遠藤周作さん『沈黙』を
読んで、琴線に触れた箇所を
5つ抜粋してみます。これから
読まれる方、ご注意ですm(__)m
P51、L12『人間とは妙なもので
他人はともかく自己だけは
どんな危険からも免れると
心の何処かで考えているみたいです。』
P135、L10
『罪は、普通考えられるように、
盗んだり、嘘言(うそ)をついたり
することではなかった。
罪とは人がもう一人の人間の
人生の上を通過しながら、
自分がそこに残した痕跡を
忘れることだった。』
P187、L7『彼が混乱しているのは
突然起った事件のことではなかった。
理解できないのは、この中庭の
静かさと、蝉の声、蠅の羽音だった。
一人の人間が死んだというのに、
外界はまるでそんなことがなかった
ように、先程と同じ営みを続けている。』
P236、L6
『~日本人は人間を超えた存在を
考える力も持っていない。』
P262、L10『では、お前は祈るがいい。
あの信徒たちは今、お前などか知らぬ
耐えがたい苦痛を味わっているのだ。
昨日から。さっきも。今、この時も。
なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか。
それなのにお前は何もしてやれぬ。
神も何もせぬではないか。』
2つめの
> 一人の人間が死んだというのに、
>外界はまるでそんなことが
>なかったように、先程と同じ営みを
>続けている。
そして、5つめの
苦痛を味わっている者を
人も神も仏も、救う事が
出来ないではないか?という所。
ここは宗教心の『核』
であると、わたしは想像します。
父が亡くなった時や
東日本大震災の時など
わたしも、同じ事を感じました。
何事もなかったように
時は続く・・(違和感に近いもの)
きっと、世間一般的な感覚でも
この様に思われているのでは
と思います。
これは「疑いのこころ」
でありながら
「信じたい」
「信じさせてもらいたい」
「救われたい」
という強い思いが
隠されているのではと思います。
お念仏の世界では
人間の側に、金剛心はなく
信心とは
「仏様からのいただきもの」です。
また、
人間の理解の
範疇にあるものは
それだけのものでしかなく
実体があったり、
人間に掴みきれる様なものは
すべて無常、
まことではないと思います。
苦の解決は
苦を苦であると受けとめる事だと
お釈迦様は言われました。
人間の思議を超えた、
智慧の世界です。。(@_@)
そしてやっぱり、私にとって
親鸞聖人の教えは唯一無二で
どうあっても、抱きとめて下さる
阿弥陀様に掬って頂くしか
生きる術のない
死んでゆける術のない
自分であること
改めて感じさせられました。
まとまらなくて、すみません(-_-;)