:私も「老眼鏡」掛けて良い仕事出来無いと「引退宣言」して居た⇒2000年時⇒消費税取るのか」(業者納税義務)と言われる精神的負担!
:さらに2001年11月22日⇒長堀通り北心斎橋筋商店街角(北8番エレベーター上屋)横歩道上⇒スニーカー「ステップ」心斎橋店⇒「往来安全要請努力」⇒冤罪貶められ⇒事実上引退 トホホ!
:その後世捨て人⇒うつ状態⇒10年経過⇒そろそろ「滅私奉公」⇒「税金と役人の有り様追求!」(40兆円⇒毎年ボーナス400万人楽賃金!)
:「和歌山 見張り番」 「弱い者いじめは嫌い!≒私が弱虫だから」
:(和歌山市議会議員立候補して⇒最下位落選⇒245票供託金30万円没収!)
上岡は「2000年に芸能界デビュー40周年を迎える。ボクの芸は20世紀で終わり。
21世紀には新しい人生を歩みたい。」と述べ、3年後の2000年4月に芸能界を引退する。
「俺は、55歳になったら完全に隠居する!!!!!!!!」
との公約通り(マニュフェスト)、芸能界を多くの人々に惜しまれつつ引退はしたが、仕事仲間との縁は今もあったりなかったりするらしい。
かくしん-はん 3 【確信犯】 道徳的・宗教的・政治的な信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯など。
島田紳助 芸能活動引退「僕の中ではセーフでしたが…」
タレントの島田紳助(55)と所属先の「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」の水谷暢宏社長らが23日夜、東京都内で記者会見し、島田と暴力団関係者との親密な関係が明らかになったため、島田が同日をもって芸能活動を引退すると発表した。
会見によると、島田と数十年にわたり交流のある友人が暴力団関係者となったが、電話や電子メールで連絡を取り続けていたほか、島田が経営する飲食店に来店するなどしていた。法律に触れる行為はなく、経済的な利害関係もないが、島田が社会的責任をとって引退を申し出た。
島田は同日夜の記者会見で「悪いことをしているという意識はなかった。僕の中ではセーフでしたが、(指摘を受け)アウトだと一昨日、知りました」と涙ながらに話した。同社は8月中旬、島田が2005年から07年にかけ、暴力団関係者と親密な関係をうかがわせるやりとりをしていたとの情報を入手。島田本人に確認したところ、事実関係を認めた。
よしもとクリエイティブ・エージェンシーは「このような行為は、社会的な影響力の高いテレビなどのメディアに出演しているタレントとしては、その理由を問わず、許されない」と説明。水谷社長は「ファンのみなさま、関係各位の信頼を裏切り、多大なる心配とご迷惑をかけたことを深くおわびします」と謝罪した。
島田は、故松本竜助さんと組んだ漫才コンビで人気に。最近はテレビ番組の司会者として活躍し、「行列のできる法律相談所」や「クイズ!ヘキサゴン2」などの人気バラエティー番組に出演している。
04年には、吉本興業の女性社員を殴ってけがをさせたとして略式起訴され、罰金30万円の略式命令を受け、芸能活動を一時自粛した。
【島田 紳助】(しまだ しんすけ、1956年3月24日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、作詞家、音楽プロデューサー、実業家であり、漫才コンビ紳助・竜介の元ボケ担当。本名、長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)[1]。
京都府京都市南区出身。吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)所属。
【上岡 龍太郎】(かみおか りゅうたろう、1942年3月20日 - )は、日本の元漫才師、タレント、司会者である。本名、小林 龍太郎。旧芸名、横山パンチ、伊井パンチ。
京都府京都市左京区出身。2000年に芸能界を引退。長男は映画監督の小林聖太郎。トレードマークは、漢字の「電」の字。
【島田紳助との関係】
島田紳助から心の師として尊敬されており、2人は多くの番組で共演し、映画『ガキ帝国』でも共演している。紳助が若手時代、紳助竜介の漫才を見て自分がやりたい漫才の後継者にしようと紳助を食事に誘い、「君はどんな漫才がしたい?」との問いに、紳助は「今までになかった漫才がやりたいんです」と答えた。その言葉に「自分の後継者=従来の漫才」であると考えた上岡は「よし!じゃあ僕が今から今までの漫才のパターン全部教えてやるから、これからそれやったらあかんぞ」と答えたという。その結果、紳助竜介はリーゼントヘアにつなぎ作業着という不良スタイルの「ツッパリ漫才」という今までにないスタイルを確立させた。以降、2人は師弟のような関係を築いていった。
ポップ対歌謡曲では態度の悪い客に対し頻繁にキレている。しかし上岡は紳助がキレる兆候を感じ取り、自分が先にキレる事で紳助がキレることを封じ込めていたと語っている。
紳助が、2004年に暴力事件を起こして謹慎中だった際、真っ先に相談したのも上岡だった。紳助の「僕はこれからどうすればいいのでしょう」との言葉に、「悪いと反省しているなら誠心誠意相手の女性に謝れ。でも自分から『引退する』などとは絶対に言うな。周りのスタッフのことを考えろ」と、引退を決めようとしていた紳助を諭した。後日、紳助が会見を開いた際、告白したもの。
紳助は、上岡引退の際、「芸能界での道標を失ってしまう。引退を考え直してくれ」という内容の手紙を送ったが、上岡は「ずいぶん前から君は僕の前を走っているんだよ。」という内容の手紙を送った。この手紙を読んだ紳助は、涙が止まらなかったという。
紳助が「オールスター感謝祭」の司会を行う際は、必ず最前席に座り、紳助を見守っていたという。紳助は、その上岡の姿勢に感動し、「気持ち良く司会が出来る」と語っている。番組が終わった後は、必ず上岡から「完璧でした、見事でした」との言葉をもらっていたとの事。
最後の出演となった1999年の秋には「3位以内に入らなければ芸能界を引退します!」と公言し、見事3位に入ったが、翌年に芸能界を引退した。(ただ、それより前から「2000年の自分の誕生日に芸能界を引退する」と公言していた)
上岡は紳助のトークに対して、紳助の同期の明石家さんまと比較して、「素人相手にしゃべったらさんま、芸能人相手なら紳助」と評している。
[編集]