おせんべいにかぶりつくような快感で内田先生の本、
読んでます。
「そうそう、そうなのよ!」
と思いながら。
ときどき、読めない漢字やわからない単語も出てくるんだけど
かつて、不登校の子どもたちのところへ、家庭教師という名目で
訪れては話し相手(?)になるというようなことをしていたことが
あるのだけれど、内田先生のおっしゃる「不快という貨幣」には
大きくうなづくところがある。
家のなかで、いっとう先に
「不快じゃ」「大変なの」
と感じたもの勝ち、みたいなこと。
こんなやりとりでも。
「頭が痛い」
と夫。
「あら、大変」
と妻が言ったとたんに、妻は何かお世話しなくてはならなくなる
でも
「あたしも頭痛」
って言うと、何もしなくてもすむ理由が出来る。
そうすると、
「不健康であることがお世話をしなくていい理由」
となり、健康な人も「元気です!」とは言わなくなる…
仕事場でもそう。
「仕事が楽しい」
なんて言ったら、
「好きなんでしょ」
って、あれこれあれこれ押し付けられる。
「あ~、大変だ」
と言ったもん勝ち、みたいな。
いつのまに、こういうのが普通になったんだろう?
「ムリしないことがいいことだ」
みたいに言い続けたカウンセラーたちのせい? だったらどうしよ…
読んでます。
「そうそう、そうなのよ!」
と思いながら。
ときどき、読めない漢字やわからない単語も出てくるんだけど
かつて、不登校の子どもたちのところへ、家庭教師という名目で
訪れては話し相手(?)になるというようなことをしていたことが
あるのだけれど、内田先生のおっしゃる「不快という貨幣」には
大きくうなづくところがある。
家のなかで、いっとう先に
「不快じゃ」「大変なの」
と感じたもの勝ち、みたいなこと。
こんなやりとりでも。
「頭が痛い」
と夫。
「あら、大変」
と妻が言ったとたんに、妻は何かお世話しなくてはならなくなる
でも
「あたしも頭痛」
って言うと、何もしなくてもすむ理由が出来る。
そうすると、
「不健康であることがお世話をしなくていい理由」
となり、健康な人も「元気です!」とは言わなくなる…
仕事場でもそう。
「仕事が楽しい」
なんて言ったら、
「好きなんでしょ」
って、あれこれあれこれ押し付けられる。
「あ~、大変だ」
と言ったもん勝ち、みたいな。
いつのまに、こういうのが普通になったんだろう?
「ムリしないことがいいことだ」
みたいに言い続けたカウンセラーたちのせい? だったらどうしよ…