おきると荘の書斎

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感情と理性の話

2016-02-07 23:42:00 | ノンジャンル
こんばんは。

せっかくなので、感情と理性について机上の空論を交わしましょうか。

文学や哲学は全然分からないのでさて置くとします。
純粋な机上の空論を目指しましょう (?)

さて、俺が一番気になっているのは、結局のところ理性と感情を分け隔てることができるのかというところですかね。

理性ってなんだ。感情ってなんだ。という話もありますが、齟齬が出てくるまでは各々の定義に従っていきましょう。

なんたって書いてる間は俺一人だからね。

俺は、理性と感情の分割はできないんだろうと思ってますね。ありきたりだけど。

色々な考え方があると思いますが、まずは出発点を決めましょう (思うところがある方はコメントしておいていただけると嬉しいです) 。


まず俺個人としては理性ってのは言語や手続きが司る概念なんじゃないかと思っています。

……というか、特に何の考えもなしにスタートしているので、一旦その考え方を出発地点と位置付けようと思います。

言語や手続き。

最初は言語かなーと思ったんですが、理性的であるということが「感情的でないこと」を意味するのであれば、目的のために手続きを踏むこと自体がもはや理性的なんじゃないかと。

何が言いたいかというと、おすわりをしてエサにがっつかない犬は理性的でしょうということです。


……いや、アレですよ。
おすわりをしないと100%エサがもらえないことを知っているから待っているわけで、それは理性的とは言わないんじゃないか、みたいな話もあると思います。

でも、それって人間もそうじゃないですか。
後の利益に繋がるから今はやめておくとか、全体の利益になるから自分は黙っておくとか。

前者はもちろん、後者も同じことだと個人的には思います。
他者の利益を自分の利益のように感じるという兼魔ヘ、自己を他者に投影しているからこそ生まれるものでしょうし。

感情との対比ではなく合理性という点から見ても同じことだと思います。
どうするのが合理的なのかという議論は、感情抜きにはちょっとできないんじゃないでしょうか。


俺は、理屈・理論などというものは水色の紙に線を2本引いて「川です」と主張しているに過ぎないと考えています。
今までの部分はふわふわと感じたことを書いていましたが、
この理屈・理論に対する思いは結構昔から強く持っています。

理屈が無意味だと言ってるわけじゃないですよ。
理屈は多くの人の共通認識を寄せ集めて、後の世代もその型にしっかりとはめていくことでその強さを担保されているものですね。

型にはまるのは悪いみたいな言い方が主流の時代がありましたが、
世の中の全員が好き勝手な形でやり始めたら社会なんて簡単に破綻するんじゃないかね……

いや、自然な状態での好き勝手はまだマシかもしれませんね。
自然な状態なら、人はある程度みんなの共通認識を作りたいという気持ちに駆られるでしょうしね。

むしろ、型にはまるのが悪いことだという型にはまっている人たちを野放しにするのが一番大変かもしれませんね。

やー、それでも大して変わらないかなー。
結局好きなもん同士で集まるだけになりそう……




まあいいや。戻って理屈の話ですね。
言いたいのは、理屈って感情の方向に線を引いたものだよねってことですよ。

要するに、自分の言いたいことを言うために石を並べていくんでしょうね。
放っておけばただの石でも、並べれば布石になるわけです。

ただ、石を並べるには何かしらの方向性 (エネルギーとか指針みたいなもの) が必要で、
そのエネルギーはもう少し人の本能に近いところで働いてるんじゃないかと。
それは、自分にとっての正義だったり、組み立て方のお作法だったり、感情の動きの傾向だったり様々な色合いを持っているでしょうけどね。


極端な例を出してみましょう。
喧嘩をするという場面を見てみると、

「ああ、この人は怒った後に悲しくなるんだな。それでスッキリして終わる人なんだな」というところから始まって、

「この人は怒った時に自分を棚に上げて人のせいにする傾向があって、そのあと悲しくなると自分の悪い部分を並べて同情をひく傾向があって、スッキリするとしばらくは照れた気持ちになる人なんだな」
という風に、相手が喧嘩した時の感情の推移と、その時に相手が持っている感情の出し方が段々見えてくる。

これは、感情の状態によって石の並べ方の傾向が変わってくる、という見方にできますね。

そうすると、いざ喧嘩の場面になった時に、

「この人は今悲しいという状態に入っているから、自分の悪いところをどんどん言って、同情をひくことに対して合理的な言葉を使っているな」
というような見方ができるわけですね。

いや、実践でできるかどうかは別よ。


あれ? でもこれって感情をコントロールできてないんだから、理性的とは言えないんじゃないの?

と言われると。まあそうなんだけどねー。
ただ、どこまで感情を抑圧できていたら合理的なんでしょうね。
1/2くらい? 1/3くらい? 純情な感情と同じくらい?

というか、感情を抑圧している状態すら一つの感情状態だとも言えますしね。
「怒りの感情を抑圧している状態だと、相手の話を聞いて同意しやすい傾向にある」みたいなね。


まあでも、少なくとも怒って全否定するような状態よりは、
感情の起伏が小さくて肯定も否定もできる状態の方が理性的に見えますね。

そこは俺もその通りだと思います。

じゃあ、なんで理性的なんでしょうね。


個人的には、いわゆる感情の部分はかなり個人の深い本能的な部分に根差しているものだと思います。
逆に、理性的なものは言語に代表されるように、もうちっと外界に近くて緩い部分にあるんだろうと考えてます。

抽象的だねえーーー

人って、長期記憶と短期記憶を持ってるじゃないですか。
それにイメージは結構近いかもしれません。

日々変わり得るような、簡単な思考のセットみたいなものを、ある程度人は持っていて、それが理性的であるところの判断をする際に大きな材料になる。
これが冒頭で言っていたような、言語・手続きのレベルのものかな。

反対に、生まれた時からじっくり形作られた頑固で変わりにくい塊が奥の方にあって、外界から理性の膜を貫かれ奥に侵入されると、その感情のデカい塊が判断の材料になる。

ただ、その境界ははっきりと引けるような線ではなくて、ぼんやりとしていると思います。それに、一次関数的な直線ではなくて、三次関数みたいな曲線で分けられているような気がします。

どうでしょうか。


なんか最終的に意識と無意識のモデルみたいになりましたけど、
私の狭い了見をもって突貫工事をするとこんな感じにまとまります。



…………あ、俺は別に理屈主義者ではないですよ。
どちらかといえば感情を追っかける方が好きです。


ただ、感情の方が好きだからと言って理屈はゴミだと言えないということだけ。

道を逸れるのも構わないと思うけど、知らないうちに脱線しているとしんどいだけで終わっちゃったりするのでね。



またもう少し深く考えられるような気持ちの場面があれば、
こんな感じのことをやりたいと思いますので、付き合ってやってください。