振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

鉄砲の里、国友の村

2018-11-01 19:59:35 | 旅行
現在は長浜市に属する国友町だが、鉄砲の里の集落は姉川によってつくられた広い平野の水田地帯の中にあり、今でも村と呼ぶのがふさわしく思える。

現役時代の同期入社の仲間の集いが長浜であり、その翌日に行ってみた。集落の脇には姉川が流れ、3km上流には織田軍と浅井朝倉連合軍が戦った姉川合戦場があり、6km北方には浅井氏の居城のあった小谷山もあり、周辺には何度か来たことがあるが国友の里は初めてだ。

目指したのは国友鉄砲の里資料館。平日の朝10時頃だが、他に来場者はなかった。



建物の庭に司馬遼太郎の「街道をゆく」の一文が石碑にされていた。



職人の一人が鉄砲の尾栓の造り方を思いついた一幕が述べられているが、鉄砲を造り始める以前から創造力に富んだ鍛冶職人の一群がいたことが想像される。

ポルトガル人によってもたらされた鉄砲の一つが種子島の領主、、足利将軍、そして北近江の守護京極氏を経て国友の鍛冶集団に持ち込まれたようだ。恐らくサンプルの分解で尾栓の構造はわかったが、当初はそのネジの加工方法がわからなかったに違いないが、大根で試したところが興味深い。

館内には大筒を含めて沢山の展示品以外に、実物を持ってみることのできるコーナーもあった。









火縄銃の構造や製造工程などの展示と共に、鍛冶場も再現されていた。



鉄砲の材料となる鉄はどこから調達していたのか興味があったので資料館のスタッフの方に尋ねると、奥出雲のたたら鉄だそうだ。当初は船で敦賀まで運び、陸路で湖北まで運んだ後に再び船で運びこまれたが、陸路の山越えが難渋したようで後には西回り航路で大坂を経由して、淀川~宇治川~瀬田川~琵琶湖と水路で運ばれたそうだ。

鉄砲鍛冶が始まる以前から国友には鉄鍛冶産業があり刀剣や農具などを生産していたはずだが、恐らく国友の東にある伊吹山麓あたりでたたら製鉄が行われていたのだろう。近くに金糞岳と言う山もある。砂鉄なのか鉄鉱石かわからないが採掘し尽くしたのか、良質な物が採れなかったか、いずれにしても何時の時期かに他所から鉄材を仕入れるようになったのだろう。

また、鍛冶職人については刀剣で名高い美濃の関から来た者たちもいたのではとの資料館スタッフの話。

戦国時代から江戸時代初期までの最盛期には国友集落に数十軒の鉄砲製作に携わる家があったようで、現在も往時の繁栄がしのばれるような家屋が残っている。家のまえには当時の鉄砲鍛冶の名前を刻んだ石碑が建ててある。





資料館前の側溝の蓋に描かれた鉄砲のイラストが気に入った。