ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

黒色

2010-01-04 15:48:46 | Vision East
 困ったことです。
 国道に大晦日、暴走族が走った証拠ともいえるタイヤ痕が張り付いたように残されていました。
 1週間ぶりに国道を車で走っておりましたら、国道が凄いことになっていたのです。
 高知県東部、奈半利の国道には、室戸へ向かって走る車・バイクなどが警察の検問もなんのその、しっかり頑張って走った跡が残されておりました。

 黒いアスファルトの上に黒いタイヤ痕。何度も何度も行き来してつけられた跡なのです。

 若者は何に向かって発散をしているのだろう。経験がないだけに解らないのですが、爆音のような音、スリップ音、スピーカーからの音。色々の音が入り混じって気分が悪くなってきます。

 夜の夜中、深夜に危険な行動を繰り返す一団。
 スピードと音に酔いしれて、陶酔の世界に入り浸っていたような、そうした跡です。
 社会は病んでいるようです。

 命がけの行動とはいっても、幕末の志士達の意思とは違うような、そんな気がしますね。
 彼らももっと意思表示をすればいいのにね。聞く耳を持っている大人もいるはずですから。

 ただ、この跡も一週間もすると、上を走る車によってかき消されてしまうのです。
 そして、なかったことになるのかなあ。

明治の玄奘三蔵。

2010-01-04 15:02:43 | 昔話
 箱根駅伝を見終わって、東洋大学の強さが際立っておりました。
 今日は河口慧海について書いてみたくなっております。

 駅伝と河口慧海は関係がありません。
  河口慧海は東洋大学の教授だったのです。あまり有名ではないのかもしれませんがね。どんな方だったのか紹介したいと思います。
 
 さて、玄奘三蔵はご存知かと思います。

西遊記のモデルのような、唐の時代に実際にいた僧です。
 もちろん孫悟空等はいなかったのでしょうが、経典を求めて天竺(インド)へ向かうのです。当時唐は鎖国政策をとっていた事から、密出国をすることになるのです。日本ではまだ大化の改新(645年)も起きていない頃の話です。

 その玄奘三蔵のような人物。今日は、河口慧海について書いてみようかなと思います。
 もう40年ほど前に彼の著書「チベット旅行記」を読んで魅せられてしまったのです。

 彼は今の堺市に1866年に生まれます。そして井上円了がはじめた哲学館(東洋大学の前身)を卒業後出家(1890年)するのです。
 その彼、仏教原典の研究のために1897年ごろ、インド・ネパール・チベットまで出かけることになるのです。当時はサンスクリットから漢訳された経典を日本語に再度翻訳していたものしかなかったのです。当時鎖国状態のチベットに経歴詐称して入国をし、そしてセラ大学に学ぶことになります。日本から出国以来3年が経過していたそうな。

 そのときの旅行記が6年後に帰国後発刊されて、ブームとなります。
 
 私も昭和の時代に講談社学術文庫でこれらの作品に出会って刺激を受けたのです。面白いのです。そんな馬鹿なといったカルチャーショックの連続です。

 再度ネパールへ出かける際、彼は黄檗宗一切蔵教を京都の版元から買い受けると、それを土産に出かけるのです。
 それが今でも、ネパールの国立公文書館の蔵書として存在しているのですから大したものです。なにしろ仏陀が生まれた地に、日本で印刷された経典が里帰りをしたことになるのですから。「翻訳が違うぞ」とか「よくやったなあ」とか、どんなだったのかな。ネパールでの評価はね。

 1915年帰国した河口慧海は東洋大学の教授となり、仏教の原典研究、旅行記の執筆後進の指導にあたったのです。
 昭和20年80歳で没だったそうな。

 井上円了曰く「諸学の基礎は哲学にあり。」意思なき行動は無益なのです。
 そのとおりかと思います。

 駅伝からチベットに行って、東洋大学に戻ってきました。
 今年も頑張ってブログを書きましょう。はちゃめちゃな記述で失礼しました。

 昨年書き始めて今日で187日。延べ14,543人の訪問者がいてくれて、総閲覧数31、747。
 ありがたいことです。
 

草莽の志士

2010-01-04 13:47:03 | 高知県東部人物列伝
 今日は能勢達太郎の話です。
 奈半利町の立町で医業を営み、傍ら家塾を開いて子弟を教授していた能勢魯足の子として天保10年に生まれたのです。幼い頃から父から手習いの指導を受け、14歳のときに土佐藩の藩校文武館に入り、16歳で得業生となる。大望を抱いて伊勢・大阪等で勉学につとめるのです。さらに江戸において昌平校に入っていたのですが、病を得て郷里に帰ってくるのです。病気平癒の後、勤皇派に属していたのですが、佐幕派の圧迫により意を決して脱藩。のち全国の情勢を調査して朝廷に報告するようになるも、元治元年(1864年)7月19日蛤御門の変に忠勇隊の一員となって会津等の兵と戦うも敗れて21日、自刃して果てたそうな。

 武より文のイメージが強い達太郎ですが、それだけに生き残ってほしかったのです。明治の時代まで生き残ってくれたなら、いい官僚になったであろうにと思うのです。
 有名にもならず、人知れず死んでいった草莽の志士たち。高知県東部地域にもまだまだそうした人達がいたのです。さらに注目する必要があります。

 忠勇隊はその後再編されて、中岡慎太郎が総裁になるのですから、縁がないとは残念なことです。
 清岡道之助らによる野根山屯集事件の4日前のことです。もちろん互いに知るよしもないのですが、命の価値が今ほど重くない時代だったのです。

 当時青年志士のなかで、第1の学者とされていた彼は、22歳の若さでした。

 いま、奈半利川の橋を渡った入り口付近に顕彰碑が立っています。

 

体が痛い。

2010-01-04 09:46:49 | 日記
 3日。野根山街道散策ツアーに行ってきましたよ。
 体が痛いねえ。いつもながらの最後尾。80人ほどの行列の最後尾だったのですが、今年は厳しかった。年配のおじいちゃんが参加していたのですが、気は若いのですが、足元はおぼつかなくて、すぐに小休止。なかなか進まないのです。

 途中で、林道に車を準備して乗っていただきました。なにしろ顔が青くなって心配になったからです。

 6KM歩いて昼食場所へ到着後、散らし寿司や鍋をいただきました。おいしかったですねえ。暖かい鍋はご馳走でした。

 帰りは小学4年生の男の子と一緒に下りてきました。退屈はしなかったですねえ。なかなかいい子でした。

 夕方から決まりの反省会兼飲み会。
 お酒が入ると、皆元気になっていささかうっとうしくなったものですから、早々に退散しました。
 お酒は楽しく飲まないと、作った人に失礼というものです。

 さて明日から仕事。頑張りましょう。今日は準備です。