病んで光よりも早いものを知った
病んで金剛石よりも固いものを知った
病んで花よりも美しいものを知った
病んで海よりも遠い過去を知った
病んでまたその海よりも遠い未来を知った
病は金剛石よりも十倍も固い金剛石なのだ
病は花よりも百倍も華麗な花なのだ
病は光よりも千倍も早い光なのだ
病はおそらく一千億光年以上の
ひとつの宇宙なのだ
きょう。若院が法話で、ひとつの詩を読んでくれた。
『観無量寿経を読む―霊山勝海・著』より
結核を患った方の、詩だそうだ。
病や苦しみは消えないが、
わたしのそばを決して離れないものに
出あっておられると、若院は言う。
わたしは思う。この詩の作者は、
苦であるはずの病から
人生の素晴らしさを、知らされている。
そしてこの詩は、教えてくれる。
無駄なものは、何ひとつ存在しないことを。
病んで金剛石よりも固いものを知った
病んで花よりも美しいものを知った
病んで海よりも遠い過去を知った
病んでまたその海よりも遠い未来を知った
病は金剛石よりも十倍も固い金剛石なのだ
病は花よりも百倍も華麗な花なのだ
病は光よりも千倍も早い光なのだ
病はおそらく一千億光年以上の
ひとつの宇宙なのだ
きょう。若院が法話で、ひとつの詩を読んでくれた。
『観無量寿経を読む―霊山勝海・著』より
結核を患った方の、詩だそうだ。
病や苦しみは消えないが、
わたしのそばを決して離れないものに
出あっておられると、若院は言う。
わたしは思う。この詩の作者は、
苦であるはずの病から
人生の素晴らしさを、知らされている。
そしてこの詩は、教えてくれる。
無駄なものは、何ひとつ存在しないことを。
とても素晴らしい詩ですね。
その詩を選んで朗読し、
その詩から大切なことを伝えようとする若院さん。
その詩を聴いて、
その詩が知らせようとするものを考えるまゆらさん。
そのおふたりもとても素晴らしい!
「無駄なものは、何ひとつ存在しない」
まさにそう思います。
病気をはじめ、辛いこと、苦しいことは
人を苦しめます。
でも、まゆらさんが書かれたように、
「苦であるはずの病から
人生の素晴らしさを、知らされている。」
と気づいた途端、人は楽になるのだと思います。
そう思えてはじめて、「無駄ではない」と言えるのでは…
今日のブログで紹介された詩で、
自分も教えられた気がしました。
ありがとうございました!
ひささん、おはようございます!
今朝も肌寒くて、だんだん季節が、移り変わっていきますネ。昔は暑いのはダメでも、寒いのは全然平気でした。でも、寒いのも体にこたえるようになってきた気がします、、。
紹介させていただいた詩ですが、本当になんとも言えない素晴らしさですね。
この詩の作者の研ぎ澄まされた感覚に、、、わたし自身、なれるものではないだけに、深く心に刺さりました。
この方は結核だからと、人事のように思ってしまいそうですが。わたし達、みんなのことです。
生まれた限り、病い・辛さ・苦しみを、避けて行かれる人は、誰ひとりいないので、、。
本当に、教えられる詩ですね、、。
ひささんのコメントからも、いつも大切なことを教えて頂いています!本当にありがとうございます!!
生きてゆくということは、その借りを返していくこと。
誰かに借りたら、誰かにそうしてもらったように、
誰かにそうしてあげよう。
生きていくということは、誰かと手をつなぐということ、
つないだ手のぬくもりを忘れないでいること。
めぐり会い、愛しあい、やがて別れの時、
その時を悔やまないように、今日を生きよう。
人は、一人では生きていけない。
誰も、一人では歩いてゆけない。
永六輔さんの詩です。まだ22歳で、友達を亡くした時、生きていくことや死ぬことをいろいろ考えていた時に、見つけた言葉です。
病気にならないですむなら、ならないほうがいいに決まってる。でも、家族や身近に病気の人がいれば、健康であることに感謝したり、命に終わりがあることを感じたりする。病気になって、改めて考えることもあると思う。親しい人との別れは、つらく、悲しいけれど、そこから何かを得られたら、その人との別れは、無駄じゃないとも思えるし。本当に、『人生、無駄なことは何ひとつない』って思う。
人や、自然や、いろんなものに触れた時、何かを感じられる、考えられる人でありたい。
いろんなことを考え、感受性豊かなまゆらちゃんの隣りにいつもいる若院さん、私、スゴイ!
う~~ん、素晴らしい詩ですね。
「病」という文字が本来の意味から遠く離れて、まるで「楽園に遊んでいる」ような錯覚さえ覚えます。
でも、本来苦しい辛い病の中にいながら、このような豊かな夢のある言葉をつむぎだせる、作者の方の広い心と前向きな想像力に心を打たれます。
幸せな環境にいながら、不幸だと感じる人。
病の床にありながら、幸せと隣り合っている人。
いろいろ考えさせられます。
そして、幸せとは、心の充足感とは、自分の中(心あるいは頭)に眠っている何かに気づいたとき、誰にでもやってくる状態であり・・・特別なものではないのかもしれないなぁ・・・などと考えています☆☆☆
まゆらさんのブログ、ひささんのコメントともに、「なるほど!」と、とても共感しています。朝から、私自身、幸せのエネルギーに満ちてきました!
ありがとうございます♪
ありがとうございます!!お返事が遅くなってしまって、ごめんなさい・・・☆
>りえちゃん
永六輔さんの詩、心にしみるねぇ、、。不思議と、詩の言葉や、ふとした時の誰かのひと言に、助けられたりするところがあるね。
りえちゃんが、気に入った文章をコピーして、手紙に同封してくれていたのを覚えています。あれも、わたしの心の支えでした。
いろんな「苦」とは無縁でありたいと思うのが人間心理なんだけど、友人の死・家族の病気など、身近な人からのご縁を通して、いろんなことを考えさせられるね、、。
わたしも、いつも、いろんな人との出会い・出来事から、考えさせられてばかりで。
向き合うことは大変なんだけど、向き合うことで初めて見える光もあって。
これからも、向き合って考えさせられて・・・を、
エンドレスに繰り返していきたいなと、思います☆
>minさん
楽園に遊んでいるかのような、すごい表現ですね!何か強く共感させられます。
前にも書いたかもしれないんですけど、、
病で亡くなっていかれた、ある方が「怒りや悲しみの感情でさえ愛しい」という言葉を遺されたそうです。
だから、この詩の作者もきっと、病をご縁に、その瞬間の「生」と、生死をも包む「何か」に出あわれた『よろこび』を表現しておられるのかもしれませんね、、。
わたしも同じく思います。幸せか不幸せかは、やっぱり、その本人が決めているものだと思いますね!
特別な何かが、どこかからやって来るんじゃなくて、いまある奇跡に、いかに気づくことができるか、、。
わたしも人事ではなく、自身、肝に銘じて日々を過ごしたいものです。笑。