漆喰は、古くから全国の城郭をはじめとした建築物を作るときに、特に外壁材として利用されてきたのですが、高知には土佐漆喰というものがあります。土佐漆喰は、いつ頃誰が作り始めたのか、ただの漆喰と何がどの様に違うのか、面白い記述がありますから、ご紹介します。
時代は文化年間(1804~1818)頃に四国巡礼の途中に阿波の徳右衛門が稲生(羽根村史には下田と記述)で倒れ、路頭に迷いかけたところを村民に助けられたことから、恩返しにと石灰窯の焼き方や製造方法を伝授したのだそうな。良質の石灰石が大量にあったことからそのような話になったのでしょう。
しかしながら技術を他国にもらした事で、阿波に帰る事ができなくなった徳右衛門はまた土佐に舞い戻ってくるのですが、稲生では冷遇されたことから、室戸の羽根村で住まいし、技術を伝えながら生涯を終えたそうな。
以前に土佐備長炭の製造方法を伝えた和歌山の植野蔵次氏と似たような話です。
四国88ヶ所巡りの遍路のたびは、土佐の経済にも大きな影響をもたらしたのです。
道は人だけではなく、文化も運んでいたのです。
それ以前の漆喰が石灰に海草糊と麻を混ぜてこねたものだったのですが、土佐漆喰は糊を使わないので乾いても戻りが少なく、厚塗りが出来、出来上がりのきめ細かさが特徴なのです。
今現在でも土佐漆喰や土佐備長炭は現役の地域特産物として、地域経済を支えています。
その土佐漆喰、奈半利町等の登録有形文化財にも当然のように使われております。
高知県の東部地域の気候は風雨が激しく、家を守るためには厚く塗れることが大事だったようで、1センチにも厚く塗った壁を半分近くまで圧縮して塗り固める左官の技術が求められたのです。
また水切り瓦などの工法も、土佐漆喰があったればこそ、といったところです。
良質の石灰石を土中窯でコークス・塩と共に塩焼しその石灰に腐らせて発酵させた藁スサを加え、水を加えてこね、半年程度保存して土佐漆喰となるのだそうな。
なかなかに手間隙のかかった技術の結晶なのです。
漆喰の歴史は本当に古く、原始的な物で漆喰といえるのかどうか解りませんが、そのようなものが、高松塚古墳にも使われているそうな。
時代は文化年間(1804~1818)頃に四国巡礼の途中に阿波の徳右衛門が稲生(羽根村史には下田と記述)で倒れ、路頭に迷いかけたところを村民に助けられたことから、恩返しにと石灰窯の焼き方や製造方法を伝授したのだそうな。良質の石灰石が大量にあったことからそのような話になったのでしょう。
しかしながら技術を他国にもらした事で、阿波に帰る事ができなくなった徳右衛門はまた土佐に舞い戻ってくるのですが、稲生では冷遇されたことから、室戸の羽根村で住まいし、技術を伝えながら生涯を終えたそうな。
以前に土佐備長炭の製造方法を伝えた和歌山の植野蔵次氏と似たような話です。
四国88ヶ所巡りの遍路のたびは、土佐の経済にも大きな影響をもたらしたのです。
道は人だけではなく、文化も運んでいたのです。
それ以前の漆喰が石灰に海草糊と麻を混ぜてこねたものだったのですが、土佐漆喰は糊を使わないので乾いても戻りが少なく、厚塗りが出来、出来上がりのきめ細かさが特徴なのです。
今現在でも土佐漆喰や土佐備長炭は現役の地域特産物として、地域経済を支えています。
その土佐漆喰、奈半利町等の登録有形文化財にも当然のように使われております。
高知県の東部地域の気候は風雨が激しく、家を守るためには厚く塗れることが大事だったようで、1センチにも厚く塗った壁を半分近くまで圧縮して塗り固める左官の技術が求められたのです。
また水切り瓦などの工法も、土佐漆喰があったればこそ、といったところです。
良質の石灰石を土中窯でコークス・塩と共に塩焼しその石灰に腐らせて発酵させた藁スサを加え、水を加えてこね、半年程度保存して土佐漆喰となるのだそうな。
なかなかに手間隙のかかった技術の結晶なのです。
漆喰の歴史は本当に古く、原始的な物で漆喰といえるのかどうか解りませんが、そのようなものが、高松塚古墳にも使われているそうな。