらぼくは、出来映えに確信を持つようになりました。
★弘兼憲史さん率いるヒロカネプロダクションの絵も、期待どおり、素晴らしいです。その明瞭な線には、説得力と夢があります。
▼とはいえ、まだ本が登場していません。
1週間ぐらいで、見本の本が出来上がるかも知れませんので、そうしたら、この地味ブログでは外見の写真を見ていただけると思います。
そして、6月18日金曜に発刊です。
それまで、今日を入れてあと16日。
たとえひとりでもおおくの主権者・国民が読んでくださる準備、すなわち予約が増えればいいなと思います。
・・・思いますが、もう一度、申します。
本を見ないまま予約してくださったみなさんは、ぼくのヒーローとヒロインです。
このまんがに関心のあるかたは、ここをどうぞ。
基本的な情報は盛り込まれています。
▼公務のすきまに、書きたくなりました。
ぼくの父は、古い繊維会社の現役社長、また自動車教習所2か所の設置者 ( オーナー ) として、ある有名な国立病院に入院中に、医療ミスと言うよりは医師の怠業によってまさかの急死を遂げました。
窒息死です。
ぼくの父は、古い繊維会社の現役社長、また自動車教習所2か所の設置者 ( オーナー ) として、ある有名な国立病院に入院中に、医療ミスと言うよりは医師の怠業によってまさかの急死を遂げました。
窒息死です。
この6月2日の夜、ぼくは新米の政治記者として夜回り取材中でした。
実は、夜回りの初日でした。
当時はまだ携帯が無いですからポケベルが鳴り、小雨のなか公衆電話で共同通信社東京本社編集局政治部に『さぁ、どんな政変が起きたか』と思いながら勢い込んで電話すると、筆頭デスクが感情のまったく無い声で「青山くん、お父さんが亡くなったよ」と告げました。
ぼくは意味が分かりません。
死ぬことがあり得るような病気、入院ではありません。
えっ? と電話ボックスで小首を傾げると、デスクは「だから! お父さんが亡くなったよっ」と仰り、電話が切れました。
筆頭デスクはあまりに多忙ですし、政治部は厳しい世界でもありました。
このデスクはふだん、とても紳士的なひとです。なにも悪意はありません。早く仕事に戻りたかっただけです。
ぼくにとっては生涯、忘れられない、そして諦めきれない、雨中の電話ボックスとなりました。
▼ぼくは末っ子で、まだたいへんに幼い頃から、「おまえは家を継げない。おまえだけはひとりで生きていきなさい」と母に繰り返し教えられて育ちました。
だから気も強くなり、自立心もとことん強くなったのです。感謝しています。
父の死後、ぼくは直ちに、遺産の相続権を一切、放棄しました。
幼い頃からの教えを、みずからの意思で、守りました。
▼必ず家から離れて自立せねばならないからこそ、経営者としての父を客観的に見ていました。
父はそれに気づいていなかったと思います。
父は、先祖から受け継いできた繊維会社を守るだけではなく、地域と業界のために力を尽くし、斜陽の日本の繊維業界を守るために、繊維の工業団地を苦労して地元に誘致し、また業界の全国団体のために始終、上京して、業界の立て直しを図っていました。
同時に、佐藤栄作内閣による沖縄返還のまえの日米繊維交渉で、「日本の繊維業界は、沖縄のためにアメリカに売られた」と見切って、子供のぼくにそれを話しました。
あとを継ぐことのない末っ子だから、話しやすかったのでしょう。
父は、決断力を発揮し、繊維工場の一部を潰して、自動車教習所を開設しました。
まだ学生が免許を取らない時代でしたから、土曜の午後と日曜は教習所が休みで、おかげで、ぼくは小学生の時から教習所のなかで、古くなった教習車を運転する機会を父にもらいました。
下手くそなレーシング・ドライバーですが、ほぼすべてのレーシング・ドライバーがカートで育つのに、ぼくは実車で育ったのは、そういうわけです。
▼ぼくが東京の大学に入ると、父は、ぼくと赤坂の小料理屋のカウンターで一緒に呑むのが、とても、とても楽しそうでした。
父は、ある閣僚の後援会長も務めていた時期があります。
政治が嫌いな母とは、対照的でした。
もしも父母が生きていたら、父は、現在のぼくを喜んでくれたでしょう。
父の居るあいだは、選挙への誘いを断り続けたぼくは、親不孝を働いていたのかも知れません。
ただし父の知っている国会議員像とは、まったく異なる、あまりにも違う道を歩くぼくを見て、父はたいへんに心配したでしょう。
それを思えば、すべては天の差配かと、あらためて思います。
・・・そうです、天のご意思とは思いますが、あの6月2日から長い歳月が過ぎたのに、ぼくは今なお、父を諦めきれないのです。
お父さん、窒息していくとき、どんなに苦しかったでしょうか。どれほど無念だったでしょうか。
実は、夜回りの初日でした。
当時はまだ携帯が無いですからポケベルが鳴り、小雨のなか公衆電話で共同通信社東京本社編集局政治部に『さぁ、どんな政変が起きたか』と思いながら勢い込んで電話すると、筆頭デスクが感情のまったく無い声で「青山くん、お父さんが亡くなったよ」と告げました。
ぼくは意味が分かりません。
死ぬことがあり得るような病気、入院ではありません。
えっ? と電話ボックスで小首を傾げると、デスクは「だから! お父さんが亡くなったよっ」と仰り、電話が切れました。
筆頭デスクはあまりに多忙ですし、政治部は厳しい世界でもありました。
このデスクはふだん、とても紳士的なひとです。なにも悪意はありません。早く仕事に戻りたかっただけです。
ぼくにとっては生涯、忘れられない、そして諦めきれない、雨中の電話ボックスとなりました。
▼ぼくは末っ子で、まだたいへんに幼い頃から、「おまえは家を継げない。おまえだけはひとりで生きていきなさい」と母に繰り返し教えられて育ちました。
だから気も強くなり、自立心もとことん強くなったのです。感謝しています。
父の死後、ぼくは直ちに、遺産の相続権を一切、放棄しました。
幼い頃からの教えを、みずからの意思で、守りました。
▼必ず家から離れて自立せねばならないからこそ、経営者としての父を客観的に見ていました。
父はそれに気づいていなかったと思います。
父は、先祖から受け継いできた繊維会社を守るだけではなく、地域と業界のために力を尽くし、斜陽の日本の繊維業界を守るために、繊維の工業団地を苦労して地元に誘致し、また業界の全国団体のために始終、上京して、業界の立て直しを図っていました。
同時に、佐藤栄作内閣による沖縄返還のまえの日米繊維交渉で、「日本の繊維業界は、沖縄のためにアメリカに売られた」と見切って、子供のぼくにそれを話しました。
あとを継ぐことのない末っ子だから、話しやすかったのでしょう。
父は、決断力を発揮し、繊維工場の一部を潰して、自動車教習所を開設しました。
まだ学生が免許を取らない時代でしたから、土曜の午後と日曜は教習所が休みで、おかげで、ぼくは小学生の時から教習所のなかで、古くなった教習車を運転する機会を父にもらいました。
下手くそなレーシング・ドライバーですが、ほぼすべてのレーシング・ドライバーがカートで育つのに、ぼくは実車で育ったのは、そういうわけです。
▼ぼくが東京の大学に入ると、父は、ぼくと赤坂の小料理屋のカウンターで一緒に呑むのが、とても、とても楽しそうでした。
父は、ある閣僚の後援会長も務めていた時期があります。
政治が嫌いな母とは、対照的でした。
もしも父母が生きていたら、父は、現在のぼくを喜んでくれたでしょう。
父の居るあいだは、選挙への誘いを断り続けたぼくは、親不孝を働いていたのかも知れません。
ただし父の知っている国会議員像とは、まったく異なる、あまりにも違う道を歩くぼくを見て、父はたいへんに心配したでしょう。
それを思えば、すべては天の差配かと、あらためて思います。
・・・そうです、天のご意思とは思いますが、あの6月2日から長い歳月が過ぎたのに、ぼくは今なお、父を諦めきれないのです。
お父さん、窒息していくとき、どんなに苦しかったでしょうか。どれほど無念だったでしょうか。
怒っちゃ駄目、怒り散らしちゃ駄目だから、怒らないですよ。
しかし生来の大声は使わざるを得ない。
何度言っても、行方不明の外国からの入国者を少なくとも1日、40人、行方不明のままにしている。
しかし生来の大声は使わざるを得ない。
何度言っても、行方不明の外国からの入国者を少なくとも1日、40人、行方不明のままにしている。
具体的なことを、このあと、スキマ時間に収録しようと考えている新動画の「青山繁晴チャンネル☆ぼくらの国会」でぜんぶ、主権者にぶちまけます、いや、話します ! あくまで客観的に、伝えます。
まだ外交部会です。
このあと国会議事堂に移って、議員総会と本会議です。
写真は、まったく知らないうちに杉田水脈代議士が撮ってくださいました。感謝です。
まだ外交部会です。
このあと国会議事堂に移って、議員総会と本会議です。
写真は、まったく知らないうちに杉田水脈代議士が撮ってくださいました。感謝です。
朝7時50分に自由民主党の本部に入り、いまは外交部会が進行中です。
武漢熱の水際対策の改善があまりにも遅い問題、尖閣諸島への中国海警船の侵入と、漁家の操業の妨害がまたしても発生している問題、いずれも、ずっとずっと続いている問題です。
しかし倦んでは終わりです。
武漢熱の水際対策の改善があまりにも遅い問題、尖閣諸島への中国海警船の侵入と、漁家の操業の妨害がまたしても発生している問題、いずれも、ずっとずっと続いている問題です。
しかし倦んでは終わりです。