サイコドラマ⑨
言葉はどれだけ重ねても、物足りないものだと思う。
公園は相変わらずの夏日だった。しかし、ベンチに座っている僕は、今まで主な関心ごとだった暑さを、感じなくなっていた。きっと、村谷さんは僕を見つけた時から、そんな風に感じていたんじゃないかと思う。もしかすると、好史が死んだ日からずっとそうだったのかもしれない。
僕は気の利いた言葉も見つけられず、ただ村谷さんの方を見ていた。村谷さんは、何も言わずに俯いていた。僕には、勝手に悲しみを表わそうとする自分の顔の筋肉を、何とか元に戻そうと頑張っているように見えた。
「落ち着くまで待つよ」と、僕は言った。
村谷さんは何かを吐き出したいのだと思ったし、それまでに下手なことを言ってはいけないと感じていた。
しばらくすると、村谷さんは自分の表情のコントロールを取り戻したようで、自嘲気味に小さく笑った。その笑顔は悲しげだった。一度食道に上がりかけたものを何とか胃の中に押し戻した時、不快な感覚がいつまでも残っているように。
「ごめんね、恥ずかしい所を見せちゃって」と、村谷さんは言った。
「恥ずかしい所?」と、僕は聞いた。
村谷さんは、「うん」と言っただけだった。少し沈黙があって、僕は自分の質問が、「恥ずかしい所を説明してくれ」と言っているのと同じだと気付いた。
「ごめん」と、僕は言った。
「え、どうしたの急に?」と、村谷さんは言った。
「いや、俺にはどこが恥ずかしい所なのか分からなかったんだけど、わざわざ説明させるような質問しちゃって」と、僕は言った。
「ふふ」村谷さんは、僕の言ったことを少し考えた後、小さく笑った。「やっぱり、小池君は変わってるよ」
「え、どうしてそう思うの」
「自分の言うことを、そんなにちゃんと考えてるんだもん」
「うーん、いつもちゃんと考えているのかと言えば、そんなことは絶対にないけどね。今、俺が言ったことに対して、村谷さんが答えにくそうにしてたから、なんとなくそういう風に思っただけで」
「うん。でも、そんなこと言われたのは初めてだったから」
「こんなシチュエーション自体そうあるものじゃないでしょ」
「それはそうだけど。でも、誰かに何かを言われた時、こういう感じになったことがなかった、というか」
「うーん、難しいな」
「私も、あまり上手く説明できそうにはないけど」
そんな話をしながら僕は、村谷さんが、本当に言いたかったことを言う機会を逸してしまったんじゃないかと思った。僕が逃がさせたのか、村谷さんが逃げたのかは、分からなかった。村谷さんが僕に、それを言うためには、ある程度の沈黙と、ある種類の感情が必要なんじゃないかと思った。そして、その感情は常に逃げ道を探していて、どんな所にでも隠れることができるんだろう。
「言いたくなければ、言わなくてもいいよ」と、僕は改めて言った。
それは、僕の頭の中では、言葉通りの意味を表わしていた。しかし、僕の心は、自分で言ったその言葉に、強い違和感を覚えていた。
「ごめんね、中々踏ん切りがつかなくて」と、村谷さんは言った。それは、僕の心の方に反応した言葉だと思う。
僕はそれ以上、何も言わなかった。ただ、村谷さんの次の言葉を待っていた。
「……私は、好史の気持ちを全然分かってあげられなかったんだと思う」
「気持ち?」
「うん。好史は勉強を頑張ってた。多分みんなが思ってる以上に。でも、頑張っただけですぐに成績が伸びるんだったら、誰も苦労はしない。もちろん、頑張ることもできない人だって沢山いるけど」
「それは、もちろんそうだよね」
「私は、何とか好史を傷付けないようにしようと思ってた。成績だけなら、正直に言って私の方が良かった。多分それは、一年生の頃から割と真面目に勉強してたから。でも、そんなことを好史に自慢しても嫌味でしかないし、好史だって、少しずつだけど点数は上がってた。だから、前より良くなってる所を指摘したり、悪かった所は問題の作り方のせいにしたりしてた。私は、好史に嫌な気持ちになってほしくなかったし、出来るだけのサメ[トをしたいと思ってた。好史が喜ぶのを見てると、私も嬉しいと思った」
「優しいんだね」
「ううん、そんなことない。その時、自分が優しくしようと思っていたこと自体は本当だけど」
ここで、また少しの沈黙が流れた。僕は、自分の発する言葉のひとつひとつが、村谷さんの気持ちを邪魔しているような気がした。
「……でも、好史は段々元気がなくなっていった。私もそれには気付いてた。元気がないね、と言っても、そんなことない、って言われるだけだった。私は、苦しいことがあったら何でも言ってね、って言った。好史は、そうするって言った。でも実際は、そうしてないってことが、私には分かってた。だから苦しかったし、悲しかった。私は、誰よりも好史の味方でいたかったし、好史に信頼されていたかった。だから、自分の不甲斐なさが悔しかった。信頼されるどころか、ウザいおせっかいを焼いているみたいになってた――ごめんね、こんなつまらない話を長々と」
「全然いいよ。それより、ここでやめられた方が後味が悪いよ」
「そっか――多分好史は、私に対して劣等感みたいなものを持ってた。男子の気持ちだから何とも言えないけど」
「うん。多分、俺がその立場だったら、きっと悔しいだろうと思う」
「そうだよね……でも、私は劣等感なんて持ってほしくなかった。さっきも言ったけど、私がある程度できるのは、前からやってたから。こんな短期間で抜かれたら、私の方がダメになってたと思う――でも今思えば、どうせならいっそ、追い抜いてくれていた方が良かったのかもしれない。あの時、私を軽く追い抜いて、上機嫌で上から憎たらしい言葉を浴びせてくれたら、どれだけ嬉しかったか」
最後の方は、また声が震え始めていた。僕は、村谷さんの悔しさや、悲しさを理解することができたし、好史の劣等感も理解することができた。
「うーん」と、僕は思わず声にしていた。
「ごめんね」と、村谷さんはまた謝った。
「いや……違うんだよ」と、僕は弁解した。
「何か気に障ること言っちゃった?」
「いやいや、そうじゃなくて。確かに、村谷さんの言ってる気持ちは分かったし、好史の悔しさも分かるんだけど――好史がさ、前に、村谷さんが鬱モードに入ってて、当たられたりして困ってるって言ってたもんだからさ」
「えっ」村谷さんは、素朴に驚いた声を上げた。
「うん。すぐキレられるって。確か初めて村谷さんと喋った時も、当たっちゃうことがあるって言ってたよね」
「あ、確かに、前はそんな感じだった。私にはどうしても、好史が頑張ってるように見えなくて」
「その話があった頃、俺は好史の腕にリスカの痕を1つ見つけた。で、次に傷を見たのはあいつが死ぬ2日前。あいつは確かに、村谷さんの優しさに劣等感を持っているみたいだった。リスカは物凄い数になってた」
村谷さんの顔色が少し悪くなったように見えた。
「あのさ、村谷さん。俺は思うんだけど――あ、ごめん」
「ううん、言いたいように言って。私はその方がいいから。確かに今は苦しいけど、好史が死んだことを独りで抱えるよりずっといいから」
「うん。俺が思うに、好史は、確かに苦しみながら村谷さんのことを考えていた。だけど、きっとその契機は、全然違う所にあったんだと思う」
「え?」
「こんなこと好史が聞いてたら怒るかもしれないけど。でも、凄く悪い言い方、ありていな言い方をすれば、好史は村谷さんに八つ当たりをしてたんだと思う」
「八つ当たりなんて――」
「うん、もちろん。だから、悪い言い方って言ったんだ。ひとりひとりの苦しみを全て捨てた言い方。村谷さんは、その奥の好史の苦しみを感じているから、八つ当たりっていう表現に腹が立ったんだと思うけど。残念ながら俺は、好史が生きている間に、その苦しみを見ることができなかった。手首の傷は見れたけどね。だから、俺も今まで、村谷さんとの間のことが原因だと思ってたけど。だけどさ、よく考えたらさ。好史がそんなことで参るとは思えないんだよね。どうしても」
村谷さんは、黙って僕を見ていた。
「何かよく分からないけど、好史の中で地球が逆回転するくらいの出来事があったんじゃないかと俺は思う。それが、徐々に俺や村谷さんの考え方と、あいつの考え方の間にズレを生んでいったんじゃないかな。いや、もしかしたら全部的外れかもしれないけど」
そこまで言って、僕は口を閉じた。村谷さんもゆっくりと頷くと、何かを考えているような顔をしながら、黙っていた。僕たちは、再び夏の暑さに引き戻されていった。しかし、そこに気まずさみたいなものは、何もないような気がした。
言葉はどれだけ重ねても、物足りないものだと思う。
公園は相変わらずの夏日だった。しかし、ベンチに座っている僕は、今まで主な関心ごとだった暑さを、感じなくなっていた。きっと、村谷さんは僕を見つけた時から、そんな風に感じていたんじゃないかと思う。もしかすると、好史が死んだ日からずっとそうだったのかもしれない。
僕は気の利いた言葉も見つけられず、ただ村谷さんの方を見ていた。村谷さんは、何も言わずに俯いていた。僕には、勝手に悲しみを表わそうとする自分の顔の筋肉を、何とか元に戻そうと頑張っているように見えた。
「落ち着くまで待つよ」と、僕は言った。
村谷さんは何かを吐き出したいのだと思ったし、それまでに下手なことを言ってはいけないと感じていた。
しばらくすると、村谷さんは自分の表情のコントロールを取り戻したようで、自嘲気味に小さく笑った。その笑顔は悲しげだった。一度食道に上がりかけたものを何とか胃の中に押し戻した時、不快な感覚がいつまでも残っているように。
「ごめんね、恥ずかしい所を見せちゃって」と、村谷さんは言った。
「恥ずかしい所?」と、僕は聞いた。
村谷さんは、「うん」と言っただけだった。少し沈黙があって、僕は自分の質問が、「恥ずかしい所を説明してくれ」と言っているのと同じだと気付いた。
「ごめん」と、僕は言った。
「え、どうしたの急に?」と、村谷さんは言った。
「いや、俺にはどこが恥ずかしい所なのか分からなかったんだけど、わざわざ説明させるような質問しちゃって」と、僕は言った。
「ふふ」村谷さんは、僕の言ったことを少し考えた後、小さく笑った。「やっぱり、小池君は変わってるよ」
「え、どうしてそう思うの」
「自分の言うことを、そんなにちゃんと考えてるんだもん」
「うーん、いつもちゃんと考えているのかと言えば、そんなことは絶対にないけどね。今、俺が言ったことに対して、村谷さんが答えにくそうにしてたから、なんとなくそういう風に思っただけで」
「うん。でも、そんなこと言われたのは初めてだったから」
「こんなシチュエーション自体そうあるものじゃないでしょ」
「それはそうだけど。でも、誰かに何かを言われた時、こういう感じになったことがなかった、というか」
「うーん、難しいな」
「私も、あまり上手く説明できそうにはないけど」
そんな話をしながら僕は、村谷さんが、本当に言いたかったことを言う機会を逸してしまったんじゃないかと思った。僕が逃がさせたのか、村谷さんが逃げたのかは、分からなかった。村谷さんが僕に、それを言うためには、ある程度の沈黙と、ある種類の感情が必要なんじゃないかと思った。そして、その感情は常に逃げ道を探していて、どんな所にでも隠れることができるんだろう。
「言いたくなければ、言わなくてもいいよ」と、僕は改めて言った。
それは、僕の頭の中では、言葉通りの意味を表わしていた。しかし、僕の心は、自分で言ったその言葉に、強い違和感を覚えていた。
「ごめんね、中々踏ん切りがつかなくて」と、村谷さんは言った。それは、僕の心の方に反応した言葉だと思う。
僕はそれ以上、何も言わなかった。ただ、村谷さんの次の言葉を待っていた。
「……私は、好史の気持ちを全然分かってあげられなかったんだと思う」
「気持ち?」
「うん。好史は勉強を頑張ってた。多分みんなが思ってる以上に。でも、頑張っただけですぐに成績が伸びるんだったら、誰も苦労はしない。もちろん、頑張ることもできない人だって沢山いるけど」
「それは、もちろんそうだよね」
「私は、何とか好史を傷付けないようにしようと思ってた。成績だけなら、正直に言って私の方が良かった。多分それは、一年生の頃から割と真面目に勉強してたから。でも、そんなことを好史に自慢しても嫌味でしかないし、好史だって、少しずつだけど点数は上がってた。だから、前より良くなってる所を指摘したり、悪かった所は問題の作り方のせいにしたりしてた。私は、好史に嫌な気持ちになってほしくなかったし、出来るだけのサメ[トをしたいと思ってた。好史が喜ぶのを見てると、私も嬉しいと思った」
「優しいんだね」
「ううん、そんなことない。その時、自分が優しくしようと思っていたこと自体は本当だけど」
ここで、また少しの沈黙が流れた。僕は、自分の発する言葉のひとつひとつが、村谷さんの気持ちを邪魔しているような気がした。
「……でも、好史は段々元気がなくなっていった。私もそれには気付いてた。元気がないね、と言っても、そんなことない、って言われるだけだった。私は、苦しいことがあったら何でも言ってね、って言った。好史は、そうするって言った。でも実際は、そうしてないってことが、私には分かってた。だから苦しかったし、悲しかった。私は、誰よりも好史の味方でいたかったし、好史に信頼されていたかった。だから、自分の不甲斐なさが悔しかった。信頼されるどころか、ウザいおせっかいを焼いているみたいになってた――ごめんね、こんなつまらない話を長々と」
「全然いいよ。それより、ここでやめられた方が後味が悪いよ」
「そっか――多分好史は、私に対して劣等感みたいなものを持ってた。男子の気持ちだから何とも言えないけど」
「うん。多分、俺がその立場だったら、きっと悔しいだろうと思う」
「そうだよね……でも、私は劣等感なんて持ってほしくなかった。さっきも言ったけど、私がある程度できるのは、前からやってたから。こんな短期間で抜かれたら、私の方がダメになってたと思う――でも今思えば、どうせならいっそ、追い抜いてくれていた方が良かったのかもしれない。あの時、私を軽く追い抜いて、上機嫌で上から憎たらしい言葉を浴びせてくれたら、どれだけ嬉しかったか」
最後の方は、また声が震え始めていた。僕は、村谷さんの悔しさや、悲しさを理解することができたし、好史の劣等感も理解することができた。
「うーん」と、僕は思わず声にしていた。
「ごめんね」と、村谷さんはまた謝った。
「いや……違うんだよ」と、僕は弁解した。
「何か気に障ること言っちゃった?」
「いやいや、そうじゃなくて。確かに、村谷さんの言ってる気持ちは分かったし、好史の悔しさも分かるんだけど――好史がさ、前に、村谷さんが鬱モードに入ってて、当たられたりして困ってるって言ってたもんだからさ」
「えっ」村谷さんは、素朴に驚いた声を上げた。
「うん。すぐキレられるって。確か初めて村谷さんと喋った時も、当たっちゃうことがあるって言ってたよね」
「あ、確かに、前はそんな感じだった。私にはどうしても、好史が頑張ってるように見えなくて」
「その話があった頃、俺は好史の腕にリスカの痕を1つ見つけた。で、次に傷を見たのはあいつが死ぬ2日前。あいつは確かに、村谷さんの優しさに劣等感を持っているみたいだった。リスカは物凄い数になってた」
村谷さんの顔色が少し悪くなったように見えた。
「あのさ、村谷さん。俺は思うんだけど――あ、ごめん」
「ううん、言いたいように言って。私はその方がいいから。確かに今は苦しいけど、好史が死んだことを独りで抱えるよりずっといいから」
「うん。俺が思うに、好史は、確かに苦しみながら村谷さんのことを考えていた。だけど、きっとその契機は、全然違う所にあったんだと思う」
「え?」
「こんなこと好史が聞いてたら怒るかもしれないけど。でも、凄く悪い言い方、ありていな言い方をすれば、好史は村谷さんに八つ当たりをしてたんだと思う」
「八つ当たりなんて――」
「うん、もちろん。だから、悪い言い方って言ったんだ。ひとりひとりの苦しみを全て捨てた言い方。村谷さんは、その奥の好史の苦しみを感じているから、八つ当たりっていう表現に腹が立ったんだと思うけど。残念ながら俺は、好史が生きている間に、その苦しみを見ることができなかった。手首の傷は見れたけどね。だから、俺も今まで、村谷さんとの間のことが原因だと思ってたけど。だけどさ、よく考えたらさ。好史がそんなことで参るとは思えないんだよね。どうしても」
村谷さんは、黙って僕を見ていた。
「何かよく分からないけど、好史の中で地球が逆回転するくらいの出来事があったんじゃないかと俺は思う。それが、徐々に俺や村谷さんの考え方と、あいつの考え方の間にズレを生んでいったんじゃないかな。いや、もしかしたら全部的外れかもしれないけど」
そこまで言って、僕は口を閉じた。村谷さんもゆっくりと頷くと、何かを考えているような顔をしながら、黙っていた。僕たちは、再び夏の暑さに引き戻されていった。しかし、そこに気まずさみたいなものは、何もないような気がした。