法座4日目が、終わったところです
ご講師は、藤田徹文先生です。
「目覚めの教え」という講題で、お話いただいています。
先生のお話、ものすごいデス・・・
ひと言ひと言。じわぁぁぁぁぁっと、しみこんできます。
毎日ひと言たりと、聞きもらしたくないと
録音しながら必死にメモをとりつつ
法のシャワーをいただく。
先生は眼底出血で、階段の段もわからないほど
目が見えておられない、、、。
けれど。そんなことを微塵も感じさせない
素晴らしすぎるご法話・・・。
せっかくなので。コラムを読んで下さる皆さんにも
先生のご法話のメモを、ちょっとお届け
この世のあらゆるものは、繋がっている。
分別で「他」を切って、線を引くと
枠ができて、一人になる。
「他」とは、他人、自分と関係ないもの、ではなく。
「他」によって、わたしが成り立っている
「他」によって、わたしが存在している
わたしを、わたしたらしめるもの。
利他のところに、自利がある。
数字→わかったつもりになるが、真実と遠く抽象的。
真実に近いものは、黙って笑顔。
その次に近いのが、名前を呼ぶ事。その次に物語。
わたしに見えない、わたしの思いが及ばないところに、
大きなはたらきがある=他力
流れて転んで人生を終えることほど、悲しいことはない。
迷いのまま命を終えることは、仏教における一番の哀れ。
幸せとは何か?の前に、不幸から抜け出す。
生死流転(迷い)より出づる。
生死流転とは、いま煩悩に引きずられていることに
気づかずに生きていること。「いま」の話。
すべての人が等しく生死を出づる道は
阿弥陀様のはたらきかけを、いただいていく道。
この身がどこにあろうと、この身は法の中にある。
仏教とは、絶対者にすがって
自分の叶わない事を、祈って叶えてもらうのではない
法の方から目覚めよ、目覚めよ=仏教
(すべての人が目を覚ませ=大行)
手を合わそうと合わすまいと、祈ろうと祈らまいと
もう既に法の中にいる
デカルトの→我思うが故に我あり、の様に表現すると
☆☆ 法あるが故に我が命あり
線を引いて、我にとらわれ
我が「身」をふさぐから、法の中にあっても目覚めない
我執の殻を破って、法に出遇う。
小さなとらわれを捨てて、気づく。
自力の反対語が、他力ではない。
100%自力、はない。
自力とは、法のはたらき99,9だけど
自分の努力0,1を認めて欲しいというもの。
仏教=法に生かされている
100%他力=浄土真宗。何もかも、お陰様そのもの
子が、お母さんと呼ぶようになるのは
呼ばせる親のはたらきが、その前にあるから。
親の愛が届いて、名前を呼ぶようになる。
親の命に触れたら、親の名を呼ばずにはおられない
用がなくても、お母さんと呼ばずにおられない
いただいた、この命を、今どう生きるか
しっかりとこの人生を見つめて生きよう
しっかりしたものの上に立って、生きる。
以上、この4日間の、徹文先生ご法話のメモです。
ご法話をお聴聞させていただいて
本当にしあわせです、、、。
このしあわせを、みなさんの元へ・・・
ご講師は、藤田徹文先生です。
「目覚めの教え」という講題で、お話いただいています。
先生のお話、ものすごいデス・・・
ひと言ひと言。じわぁぁぁぁぁっと、しみこんできます。
毎日ひと言たりと、聞きもらしたくないと
録音しながら必死にメモをとりつつ
法のシャワーをいただく。
先生は眼底出血で、階段の段もわからないほど
目が見えておられない、、、。
けれど。そんなことを微塵も感じさせない
素晴らしすぎるご法話・・・。
せっかくなので。コラムを読んで下さる皆さんにも
先生のご法話のメモを、ちょっとお届け
この世のあらゆるものは、繋がっている。
分別で「他」を切って、線を引くと
枠ができて、一人になる。
「他」とは、他人、自分と関係ないもの、ではなく。
「他」によって、わたしが成り立っている
「他」によって、わたしが存在している
わたしを、わたしたらしめるもの。
利他のところに、自利がある。
数字→わかったつもりになるが、真実と遠く抽象的。
真実に近いものは、黙って笑顔。
その次に近いのが、名前を呼ぶ事。その次に物語。
わたしに見えない、わたしの思いが及ばないところに、
大きなはたらきがある=他力
流れて転んで人生を終えることほど、悲しいことはない。
迷いのまま命を終えることは、仏教における一番の哀れ。
幸せとは何か?の前に、不幸から抜け出す。
生死流転(迷い)より出づる。
生死流転とは、いま煩悩に引きずられていることに
気づかずに生きていること。「いま」の話。
すべての人が等しく生死を出づる道は
阿弥陀様のはたらきかけを、いただいていく道。
この身がどこにあろうと、この身は法の中にある。
仏教とは、絶対者にすがって
自分の叶わない事を、祈って叶えてもらうのではない
法の方から目覚めよ、目覚めよ=仏教
(すべての人が目を覚ませ=大行)
手を合わそうと合わすまいと、祈ろうと祈らまいと
もう既に法の中にいる
デカルトの→我思うが故に我あり、の様に表現すると
☆☆ 法あるが故に我が命あり
線を引いて、我にとらわれ
我が「身」をふさぐから、法の中にあっても目覚めない
我執の殻を破って、法に出遇う。
小さなとらわれを捨てて、気づく。
自力の反対語が、他力ではない。
100%自力、はない。
自力とは、法のはたらき99,9だけど
自分の努力0,1を認めて欲しいというもの。
仏教=法に生かされている
100%他力=浄土真宗。何もかも、お陰様そのもの
子が、お母さんと呼ぶようになるのは
呼ばせる親のはたらきが、その前にあるから。
親の愛が届いて、名前を呼ぶようになる。
親の命に触れたら、親の名を呼ばずにはおられない
用がなくても、お母さんと呼ばずにおられない
いただいた、この命を、今どう生きるか
しっかりとこの人生を見つめて生きよう
しっかりしたものの上に立って、生きる。
以上、この4日間の、徹文先生ご法話のメモです。
ご法話をお聴聞させていただいて
本当にしあわせです、、、。
このしあわせを、みなさんの元へ・・・
なんでーーメモがんばったんやよぉ
ペンギンのアドレス、わからんくなったから
教えてちょ。若院が見たがっとるわぁ~☆
ここには掲載できんやろううし
携帯にでも送ってーー
5日間、おつかれさまでした。
大変お忙しかったご様子。
同時に、かけがえのないお時間も過ごされたようですね。
「『他』によって、わたしが成り立っている
『他』によって、わたしが存在している」
というお言葉。心に沁みいる言葉ですね。
そして、
「いただいた、この命を、今どう生きるか
しっかりとこの人生を見つめて生きよう
しっかりしたものの上に立って、生きる。」
ただ命を存えるのではなく、
目覚めて「生きる」ことの大切さを
あらためて想います。
今朝、目が覚めてブログを拝見させて頂いて、
今、あらためて目が覚めました!
貴重なご法話の素晴らしいお言葉を
お伝え頂いてありがとうございました!!
ひささん、こんばんは!
はい、忙しくも充実していました
いま。いのちの繋がり、
しみじみ「ご縁」の喜びを噛みしめています☆
たくさんの命が繋がってきた中で
生かされて、存在していて。
それに気づかないことで、
人は一人になってしまうのですねぇ、、。
ひとりじゃない=目覚め
この喜びが、どんどん広がっていったら
いいなぁ~と思います
ひささん、ありがとうございます!!