四月十一日
午前八時。ドアを開けると現地人の少年が立っていた。
我々のバッグを担いで階段を降り始めた。カメラバッグのみを持ってその後に続いた。
お隣さん二人が見送り。一緒にロビー迄。
チェックアウト。
トシエとニコノスおばさん。そして連れのオヤジサン(トシエ締め出しの原因)も降りて来た。
「一緒に写真撮ろうよ」トシエがコンパクトカメラを取り出した。
閃光・閃光・閃光。
バスが到着した。・・・お隣さんが手を振った。
コロール空港。バスを降りた。雨足が強くなっていた。
荷物を降ろしてロビーへ。ピグモンが近寄って来た。空港税10$を手渡した。
椅子の数が少なかったのでアルミバッグに腰掛けた。
オバサン軍団の一人が会釈をしながら近寄って来た。
「昨日、何があったのですか?」
ことのいきさつを話した。
「そうですか、私たちはよくわからなかったので『どうしたんだろう?』とみんなで話してたんですよ」
「・・・・・・」
「私たちについていてくれたオチさん(ジャイアン)て方は本当によく気を使ってくださったのに」
「そうですよね。かれはよくやってました」
「私たちの出迎えがあの男の子だったんですよ。最初から感じが悪い子で。運転も乱暴で・・・。
こう言ってはなんですけど、こう云う処に来ている若い人は日本では務まらないような方が多いみたいですよ」
全部が全部そうではあるまいが・・・苦笑。
オバサン軍団が集まって来た。
「お願いがあるんですけど・・・」
『今度はなんだ?』
「写真、撮っておられましたね」
「はい」
「私たちパラオ迄来たのに一枚も無いのですよね」
「島で『潜るんですよ』で撮ってませんでしたか?」
「ええ、でもきっと駄目ですよ。そこで一枚でも二枚でも結構なんですが分けていただけませんか?」
「困ったな・・・」
「もちろんお金はお支払いいたします」
「そう言うことでは無く・・・フィルムがリバーサルなんですよ」
「・・・・・・?」
「スライド用のフィルムで・・・・・・プリントしないんですよ」
「・・・・・・?」
「ビデオに編集しちゃうんですよ」
「それで結構です」
「・・・分かりました。五本作ればいいんんですよね」
「一本で結構です。ダビングしますから」
「マスターテープを作ってそれをダビングして送ることになりますから。それをさらにダビングされると画質がかなり落ちますが
・・・構いませんよ。一本作るのも五本作るのも大して手間はかかりませんから」
「お願いいたします」
※リバーサルからもプリントは可能です。だがネガからのプリントよりも数倍高価であった。
また、当時の弩田舎の町ではそれを扱えるラボもありませんでした。
※オバサン軍団はディズニーランドの有る新浦安の高級スポーツクラブ会員でした。
そのクラブ内のダイビングコースでCカードを取得したとのこと。
ホストはそこのインストラクターらしい。
この空港には免税店らしきものは見当たらなかった。キヨスク程度の土産物売り場があるだけだった。
覗いてみた。めぼしいものは何もない。が、一つ二つ手に取った。裏を視た。Made in China。早々に売り場から遠ざかった。
ニコノスおばさんとオヤジさんは缶ビールをずらりと並べて酒宴。
「話、聞いたわよ。アイツはねー。本当にむかつく奴で、ここには何度か来ているけどアイツのガイドは断ることにしてるの」
「そのしわ寄せがこちらに降りかかって来た訳だ」
「あいつの父親がダイビング関係の何かで・・・それもあって偉そうにしているらしいよ」
後日、某雑誌でその父親のもっともらしい記事を読んだが・・・『ダイビングのあれこれを語る前に自分の息子の教育をしろ』
トシエがまたカメラを取り出した。
「ショウガネーナ。一緒に写ってやるよ」 ・・・『火傷しても知らないぞ』とは言わなかった。
出国。X線は無かった。フィルムに気を使わなくていいのはありがたい。
手荷物チェック。ダイビングバッグはノーチェック。機内持ち込みのカメラバッグのみオープン。例によってミニ三脚・・・。
金属探知機のゲートをくぐった。チャイム。停止命令。
サングラス・腕時計を外して再びゲートへ。チャイム。ベルトを外して漸く通過。
出国カードを渡した。後は機に乗り込むだけだった。
辰也を待った。
ゲートは無事通過。だが出国カードで引っ掛かった。
現地人の係員に早口でせめたてられている。『世話のやける奴だ』Uターン。
「入国の時に半分返して貰っただろう。それを出せばいいんだ」
「・・・・・?」
「パスポートに挟んで無かったのか?」
「捜せばあると思うのですが・・・」
「荷物を全部ひっくり返す気か?」
係員が拉致があかないと思ったのか新しいカードを取り出した。再記入させた。どうにか事なきを得た。
機へと急いだ。我々以外は既に搭乗していた。タラップを駆け上った。
席が無い。チケットを確認。我々の席は・・・二十代の日本人カップルが占領していた。
「そこは私の席のはずだが」
男の方が困った顔をしてチケットを取り出した。女の方は目を合わせようともしない。
「僕らはこの前の席なんですが・・・座っちゃってるんですよね」
そこには白人が当然のような顔をして座っていた。
あくまでも自分の権利を主張してこのカップルから席を奪おうかと思ったが。
私の連れが女性であったならたぶんそうしたかもしれないが、どうせ隣に座るのは辰也である。
グアムまで約二時間。眠って行く心算だったからどこでも座れればいい。
どうもコンチネンタル航空は、いい加減さが滲み出ている。
スチュワーデスを呼んだ。一悶着あって・・・離陸。
ヤップ島経由(機内待機・外には出られない)でグアム到着。トランジット。
免税店でお決まりのチョコレート。ワンバッグ、半ダースを買うと一箱オマケ。
アル中グループはここでもビールの缶を並べていた。
サイパン経由。やはり機内で出航を待つ。
・・・離陸して間もなく機窓からグロットが視えた。
百三段の階段を思い出した。
・・・・・・
高度が下がって来た。眼下に房総半島の灯が視えた。
・・・・・・成田空港。
無事着陸。
ほっとしたと言うのが偽らざる感想。ここから先は私に責任は無いだろう。
入国審査。荷物を受け取りキャスターに積み上げた。それを辰也が押す。
キャスターに載せきれなかった辰也の小さなバッグは私が持った。
税関へ。・・・ふと気づいたら辰也がまたいない。周囲を見廻した。
二つ隣のチェックゲートに済まして立っている。
『やられた』私の持っている辰也のバッグ。例のポルノ土産が入っていた。
バスを待つ間に妹へ電話。
「とりあえず無事帰国。そちらに着くのは十時頃かな」
代わって辰也が公衆電話に走った。(この時代まだ携帯電話は無い。ポケベルの時代)
「『いきなりぽーさんに迷惑をかけなかった?』ですよ」
「なんて答えたんだ?」
「いやぁ・・・別に」
「行方不明になったことは言わなかったのか?」
「そんなこと言ったら大変ですよ。もうダイビングなんて出来ませんよ。それからヨーコ(妹)がいたんですよ。あいつも同じことを言うんですよ」
「それで?」
「『大丈夫だ』と言ったら『今度ぽーさんに訊いてみる』と言われましたよ。いやな奴ですね」
「こと細かく、漏れることなく、じっくりと 話してやるよ」
通りの向こうでアル中達が怒鳴っている。
「何処まで行くのー?」
「とりあえず稲毛まで」
トシエが大きく手を振っていた。・・・『電話番号を教えるべきだったかなぁ?』
パラオその後
帰国してから数日後、器材メーカーの白井と電話で話していた。
「先日パラオから電話があってね・・・」
「・・・・・・?」
「『何か面白い話無い』って訊いたら・・・」
白井の友人がパラオでガイドをしていた。私たちが利用したサービスとは異なるところだ。
その友人の話によると『辰也行方不明事件』は、その翌日にはパラオ中のダイビングサービスでは知らぬところが無いほどに広がっていたらしい。
こともあろうに、あのガイドは自分の能力の拙さと責任感の欠如を棚に上げて、いいように脚色をして吹聴しているらしい。
白井は既に私の報告を訊いていたから私たちの名誉のために反論してくれたようである。
「ガイドは行方不明になったことにはまったく気づかなかった。辰也を捜し出したのは私だったと」
スチールビデオが完成した。
早速、辰也・フィジー・丸ポチャ・白井・そしてオバサン軍団に送った。
辰也と白井以外の二人以外には前作の『慶良間』をプライベート部分を除いておまけに付けて送った。
好評であった。
オバサン軍団は私がCカードを取得してから一年未満。水中写真はフィルムの消費量が十本未満であったことを信じようとはしなかった。
『本当にまだ十本撮っていないのだが・・・・・・水中では』
フィジーはあちこちで見せて廻っているらしい。それを視た友人の一人がダイバーになるべく講習に出かけたと報告を受けた。
また重症のシーシックネス患者が一人増えそうだ。
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シーシックネス (seasickness)
1:船酔い
2:海に魅せられた状態。重症の場合は四六時中それを思い浮かべ仕事も手につかなくなる。
予防法および治療法
1: A 薬品の服用 B それ用の器具の装着 C 頻繁に乗船してなれる。
2: 無し。だが、突然憑き物が落ちるように感知することがある。
しかし、多くは底知れぬ深淵に落ち込む。
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※ 2:は英和辞典をいくらくまなく捜しても載っていない。念のため。
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ベテランぶって記してましたがCカードを取得したのは1992年(いずれCカード取得辺を)です。
海外でのダイビングはサイパン以来二度目。総本数は漸く20本を越えたところでした。
ただし、海歴は、かなり長いです。別のカテゴリーで・・・いずれはその辺を。
翌年の続 パラオ へと つ づ く