さっき、茂木さんのクオリア日記を
http://www.kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/
とても興味深く読ませていただいた。
うちの今年の年賀状は
ピカソの闘牛の絵に、イタズラした様なものだった
茂木さんは日記に、著書『脳のなかの文学』より
闘牛の話を載せておられた。
わたし自身。2年前の春、マドリッドの闘牛場の座席で
30分待った後→雨天中止となり、ひどく落ち込んだ事を思い出した
茂木さんの思い出と、わたし自身の思い出が
ぐるぐると頭の中を巡りながら、いろんなことを思った。
意識と縁と。
茂木さんの日記の中に、目を引く言葉があった。
『生への転換』
転じるということ。これが心を打つ。
まさに、お念仏の要である。
罪悪生死の凡夫である私が
阿弥陀様のはたらきによって、転じられて
あるがままに救われていくということ。
死んでゆくのではなくて、
浄土に「生まれていく命」へと、転じられること。
『転じられる』ということ。
自分にとって悪いことも、この罪悪そのものである自分も
罪悪の氷が大きいほどに、光に照らされて溶けると
よりたくさんの、浄土の水となるのだということ。
悪を切り捨て、悪を消したら、よい日々が送れる
そんな教えに、惑わされることがなくなる。
悪を切り捨てるのならば、真っ先に切り捨てられて然るべきは
「このわたし」だ。
酸いも甘いも含めて、すべてが尊いと
ここにいる罪悪のわたしをこそ
願っていて下さる「いのち」がある。
その「いのち」「阿弥陀様」のはたらき、まさに『転』である
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とても興味深く読ませていただいた。
うちの今年の年賀状は
ピカソの闘牛の絵に、イタズラした様なものだった
茂木さんは日記に、著書『脳のなかの文学』より
闘牛の話を載せておられた。
わたし自身。2年前の春、マドリッドの闘牛場の座席で
30分待った後→雨天中止となり、ひどく落ち込んだ事を思い出した
茂木さんの思い出と、わたし自身の思い出が
ぐるぐると頭の中を巡りながら、いろんなことを思った。
意識と縁と。
茂木さんの日記の中に、目を引く言葉があった。
『生への転換』
転じるということ。これが心を打つ。
まさに、お念仏の要である。
罪悪生死の凡夫である私が
阿弥陀様のはたらきによって、転じられて
あるがままに救われていくということ。
死んでゆくのではなくて、
浄土に「生まれていく命」へと、転じられること。
『転じられる』ということ。
自分にとって悪いことも、この罪悪そのものである自分も
罪悪の氷が大きいほどに、光に照らされて溶けると
よりたくさんの、浄土の水となるのだということ。
悪を切り捨て、悪を消したら、よい日々が送れる
そんな教えに、惑わされることがなくなる。
悪を切り捨てるのならば、真っ先に切り捨てられて然るべきは
「このわたし」だ。
酸いも甘いも含めて、すべてが尊いと
ここにいる罪悪のわたしをこそ
願っていて下さる「いのち」がある。
その「いのち」「阿弥陀様」のはたらき、まさに『転』である
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