個別指導塾 ONE-S(ワンズ)のブログ

堺市上野芝にある個別指導塾です。進学から補習、不登校の子どもの学習サポートなど、さまざまな子どものニーズにこたえます

自分の弱さを受け入れるのは簡単ではないですよね、特に若いときには。

2018-06-08 10:41:54 | 不登校
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

私は大学卒業後、約3年間ひきこもりでだったことは、このブログでも何度も書いています。ひきこもりから脱出して、今はもう「いい思い出」とまではいきませんが、「良い経験をしたな」と思えるようになっていますので、こうしてその当時のことを恥ずかしからずに話すことができます。

ひきこもりの一番のきかっけとなったのは、就活の失敗です(今考えるとさまざまな要因がありましたが)。私は大学は工学部でしたが、大学での勉強にまったく興味がわかず、そして勉強がわからないこともあって、理系ではない仕事をしようと思いました。いろいろ考えた末、公務員になろうと決め、公務員試験の勉強を始めました。大学での勉強とまったく異なる勉強でしたが、いわゆるテスト勉強には慣れていましたし、当時は自信もありましたので絶対に合格すると信じていました。

国家公務員試験、地方公務員試験、いろんな試験を受けました。市役所も堺市だけではなく、大阪のその他の市、そして父の実家が愛媛県ですので松山市役所といった大阪府以外の試験も受けました。ですが結論から言うとすべて不合格でした。

人生で初めて挫折を味わいました。もちろん大学受験でも2浪して志望校に合格できなかったので挫折はしているのですが、それはどこか自分でも気づいていた部分もあり、つまり自分よりも勉強ができる人間なんて無数にいるということは高校に入学したときにわかっていましたので、ショックはショックでしたが、「まあしかたないか」と諦めることができました。しかし、この就職試験での不合格は受け入れることはできなかったのです。

それはなぜか。
理由は1つです。

「市役所を受験した人の中でおそらく私の学歴が一番上だったにもかかわらず、不合格になってしまったからです」

大学の第一志望には不合格でしたが、それでも私の大学は国立大学です。偏差値もある程度高いはずです。学歴を信じて生きてきた私は、履歴書を書くときもどこか自慢げに書いていましたし、面接でも「いい大学に行ってるね」と言われるのを心地よく感じていました。ですが結果はことごとく不合格。大学の偏差値でいうと10以上私の大学より下の大学の人が合格しているのに私は不合格。学歴至上主義の私にこの結果を受け入れることなんて到底できなかったのです。

「ホンマどこも面接官っていうのは見る目がないな!何を基準に判断しとるねん!」私の怒りの矛先は面接官に向けられました。今ならはっきりわかります。当時の面接官の方々の見る目は正しかったと。

当時の私は、とにかく「しゃべり」が下手で(今でもヤバいですが(笑))、面接でしどろもどろになることはしょっちゅうでしたし、集団討論ではほぼ何も発言できないまま終わることさえありました。それだけならまだしも、学歴があることを鼻にかけている、こんなやつと一緒に働きたいなんて誰も思わないですよね。不合格になって当たり前だったんです。それを「口先だけのやつがうまいこと合格しとるわ。俺みたいに学歴もあって無口で真面目な人間を落とすなんて、だから役所はあかんねん!」と思っていました(そうとうヤバいやつですね(笑))。

結局こんな社会に自分の居場所なんてないと思い込み、自分自身を見つめなおすこともなく、社会を恨み、私はひきこもりへと突入しました。

当時の気持ちを正確に思い出すこともできませんし、分析もできませんが、おそらく私のそれまでの人生を全否定されたように感じていたのでしょう。「勉強さえしておけばなんとかなる。勉強さえしておけば苦労しないはず」そうして歩んできたのに、実際に社会に求められていたのは勉強だけではなく、もっと他の能力だったのだと気づかされたことがショックだったのだと思います。

ひきこもり時代の3年間で、私は初めて自分というものを冷静に見つめることができたように思います。自分に何が足りないのか、何をしたいのか、どうやって生きていきたいのか、毎日それらと向き合っていました。「もうどうでもいいや」と投げやりになったことも数えきれないくらいあります。それでも時間をかけて「ありのままの自分」をだんだんと受け入れることができるようになりました。

塾を始めて、さらに自分を冷静に分析することができるようになり、自分にできることとできないことがはっきりとわかるようになり、必要ならば努力してできるようにして、またどうしてもできないものは無理にできるように見せるのではなく、できない自分をそのまま受け入れるました。自分は何もかもできるのではなく、できないものがあってもいい、しかし私だからこそできること、私にしかできないものを探していきたい、そんなふうに思うようになっていきました。

それからは生きていくことがとても楽になり、楽になったからこそ楽しくもなりました。背伸びしたり強がったりするのではなく、自分にできることを一生懸命する、等身大の自分を受け入れる、それで他のだれかの役に立つことができたり、喜んでくれればこんなに嬉しいことはないですよね。

不登校やひきこもりで悩んでいる子どもたちの中には、昔の私のように自分を受け入れることができずに、社会や学校そして家族のせいにしている子もいるかもしれません。でも本当はどこか自分自身で気づいているんです。気づいているのですが受け入れる勇気がないのです。または経験がないのです。1人だけの世界に閉じこもらずに、せめて家族とだけは接したり、たまには外の空気を吸ったりしていれば、個人差はあるでしょうが、だんだんといろんなものを受け入れることができて、1歩前に進みだせる日が来るはずです。いつ来るかわからないその日を待ち続けることは本人はもちろん、家族もしんどいでしょうが、自分を信じて、そして子どもを信じて頑張ってください!


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「内申点下げるぞー」  「はあ?」

2018-06-05 10:37:11 | 教室から
こんにちは。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

みなさんは、学生時代に先生から言われて腹が立ったり、傷ついたりしたことはありますか?

私は執念深いので(笑)、たくさん覚えています。強烈だったのは中学生の時に「お前はテストの点数はいいかもしれんけど、性格がちょっとな」と言われたことがあります。「あんたは俺の何を知ってるねん!」とめっちゃ腹が立ちましたが何か言い返すことができるほど強くなかったですし、先生がそう思っていたのはなんとなくわかっていましたし、その原因も自分ではわかっていました。

中学校はここでも何度か書いているように、ヤンキーがたくさんいました。私はそれももちろん嫌でしたが、もっと嫌だったのは先生の態度なんです。ヤンキーには先生もペコペコして、何を言われてもヘラヘラしているくせに、私のような普通の何も言い返せないような生徒に対しては、とても高圧的で、ときには暴力をふるってきたときもありました(もちろん全員ではなく一部の先生ですが)。ヤンキーがいくら騒いでも注意しないくせに、朝礼の時に私が後ろを向いて友だちと話しているだけで、突然みぞおちにグーパンチしてきた先生もいました。不意を突かれた私は呼吸ができなくなり、その場にうずくまってしまいました。それを見たヤンキーの数人がその先生に詰め寄り「おい!何をしたってんねん!」と怒ってくれたんですが、そう言われた先生は急に態度を変え「松下、いけるか?ごめんな」と言ってきました。

「いけるわけあるかー!」「そもそも、その態度の変わり様はなんやねん!なんでお前みたいなもんが教師やっとるねん!」殴られたことよりも、先生の態度の急変ぶりに怒りが最高潮に達しました。その頃から、私は教師という人たちを尊敬できなくなり、逆にどこか見下していた部分があったと思います。そんな私の気持ちに先生たちも気づいていたのでしょう、三者懇談などでもあまりいい言葉をかけてくれなくなりました。よく言われたのは「松下君は先生によって態度を変えるんです」。

「ああ、そうだよ。おもいっきり先生によって態度を変えてたよ。でもそれは、そっちが先だからな。先生たちが生徒によって異なる接し方をするんだから、こっちもそうさせてもらって当然やろ!」

とまあこんな感じで、先生との間に信頼関係のようなものは少しもなく、こうなってしまっては修復は難しいですね。この状態のまま中学校を卒業し、高校に入学しましたので高校でも同じように先生に対してはネガティブなイメージしか持てなく、「先生=敵」に近いものがありました。

今となっては、当時の先生たちの指導の仕方や発言も理解できるところはありますし、やはりあの異様な中学校では先生方もいっぱいいっぱいの状態で大変だったでしょう。ですが、だからといって言っていいことと悪いこと、そして教育の本質を逸脱してしまってはいけないと思います。

最近でもある中学校で、生徒が授業中に騒がしかったり、寝ていたり、あるいは遅刻したりすると、すぐに「内申点下げるぞー」という先生がいます。もちろん先生は注意したり怒ったりしていいのですが、この言い方はどうでしょうか。内申点というものを盾にして生徒をコントロールしようとしているわけですよね。教育の方法として正しいのか、あるいは他に方法はないのか。

そもそもこの方法では生徒たちのコントロールはできません。なぜなら、内申点を特に意識しているのは府内でもトップクラスの公立高校を受験しようとしている生徒、いわゆる優等生です。彼らは1点でも高い内申点を必要としているので、そのやり方の良し悪しは置いといて、ある程度先生の言うことをきくようになるでしょう。ですが、そうではない生徒も数多くいますし、特に私立高校専願で受験する生徒は内申点はさほど必要ではありませんし、スポーツ推薦などで進学する生徒も同様にほぼ必要ありません。そんな生徒に対して「言うこときかなかったら内申点下げるぞー」という脅しは通用せず「はあ?別にかまへんよ」と言われるだけで何も改善されません。

そうなると内申点が必要な生徒たちは「周りはさわいでいるのに、なんで自分だけが」という気持ちになるでしょうし、内申点が必要のない生徒たちからは「あの先生、なんか根性汚いよな」と思われてしまい、信頼関係を築くどころか、逆に私の学生時代と同様に敵対してしまいます。生徒たちをコントロールもできないし、生徒たちからも信頼されないという悪手ですね。

つまりは、先生に必要なことは自分に都合いいことを優先するのではなく、どれだけ子どものことを真剣に考えてあげているのか、どれほど子どもたちと向き合えているのかが教育には最も必要なことではないかと私は思います。それは大変なことでしょう。1クラス40人ほどの生徒がいるわけですから。自分のやりやすいように型にはめていくのが楽でしょう。でもそれは教育ではありません。人数が多すぎて不可能なら、根本的に学校制度を見直せばいいんです。子供が成長していく中で、小学校の6年間、中学校の3年間のこの義務教育の9年間がどれほど大切か、それをもっと自覚しなければなりません。

私が1つだけ中学校の先生に教えてもらったことがあるとしたら、「生徒とは真正面から向き合わないと教育なんでできない」ということかもしれません。20年前に塾を始めたとき、しゃべりや教え方は下手かもしれないし、優秀な先生にはなれないかもしれない。でも、自分のところに来てくれた生徒たちから逃げずちゃんと向き合い、塾に来てくれている間の成績のことだけではなく、卒業してからの人生や将来のことなども一生懸命考え、必要なときにはきちんと怒り、そんな先生になろうと思いました。まだまだ理想からは程遠く、日々勉強していかなければなりませんが、少しでも生徒たち、そして保護者の方たちとの信頼関係が築けるようにと思っております。

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たまにはボーっとする時間も大切なんですよ

2018-06-02 09:40:04 | 教室から
おはようございます。堺市西区の上野芝にある個別指導の学習塾ONE-S(ワンズ)の塾長の松下です。

最近ずっとサボっていた(-_-;)ウオーキングを再開しました。ほんと私は地道にコツコツするというのが、何歳になってもできないんですね。10年ほど前もボクシングジムに通っていたことがありまして、もともと格闘技は好きな方ですので、とにかく楽しく、自宅にサンドバッグまで購入したほどはまっていました。午前中にジムに行って汗を流し、昼から塾に行くという生活をしていました。ジムも週4くらいのペースでいっていましたが、半年ほど経ってかた急にペースダウンし、いつの間にか月1回ほどしか行かなくなりました。月会費でしたので、これはさすがにもったいないと思い退会しましたが、自宅の大きなサンドバックは今も処分できず、ほこりをかぶった状態で寂しそうにぶら下がていますし、玄関にもずっとだれにもふれられていないボクシンググローブが2つ、恨めしそうに私を見ています(笑)。

ウオーキングもこのブログで何度も書いているように、まったく長続きせず、腰が痛くなったり、体重が増えすぎたりしてあわてて再開するということを繰り返しています。とまあ、私のダメな話はこのへんにして、今日はこうしてウオーキングを再開したことでふと気づいたことの話をします。

ウオーキングしている場所は大きな公園でもなく、普通の街中を歩いているので、たくさんの人が歩いていますし、信号もたくさんあります。その信号で立ち止まって周りを見渡すと、同じように信号待ちしている人の約半分、多いときには8割ほどの人がスマホをさわっています。停車している車の中では運転手がさわっていることも少なくありません。

マナーが悪いとか、危険だとかはもちろんですが、私が特に感じたのは「みんな忙しいなー」ということでした。

私は信号待ちしている間は、特に何かを考えているわけでもなく、ただボーっとしてたり、景色などをボンヤリと眺めています。しかし、スマホをさわっている人は、その間も文字を追ったりゲームをしたりして頭を使い続けているんですよね。仕事の合間や、帰宅してからもずっとスマホをさわっている人は、いったいいつ頭を休めているのでしょうか?

スポーツでも勉強でも仕事でも長時間ダラダラとするのは効率が悪いですよね。集中して取り組み、集中が切れたらリフレッシュ休憩をとってしっかり休む、こっちの方がすべてがはかどりますし、時間も有効に使えます。そういう意味では頭を休めるというのはとても大切なことなんです。

大人にとっての仕事もそうですが、子どもたちはもっと深刻です。スマホを使っての休憩は、頭の休憩にはならず、常に頭を使い続けています。ですから、スマホをやめていざ勉強しようとしても、頭がリフレッシュできていないので、勉強がはかどりません。暗記するのにも時間がかかるし、計算間違いも連発したりするので、ますます勉強するのが嫌になってきます。いくら勉強してもなかなか頭に入ってこないと悩む子どもたちが増えているのは、スマホが無関係だとは思えません。

そして、SNSの普及により、広く浅いコミュニケーションが増加しています。自分の容量を超えるような広いネットワークでのやりとりになるため、表面的なコミュニケーションになってしまい、深く考えることがだんだんとなくなってきます。1つのことに対してじっくり考えることがなくなりますので、思考が短絡的になり、本当のコミュニケーションがとれなくなってしまいます。

ボーっとしているときって、頭を休める効果だけではなく、何か1つのことをじっくり考える時間にもなるんです。特に意識して考えようとしなくても、普段気にしていないようなことであったり、逆に興味のある分野であったり、さまざまな問題に対して深く考えることができ、たくさんのことに気づくことができます。それを人に伝えたり、あるいは教えてもらったりすることで話に深みが出てきて、有意義な会話になるのです。

ただでさえ日本人は大人も子どもも忙しく時間に追われているのに、せっかく貴重なボーっとする時間をスマホに使ってしまってはもったいないです。

スマホがない時代の人は、もっとボーっとしていたはずです。「暇だなー」というときもたくさんあったはずです。だからこそ、たくさん頭を休めることができたし、物事を深く考えることもできたんだと思います。今の子どもたちには暇な時間はありません。本来暇になる時間をすべてスマホに使っているからです。スマホとどう付き合っていくか、それは子どもだけでなく、私たち大人にとってもこれからの大きな課題になるでしょう。

まずは、信号待ちしているときや誰かを待っているとき、そして寝る前のほんのひと時、そんな時間をスマホをさわらずにボーっとすることを始めてみませんか?


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