立川志の輔の噺、「帯久」(おびきゅう)によると。
日本橋本町三丁目に呉服屋和泉屋与兵衛が住んでいた。
隣町本町二丁目に帯屋久七が住んでいた。
和泉屋与兵衛さんは大変繁盛していて篤志家であったが、帯屋さんは陰気で売れなかったので、世間では”売れず屋”と呼んでいた。
帯屋さんは3月ごろ和泉屋さんの所に無心に来て、20両の金を借りた。
与兵衛は証文無しで期限も定めずに貸したが、20日程しないのにきちんと完済した。
5月には30両、7月には50両、9月には70両、と借りたがやはり20日ほどで返した。
11月には100両貸したがその月には返済がなかった。
12月大晦日、多忙な時に返しに来たが、久七と100両を残したまま、与兵衛はすぐ出掛けてしまった。
その金100両を盗んで久七は帰ってしまった。
店中探したが当然無かった。
ところが、帯屋はこの金を元手に大繁盛。
一方和泉屋は一人娘と妻を相次いで亡くして、享保6年12月10日神田三河町から出た大火事で本町三丁目まで焼け、全てを無くし気力を無くして床につくようになった。
番頭の武兵衛が分家をして和泉屋と名乗っていたが、こちらも落ちぶれて日雇いになっていた。
それでも主人を引き取って介抱し、アッという間に10年が経ってしまった。
快復した与兵衛は還暦を迎えていた。
与兵衛は番頭の武兵衛に店を持たせようと、帯屋久七に金を借りに行ったが、悪態を付かれて店先に放り出されてしまった。
帰る意欲もなくして、帯屋の裏に回ると離れを普請していた。
そのカンナっくずにキセルを叩いた火玉が燃え移り煙が上がった。
放火の罪で町方に捕まってしまった。
役人が自身番で話を聞くと、篤志家の与兵衛のことは良く知っており、窮状に同情、不問にした上1両の金をみんなで出し合って家に返してやった。
これを聞いて激怒した久七の方では、今回のことが元で100両の一件が露見しては、と火付けの罪で与兵衛を訴えた。
大岡越前守はそれぞれの様子から全てを見抜いたが、現行犯でもあり免罪する事は出来なかった。与兵衛に火あぶりの刑を申し渡した。
そこで、久七に、「100両を返しに来たが主人が出掛けたので、間違いがあってはと持ち帰ったのを忘れたのではないか」と優しく尋ねる。
帯久があくまでも白を切るので、人指し指と中指を結び、「これは忘れたものを思い出すおまじないだ。
勝手に解いてはならんぞ。
解いたら死罪、家財没収。」と言い渡した。
帯久は指が使えないのでにぎり飯しか食えず、眠れず、とうとう3日目に確かに持ち帰って、忘れていましたと申し出た。
100両を返す。奉行は利子として、年に15両、10年で150両を支払うよう命じる。
ただし100両は棚上げし50両だけをどの様に返すのか聞くと、帯久はケチって年賦として毎年1両ずつ返却するという許しを得、証文を作った。
これで損はないとほくそ笑む帯久。
火付けの与兵衛には火あぶりの刑の判決であるが、ただし50両の残金を全て受け取ってからの執行とのお裁き。
驚いた帯久がそれなら今50両出すと言ったが、越前にどなりつけられ渋々納得する。
「与兵衛、その方何歳になる?」
「六十一でございます」
「還暦か・・・めでたいの~」
「還暦の祝いにこのうえない見事なお裁き、有り難うございます」
「見事と言うほどではないのだ、相手が帯屋だから少々きつめに締め上げておいた」。
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