土屋龍一郎のブログ

土屋龍一郎のブログです。

原因不明の体重減少

2005-09-19 09:06:32 | Weblog
 やっと、連休だ。やっと休めるぞ。
 昨夜の懇親会で集まったみんなが口々に「日曜日は眠る」と言う。
 ああ、そうだな、俺も明日はとにかく休みたいな。と女房に宣言して寝た。
 今朝は本当に疲れてしまって、起きることが出来なかった。トイレと布団を往復して午前中いっぱい眠った。遅めの朝食というか早めの昼食を子供たちとともにした後、また眠る。いくらでも眠れる。どうしたものか・・・
 身体中から鈍い疲れがじわじわとにじみ出てくる。頭痛の芯が目じりや鼻の穴や頭皮から空気中に放出されてゆく。疲れて突っ張った筋肉や筋がいったん膨張してからもう一度普通の場所に収まってゆく。
 夕方になっても体力が戻らぬ。精神力も戻らぬ。そういえば,昨日体重を量ったら目標体重まであと1kgに迫る勢いで体重が減少していた。
 どうなっているんだ?
 医者である友人によると極度の疲労だろうとのこと。これに乗じて体内に眠っている悪いウィルスなどが戒めを解かれたように露見してくるだろうという。その予言はあたったが、とにかく今日は一日眠る日にしよう。今日くらいは・・・

ラジオ朗読新見南吉「うた時計」

2005-09-18 22:08:23 | Weblog
 せっかくMDとか6連奏CDとかがついたカーオーディオなのに、このところNHKラジオの朗読にはまってしまった。
 先日も早朝会議の後の移動中に新見南吉「うた時計」をNHK第二で放送していた。中学年向きのおはなしの旅という短い時間の放送だったが、橋爪功さんがたった一人で演じていた。少年・青年・おじいさんの3人の登場人物を見事に演じ分けている。プロの技だ。

 2001年ごろから、人の話し方について注意する習慣が身についてしまった。
 自分自身100回近く大勢の人たちの前で話さなければならない時期があって、「どうしたら伝わる」「どうしたらわかってもらえるか」「相手を理解できるか」について相当悩んだからだ。
 小泉総理の話はとにかく説得力がある。ちゃちゃを入れる隙を与えない。長野県を代表するある県会議員の話はとにかくわかり易い。ところが会場と観客が変わるとその人は同じ話を違う話し方で伝えるテクニシャンだ。
 最近は真っ只中の衆議院選挙関係の立候補者の話を気にかけて聴いている。こんなにわかり易い選挙なのになぜか候補たちの言葉が耳に残らない。こころを揺さぶらない。国会の議論を聞いていても話し方の手練手管で煙に巻くしたたかな方々も多いけれど、「何を質問しているのか」わからない方々もいる。

 今回の衆議院選挙は「ハッタリ」という技術を操る団塊の世代の候補者たちが、技術を超えた「ことば」を伝えたもん勝ちの気がする。

けだるい初秋の文京区の昼食

2005-09-17 17:16:01 | Weblog
白山で従兄弟の葬式に出たあと最寄り駅辺りで昼食を取った。カジュアルなフレンチのビストロ。ランチ950円にビールとデザートとコーヒーを頼んだ。
和風ソースのミートボールとトマトソースの目鯛盛り合わせのワンプレート。気楽でよい。他の客も土曜日の午後のけだるさを漂わす近所の住民っぽい。
味は抜群で大満足。

スクアールビストロとあう名札で献花があったことを思い出して尋ねたらなんと故人はこのビストロの大家だった。
「多少大雑把だけれど心の優しい兄でした」と喪主が話す故人が「どうせお前は二度と白山まで来ないだろうから」と私を導いてくれたのかも知れない。ビストロの隣は、故人が20年ほど前に突然開店して私をバイトさせてくれた弁当屋がシャッターを閉めていた。
50歳で急逝した永島信太郎兄の冥福を祈る。
合掌。

年相応

2005-09-16 00:23:26 | Weblog
 若いくせにおっさんくさかったり、逆に妙に若く見える人がいる。顔つきと年齢が丁度良くなる年齢という時期があるのだと思う。残念ながら出会ってしまった時の印象が強いのでせっかく年齢が顔つきに追い付いた友人でも「お前は昔からおっさんくさかったな」ということに落ち着いてしまうから、気の毒だ。
 娘に言わせると私は39歳の印象のままストップしているそうだ、というかあの頃が一番「おつとうさんって感じだったね」ということだそうだ。今は輝いていない疲れたおじさんなのだろう。

 自分の年齢を意識したことがなかった。自分の進路で悩んでうろうろしていたらいつの間にか20歳を越えていた。自分の仕事がなんだか良く分からないで毎日がただただばたばたしているうちに30歳を過ぎ、35歳を越えた。おおきな生活の節目が来て年齢のことよりも実生活の変化が知らぬ間に40歳を越させていた。そんなことだから「おいくつですか」と尋ねられて即答できないことも多かった。

 昨年からなぜか急に自分の年齢を意識し出した。村上春樹の「プールサイド」という短編小説の中に「折り返し」というキーワードで人生を送る若きスイマーの話がある。彼と違って35歳は自分の中で折り返しに感じなかった。ところが43歳は86歳の折り返し地点で、平均年齢の真ん中だ。つまり私は「これから食べる昼食の数が、これまでより少ない」側に来てしまったのだ。
 そう考えてしまってからは無意識のうちに「43歳のおっさんだからさ」と自分のことを言っているのに気付くことが多くなった。
 そして、また一つ歳をとった。

これからのリーダー向け講演

2005-09-15 23:25:48 | Weblog
 日本JCの神奈川ブロック協議会ブロック会員大会座間大会の中で来年以降の各青年会議所の理事長さんなど、これからを担う方々向けの講演に講師として招かれた。
 通常の講演だと新入会員から古参まで様々な方がいるので多少とっちらかった話にならざるを得ないのだが、キャビネットと呼ばれる中枢向けだとなると、ポイントを絞って「がつん」とくる話をお見舞いする。
 この日も手加減なしで剛速球の話をぶつけた。実は神奈川県内はこれまで6回も各所で講演しているので、聴講者もこちらの手の内を知っているようで、手ごわい。ちょっと話のテンションが下がるととたんに目つき顔つきで物言わぬブーイングが起こる。このように態度に表してもらったほうがこちらとしては話しやすいくらいで、反応を見ながら「これでもか、これでもか」と直球・変化球を取り混ぜてぶつける。
 この日はとても真剣に話を聞いていただいた。
 自分としても非常に納得の行く形で終了することが出来た気がする。
 終了後の食事会で担当者の柴田正隆さんが「以前講演で聞いた出張中に女房に絵葉書を出すコミュニケーション術をずっと続けています」と、話してくれた。くすぐったいような気持ちだが自分の想いが相手に伝わったことがとてもうれしかった。

墓参り

2005-09-14 02:03:06 | Weblog
 半年しか縁がなかったのに妙に気があった友人の墓参りをした。
 大胆不適にして繊細かつ本質を見極め人心掌握に優れていた男だった。
 毎年友人が集まる5月の命日にどうしても行かれなかったので気にしていたが、やっと今年も訪ねることができた。
 タクシーに待っていてもらって、一人で花を活けて、線香を灯し、墓石に水をかけて手でこする。まわりの参拝客に妙なおっさんだと思われただろうが、一人ぶつぶつと墓石に向かって話しかけていたような気がする。名家らしく、きちんと並んだ一族の墓石はきれいに掃除がされ、どれにも花がいけてある。横浜全体を見下ろす高台のお墓に眠る友人は6年前に38歳で世を去った。
 まわりの無念は、彼が大人物であった故になおさらのこと堪え難い嗚咽となっていつまでも耳に残っていた。
 私が混乱して自分を見失って彼に助けを求めたときに「大丈夫、すべてのことはどうにかなります」と、救ってくれた友人は自分の人生だけはどうにもならずに逝ってしまった。あの言葉は今でも私を救ってくれている。
 そして、悲しいことだが「死んじゃあだめだ」というのが最後に彼が私に教えてくれたことだ。

自民党圧勝あっそう。

2005-09-13 01:41:32 | Weblog
 第44回衆議院議員選挙が行われた。「郵政選挙」というネーミングになったとおり、参議院での郵政民営化法案否決に端を発した解散にともなう選挙だ。
 のせてもらったタクシーの運転手さんさえ「なんで民営化に反対する人がいるのかわけわかんねえ。」というぐらいだから私にも反対した議員さんの真意は計りかねる。が、戦後間もなくなぜこの郵便事業・郵便保険事業・郵便貯金が始まったのか、時代背景はどう変化したのかとか、どんな規模で・・とかきちんとしたことはよく分からない。良い機会なので「論争・郵便局が消える日」(中公新書/中公クラレ編集部編)「郵政民営化でこう変わる」(松原聡著/角川oneテーマ21)「地域と暮らしをポストがつなぐ」(鹿野和彦著/JMAM)「日本の論点2005」(文芸春秋編)を引っぱりだして、研究した。
 その結果その本で一生懸命仕入れた知識は選挙戦の最中は全く訳にたたないことが分かった。なぜならばほとんどの人が賛成か、そう出なくても明確に反対をいう人がいなくなってしまったからである。
 そして、終わってみれば「政権交代選挙」という風に名称まで変わっていたのであった。
 
 それにしても、自分としてはがんばった選挙なのだけれど関わった人たちってどうして、「勝ったのは俺がいたせい」と、主張してしまうのだろう。負けた選挙を手伝った時には「負けたのは候補のせい」になっていた。
 とかく選挙は難しい。
 新党日本はいつまでみんなの記憶に残るダロウカ。気合いの入った名前なのだが・・

待ちぼうけ

2005-09-12 00:22:04 | Weblog
 ある時、久しぶりに絵に描いたような待ちぼうけを喰らった。
 ある団体から前夜に突然翌朝の召集がかかって会社を休んでも来いといわれたので、ちょっとしたミーティングを別の役員に頼んで集合場所へ行った。すると「ごくろうさん、ちょっとそこに座って待っていて」と言われたので、おとなしく「指示待ち人間」となって、自分の書類整理なんかしながらずっと待っていた。時々「どうしましょうか?」などと聞いても「ちょっと待っていて」状態で、埒があかない。2時間近くたってふと気が付くと私に指示した人は外出してしまっていた。
 もうひとつ。
 暗い夜道は危ないということで子供の塾の帰りは車で向かえに行くルールになっていた。たまたま会社の帰り時刻が8:40という子供の塾終了時刻に近かったので向かえに行ったわけだ。
 すると、双方の勘違いで子供は迎えの場所にいつまでも現れない私に業を煮やしてというか、自立心からか、とぼとぼと歩いて帰宅してしまった。私は私で40分以上も間違った場所で子供を待ち続けてしまった。
 原因はどうであれ「まちぼうけ」を喰らうと、なんだか自分がいなくても世の中結構動いてるし、頼りにされていないような情けない気分になる。
 普通は「なに考えてんだよう」と怒るところだが、これらのときはなんだか空しくてひとり静かに考え込んでしまった。

9.11

2005-09-11 23:59:10 | Weblog
 September 11thという日は、21世紀の世界の多くの人々にとって最も記憶に残る一日ではないだろうか。その日自分が何をしている時に同時多発テロを知ったのか、多くの人が今でも思い出せるであろう。日本ではあの時刻(夜11時頃)に寿司屋で食事をしていた友人が多い。
 私はその時、なんとテロの舞台の一つになっていたニューヨークであの事件を知ることになった。国連の世界NGO会議に出席して分科会でスピーチをするためにニューヨークにいた我々は、そろそろ国連へ向けて出発しようとしていた矢先に「どうも貿易センタービル辺りで事故があったようだ。しばらくホテルに待機して欲しい」との連絡を受けた。テレビでは炎上するツインタワーが映っている。ホテルの窓の外はパトロールカーのサイレンがけたたましく響き、クラクションと急ブレーキの音が騒がしかった。
 詳しい事情が分からないまま女房に電話するがつながらない。結局数時間後にmailで詳しい状況報告ができたのだが、お互いに安否が知れないというのは大変不安なものだった。
 今、あのときのことを女房に聞くと、やはり尋常ではなかったらしい。
 留守を守る私のJCの仲間から「土屋さんがテロに巻き込まれているようで連絡が取れない」という一報が入ると、我が女房は「嘘に決まっている」からという理由ですぐ布団に入って眠ったそうだ。眠って起きれば「夢だった」ことになるはずだ。と思って、いくつか電話が来てもその度に嘘であることを証明しようと眠り続けたという。目覚めても目覚めてもテレビは繰り返して事件を取り上げている。ついに信じるしかなかったとのことだ。
 個人的にこの日を忘れないために「一日中を国連に捧げる日」に決めているが、日本にいるとこの日も単なる一日になってしまって、今日なぞも衆議院選挙など超ドメスティックな一日になってしまった。

コーディネータはこーでねえと。(べたべた)

2005-09-10 00:01:31 | Weblog
 日本JC北陸信越地区長野ブロック第36回会員大会のメインフォーラムに、コーディネータとして参加した。
 「おもしろき地域(まち)すばらしき信州(ふるさと)の創造」というテーマで、会場である須坂市のおとなり小布施町を題材にして3人のゲストからまちづくりについての様々な意見を聞いた。小布施町は「まちづくり修景事業」が成功して活性化したことで全国的にも有名な町である。1960年代後半に人口減少で悩んでいた長野県一小さな面積の自治体が民間の知恵と行政の協力で1976年の「北斎館」建設を経て成長した輝かしい歴史がある。
 当初主催者側担当から、成功事例について学ぶシナリヲをいただいて、打ち合わせを進めていたが小布施について調べるうちに、どうも最近はこれまでの手法に壁を感じているのではないか、と思える資料がホームページなどからちょこちょこ出てきた。第一、成功事例ばかり追っていても面白みにかける。ということで、シナリヲを変更した。
 折しも来年2006年は北斎館建設30周年にあたる。そこで、これまでの苦労と知恵について前小布施町長唐沢彦三さんを招いて話を聞き、小布施分か健康境界会長で平松農場の平松幸明さんにこれからの小布施について理念を聞いた。そこへ主催者代表の小松裕長野ブロック会長にJCサイドの考え方を聞いた。資料合わせ等は「文屋」の木下豊さんだ。
 あまりに盛りだくさんの内容になってしまって、聞いている方々には屋外での猛烈な暑さもあって、少々つらいフォーラムになったかもしれない。
 日本全国、2005年は歴史の転換期にあたる重要な年だ。このフォーラムは将来今年を思い出した時に「そういえばあんなことやったな」と思えることを予測しての変更になったと思う。
 篠塚真一さんという一見怪しげな快男児の情熱が連日徹夜のシナリヲづくりを完成させた。
 コーディネータがしゃべり過ぎだとの声もあるが、楽しかったです。