DEEP SEAα

ココロの軌跡

Beautiful Colors

百草頭上無辺ノ春

2007-05-09 | 遠い日の海(過去エントリー)
先師古仏、歳旦上堂して曰く。

元正啓祚、万物ことごとく新たなり。

伏して惟れば大衆、梅早春を開く。






春は具体的な姿を持っていない。



無限定であればこそ、すべての中に入りこみ、またすべてを包み、すべてを生かすことができる。



スミレをスミレとして地上に低く花咲かせ、梅を梅として丈高く、大空や連峰を背景として花咲かせることができる。




スミレがスミレとして花咲かせるところに春の命がおどり、柳が芽吹き、梅や桜が咲くというところに春の生命が輝くのである。




それが「百草頭上無辺ノ春」である。






これは何も梅や桜の話ではない。



無限定の「仏性」を「春」という言葉で表現し、仏性の展開として現れた一切の存在を「百草」とか「梅」という言葉で、美しく語りかけられたまでのことである。




**********





私ども一人一人、一木一草に至るまで、あますことなく本来の面目の片々として、仏性の全現成として、今ここに起き伏ししていることを忘れてはいけない、の語りかけが、
「梅早春を開く」
の一句であったのである。






青山春董師

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便り

2007-04-12 | 遠い日の海(過去エントリー)
ようやく桜の便りが届いた。


標準木ではないので開花宣言ではないが、毎年、市内で一番最初にほころぶ木が、昨日2輪程咲かせたらしい。




とてもうれしい…




今年の桜は待ち遠しかった。



私の身に‥とても大きな変化があった春だから。



とてもとても待ち遠しかった。




百花繚乱





これから順を追って、様々な花が咲き乱れるだろう。



宝石を散りばめたように一番美しい季節




とってもとっても嬉しい


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祇園枝垂桜

2007-04-11 | 遠い日の海(過去エントリー)
京都や奈良の桜をニュース番組などで見るのが、とても好き。



歴史ある美しい桜を食い入るように見つめながら、いつも溜め息をついている。




そんな桜馬鹿な私が、京都の桜と聞いて一番に頭に浮かぶのが、円山公園の枝垂れ桜。


通称、「祇園枝垂桜」



それはそれは素晴らしい桜である。



夜桜がことのほか美しく、間近で見るとその妖艶さは息を飲む程だそうである。




桜まつりの時の円山公園は物凄い人混みでごった返して、大変な騒ぎなそうだ。



かなり弱ってきている高齢の祇園枝垂桜に、夜遅い時間まで煌々とライトをあてているのが、痛々しくて見ていられないと言っていたのは、円山公園のそばで暮らしている友人である。




私の愛する石割桜もかなりの高齢なので、ライトアップはもう何年も前から止めている。


それを思うと祇園枝垂桜が可哀想でたまらない。




私が逢いに行くまでどうか元気でいてください…と、願うばかりである。




先日ニュースで祇園枝垂桜の中継をしていた。



今年の花は、まだ咲いているだろうか…… ?


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衆生本来仏なり

2007-03-05 | 遠い日の海(過去エントリー)
尊敬する尼僧の御一方である。

村瀬明道尼





庵主様を初めて存じ上げたのはいつ頃だったろうか?


辿るのも困難な程遠い記憶である。




私が庵主様をお慕いする理由のひとつに、庵主様がお作りになる精進料理の存在がある。




月心寺の精進料理は、あの吉兆でさえ唸らせる程の出来栄えであり、有名な胡麻豆腐は天下一と賞される逸品なのだ。



以前放送していたNHKの連続ドラマ「ほんまもん」の中の庵主さまは、明道庵主様がモデルとなっていたので、御存知の方もいるかもしれない。



私が精進料理にに興味を持つ事になったのは、月心寺の影響が大きい。

庵主様は体の右半身が不自由だ。



39歳の時に大変な事故に遭ったが、奇跡的に一命は取り留めた。



その時の後遺症で不自由なお身体になった。




しかしその自由の利かないお身体で、庵主様は天下一の御料理をお作りになる。







今の形の御料理になるまでにどれだけの苦労と努力があったかは、想像することさえ憚られる程だ。





庵主様の凛としたお姿が、どれだけ私を励ましたかわからない。





理解されない孤独に打ちひしがれた時、屈辱に苛まれる時、庵主様の御心に思いを馳せることによって、己を納得させてきた。


人となりを学ばせて頂いた。



同じ辛辣な思いをした庵主様でなければ、私にはダメだったのだ。




そんな仏縁を結ばせて頂いた事を、御仏に感謝をしながら歩んできた。


そして、これからも…。





生かされて過ごした、事故後2年をもう直ぐ迎える。



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祈りの場

2007-02-17 | 遠い日の海(過去エントリー)

深夜、ただひとり、私はそこに坐ることがある。灯明もつけない。月明が火燭よりも明るくさしこみ、そこは深い海底のように思われてくる。





新しく献じた香の匂いだけがしめった夜気にひろがり、木々の霊の間をす速く駆けていく。





苔も、花も、木の葉も、草も、深夜は霊の相をあらわにして、そのあたりにひしめいている。月明の夜は彼等の霊も浮かれだすのであろうか。





時折気まぐれな雲が月の面をかくし、闇が魔女のマントのようにひろがっても、私の瞑想は破られることはない。





石の声も聞こえてくる。石にも心があると石が呻く。





長く生きたと思う。生きるということは多くを傷つけることだ。他を傷つけ、他を殺し、その命を自分の血肉としなければ人は生きることが出来ないとすれば、人が生まれるということがすでに罪を負うということではないだろうか。懺悔滅罪のために、人は生きつづけるのであろうか。





この世でより、あの世の方に、すでになつかしい人の数が多くなっている。祈るとは自分を無にして常世からの彼等の声を聞くことかもしれない。





今日も祈りの時を持てることを感謝しなければならない。





小魚の頭を噛みくだき、草の根をかじり、木の若芽をもぎとって人はこの世にあるかぎり生きつづけなければならない。





地獄は遠くなく、人の生きるまわりであろう。鬼はわが心のうちに棲む。



寂聴師

 

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