おきると荘の書斎

おきると荘の書斎へようこそ。
実況プレイ動画を投稿したり、時々ニコ生で配信したりしています。

キリモリスキー

2017-01-20 01:57:00 | 小説
平日に真夜中まで起きてる学生諸君。
社会人になったら自然に変わるだなどと思い上がらないことだな!!!


うさぎ小屋⑦


 2人の先輩の逢引を目撃してから、僕は人のことが真っ直ぐ見られなくなった。曾我さんの堂々とした雰囲気と、曾我さんの半身に身を委ねるように寄り添う今泉さんの姿が鮮明に脳に焼き付いて離れない。何か、重大な秘密を理不尽に押し付けられた時のような落ち着かない日が何日か続いた。エチル倶楽部ではしばしば今泉さんと顔を合わせたが、言葉の一つひとつがあの日のイメージに繋がって気分を波立たせた。僕の中のそのイメージはいつしか妖艶な性質を帯びていた。普段のさっぱりとした様子が、ますます曾我さんとの生々しい関係を連想させた。
 大学の講義は相変わらずピンと来ないものばかりだった。教授や学生の顔を見るたび、僕はその後ろにある生々しい私生活を想像してしまうようになっていた。ためしに僕は、講義中に同じ教室にいる男子学生の顔をまじまじと見てみた。そして、彼の手を握った時の感触をじっくりイメージしてみた。途端に虫唾が走るのを感じて連想を中断した。次に、近くに座っている女子学生を見た。手の骨格や肉づきが男女でこんなにも違うのかと思った。見るからに水分を多く含んでいるその小さな手のイメージは努力せずとも自発的に浮かんできたし、じっと想像しているうちに僕の心は自然に興奮を覚えていた。同じ人間なのに、湧いてくる感情がここまで違うものかと驚いた。
 僕はその後も教室にいる学生に対して同じことを何度か試してみた。男子でもあまり嫌な感じが起こらない時もあれば、女子の手でもあまりイメージが膨らまない場合もあった。実生活で全く関わりのない赤の他人にすらここまで違う印象を持っているのだということを今更ながら自覚し、自分の内面にすら知らない世界があることに軽い絶望すら覚えた。
 今泉さんと曾我さんはどんな気持ちでお互いの手の温もりを感じていたのだろう。どんな悦びや苦しみを共有しているのだろう。今ここで不特定多数を相手に一方通行の妄想を育んでいる僕は、今誰かと少しでも何かの感情を共有しているのだろうか。自分の心にすら気付くことなく死んでいってしまうのだとしたら、僕の人生は僕にとって価値のあるものなのだろうか。曽我さんと今泉さんの一件は、均一に繰り返される日常を歩いていた僕にはあまりに強い刺激だった。
 夏も終わりに近づいたある雨の日、僕はエチル倶楽部で今泉さんと2人きりになった。
「学生の本分は勉強なんだというけれど、学問なんて関係ない世界で働く人がほとんどなのが皮肉だよねえ」
今泉さんは学生生活をのんびり暮らしているように見える。夏の縁側がよく似合いそうな地味顔を見ていて僕は落ち着いた気持ちになったものだが、今は心のざわつきを抑えられなかった。
「こうやって荷物の無い生活を続けられるのもあと2年かと思うと今から気が重いよ。でもせっかく何もないんだから将来のことなんて考えない方が本当はお得なんだけどねえ」
「そうですねえ」と心のこもっていない相槌を打ちながら、僕は芋焼酎をストレートで呷った。アルコールは喉と一緒に心にじわりと沁みるようだった。
「そんな飲み方して大丈夫? 若いねえ」と、今泉さんはゆったり言った。
「大丈夫じゃないです」僕は言った。実際もう頭がくらくらしている。
「何か嫌なことでもあった?」今泉さんは僕の向かいに座り、同じ焼酎をぐい呑みに注いで飲んだ。「うえっ、凄いねやっぱり」
僕はどんどん自分の中に潜るように焼酎を飲んだ。少しずつ視界が薄くなり、どこを見ているのか自分でも分からなくなった。顔中の筋肉が緩んでいるのが分かった。今泉さんが心配そうに僕を見ている。その姿は非力な小動物のようで、今日でなかったら僕は支配欲に任せて襲いかかっていたかもしれない。しかし僕は、今やアルコールの作り出す渦の中に飲み込まれようとしていた。
「本当に大丈夫?」今泉さんは僕のただならぬ様子を感じ取ったのか、こたつを出て僕に一歩近づいた。
落ち着きかけていた僕の心に、また冷たい風が吹き込んだ。
「いや、いいんですよ、これでいいんです大丈夫なんですこれで」僕はそう言いながら今泉さんを避けるように立ち上がり、そして膝から崩れた。湯船で溺れたような感覚だった。
「猪島君……?」歩み寄りかけていた今泉さんは、僕との距離を図るように立ち止まった。僕は肺に直接触れられたような罪悪感に襲われた。
「大学生なんだから群れるより自分の好きなことを自分でやった方が絶対にいい」と言った吉木の言葉がふと頭をかすめた。もっとも、吉木は自分が属していないサークル活動という世界を「群れ」と呼び、学友たちとの馴れ合いを正当化しているだけにも見えた。さながら井の中の蛙が大海を知らぬように。それでも、彼の言わんとしたことが僕の琴線を複雑に揺さぶったのはどうやら確からしかった。うさぎ小屋で生まれたうさぎは、薄い檻を一枚隔てた先にもっと開けた大地があることを知っているのだ。
 その日から1か月後、僕は下宿を引き払い、住所不定になった。