今日の女王サマ

映画、本、音楽、お出かけ、思ったことなどズラズラ書き連ねています。

お題「朝は何時に起きますか?」

2006年01月17日 | twitter連携企画
早出の時は2通りあります。まず6時出のときは3時15分起床。そして7時出のときは4時15分です。

だいたい家を出る2時間前には起床するようにしていますが、早出のときは朝食の時間がないので30分短くなっています。
そんなに早く起きて何をしているのか。朝刊に目を通し、メールチェックをし、シャワーを使います(冬でも)。

午後出のときは好きな時間に起きます。6時半か7時には目を覚ましますが、その時々で起き上がる時間は違います。早出のときは目覚まし時計で無理やり起きるので、午後出のときは自然に目が覚めるまで寝ていますね。

お墓探し

2006年01月15日 | 家族
【1月14日】

やれやれやっと葬儀が終わった・・・とのんびりもしていられないのです。
わが家にはお墓がないのですから。

祖父母と伯父や叔父の入ったお墓は熊本にありますが、父は三男坊なので、こちらで新しくお墓を建てることにしました。

弟のいる伊勢原がいいか、実家に近い成田にするかと迷いましたが、タイミングよく朝刊に成田メモリアルパークのチラシが入っていて、みんなで「これはオヤジがここにしろと言っているのかも知れない」などと勝手な理由をつけて半分お祭騒ぎです(笑)。

私と弟、母が揃うことはあまりないので早速現地に見に行ってみることにしました。そう、あの大雨の土曜日です。

芝地で洋式の墓石がいいな、と弟は事前に言っていたのですが、実際に見てみると芝地は初期費用は安いけどランニングコストがかかるんですね。それに冬は芝が枯れて寂しげです。
で、芝地はやめて一般的な墓所、さらにちょいと広めの場所から2区画を買うことにしました。

まだ仮契約ですが、恐らくこれで決まりでしょう。弟は通夜、葬儀、お墓と、この一週間で8百万ほどの出費です。
ひと段落した弟に「あんたも大変だねぇ」と言ったら「僕、長男だから」とケロッとしていました。

弟は実は長男ではありません。戸籍上は二男なんです。私たちには兄がいて、生後4日で亡くなったので顔も知りませんが、両親にとっては初めての男の子だったので出生届を既に出していたんですね。昔は自宅出産が多く、衛生面では良好といえなかった。お臍から入った破傷風菌で命を落とすということも珍しいことではなかったようです。

今回、お墓を建てることで、熊本にあるこの兄のお骨もこちらに移そうかと言う話が出ています。法名もついていないので葬儀でお世話になったご住職にお願いすることも考えているようです。
母は「ジイさまも一人でいるより、一緒のほうがいいやろ」と言っていました。

葬儀もお墓選びも終わり、私と弟たちはまた仕事に戻らなければなりません。
いっぺんに全員で帰ると母が寂しがるだろうということで、土曜日の夜に私がまず東京へ戻ることにしました。
「こんな大雨のときに帰らなくても」と母は言い、私も日曜の朝にしようかなとも思いましたが潔く帰ることにしました。

玄関で見送ってくれる母と弟のうしろに父の姿が見えたような気がしたのは、もちろん錯覚でしょう。

告別式

2006年01月15日 | 家族

【1月13日】

告別式は12時から。最初の弔問客は式の始まる30分前に来ました。私の小学校中学校の同級生だった男性です。市会議員をしているので情報をキャッチするのが早かったのですが、一般の弔問客が来る前にサッと済ませて帰ったのは気配りからなのでしょう。
             
九州の親戚には知らせていませんので、当方の親族は一人も来ませんが、義妹の方の親族がたくさん来てくれました。義妹は大田区の出身。海苔で有名なある会社の一族です。

この日はとても寒く、告別式に来ていただくのも気の毒なくらいでした。

告別式と初七日法要が終わり、お棺の蓋を開け、祭壇にあった花で遺体のまわりを飾ります。団子といっぱい飯を足元に納め最後のお別れ。顔を触ると冷凍食品のような冷たさでしたが、意外に柔らかく、愛しさで胸がいっぱいでした。できることなら抱きしめたかったぐらいです。このときも母は最後まで目いっぱい顔を触りまくっていました。

そして、一人ずつクギ打ちをしたあと、火葬場へ向かいます。

どんよりとした空は今にも雨が落ちてきそう。父は家族のなかでも最強の雨男だったんです。

斎場まで車で15分ほど。到着すると弟と甥(この甥が高2なのによく頑張ってくれました)の手を借りて棺を釜に運びます。焼けるまで1時間から2時間はかかるということなので、親族と住職は控え室に移って待ちます。

このご住職さんは、お寺を継ぐまでは日本橋の会社に勤めていたという経歴があり、そのせいか腰がとても軽く、親族の少ない私たちに代わって弔問客にお酌をして回ってくれたりととてもありがたい心配りをしてくださいました。

1時間ほどして「○○様、終了いたしました」と放送で呼び出されます。太ももと背中の骨はしっかりとした形を残していました。親族での確認が終わると、係の人が骨を集めてくれて、最初に私と弟が一緒に骨を拾い骨壷に納めました。このあとは順番に少しずつ納めると後はまとめてザーッという感じで入れておしまいです。母は父のベルトと眼鏡を持参して骨壷に一緒に納めました。

帰りはお骨を持つ甥、写真を持つ母、位牌を持つ私が弟の運転する車に乗り、義妹と姪、他の親族はご近所さんの車に分乗して葬祭会場に戻ってきました。入り口に置かれた塩と水で手を清め精進落としの軽い食事をします。

遺体があるうちはなかなか思い切れませんでしたが、焼けて骨になってしまうと諦めがついてサッパリしました。不思議なもんですねぇ。

1月13日は父の誕生日。生きていればこの日で82歳でした。


通夜

2006年01月15日 | 家族
【1月12日】

午後4時ごろ棺の運び出しに葬儀社の車が来ました。

前日、布団から棺に移すとき、全員で足袋を履かせ、手甲・脚絆をつけ、頭陀袋(ずだぶくろ)に六文銭(三途の川の渡し賃)を入れ、杖と共に父に持たせました。今まで寝ていた布団はどうなさいますか?と聞かれたので、よそ様ではどうなんでしょうと聞き返したら、お棺に移した後は葬儀社に引き取ってもらうところが多いということだったので、他家に倣いわが家も引き取ってもらいました。

通夜は、最近できた葬祭会場「ハナホール」で営まれます。私たちも支度をし、弟の車でなく父の車に無理やり6人乗って、定員オーバーなので「警察の車はいないか」と心配しながら(笑)「ハナホール」まで向かいました。
宗派は浄土真宗なので南無阿弥陀仏です。

義妹の弟が茨城から駆けつけてくれました。
父の法名(浄土真宗は戒名ではなく法名)は「釋(しゃく)正幹」。私の祖父も祖母も「釋」が付いています。祖母には「尼」も付いていますが。

お経は30分ほど続き、その間、母をはじめとして私たち親族一同、涙涙でした。

通夜が終わって簡単なお清めの食事をしたあと、私と母は夜通しお線香を絶やさないためにハナホールに宿泊。お線香といっても、今は火事の心配もあるので蚊取り線香のような渦巻き型で10時間ほど燃え続けるものがあるようです。

この宿泊室、棺を置いた部屋の隣が8畳間になっていて、テレビ、冷蔵庫、エアコン、清潔な布団、ユニットバスが付いていて快適そのものでした。

昨日から何度も見た父の顔ですが、最初少し開いていた口も今はしっかり閉じられていて、今更ながら亡くなったのが本当のことと思えません。母は就寝前、かなり長いこと父の顔を覗き込んでいました。

葬儀社との打ち合わせ

2006年01月15日 | 家族
【1月11日】

酸素マスクを外した父は、病みやつれしていないので、まん丸な顔が可愛らしい。
自宅で亡くなると家族が清浄するのですが、病院では看護師さんたちがやってくれます。身体を拭き、耳に綿を詰め、5日間の入院で伸びた鬚をそり、病院のお仕着せから浴衣に着換えさせてもらいました。合掌した両手は離れないように紐でしばってあります。

顔は冷たくなってきたけど、手や脚はまだ温かくて、亡くなったのが信じられず涙があとからあとから湧いてきて止まりません。

しかし、本当に大変なのはこの後でした。あっという間に亡くなったので、葬儀も何も、そもそも何から手をつけていいのかわかりません。看護師さんに相談し、葬儀社を紹介してもらいました。 

自宅に戻り、祭壇をしつらえ、北枕で安置してもらったあと、葬儀社の担当者がわが家を訪ねてきました。
通夜と告別式、お寺の手配、料理、茶菓、車の手配と悲しみに浸っている暇もなくどんどん事務的に進められていきます。この話し合いが済まないと、遺体を納める棺も決まりません。父は生前、自分の葬式はしてくれるなと常々言っていましたので、お棺も(どうせ燃えちゃうもんだし)白木でいいかという話になりました。しかし、最終的に弟がちょっと見栄えのいい布張りに決めました。 
 
親戚は、従弟(父にとっては甥)が藤沢にいるほかはほとんど九州。父の妹に至ってはロサンゼルスです。通夜も告別式も、家族とご近所だけでひっそり行うことにし、九州の親戚には全てが終わってから知らせることにしました。

通夜は12日。私は会社から直行したので、通夜に間に合うようにとんぼ返りするつもりでいったん東京に戻りました。

入院5日目にして

2006年01月15日 | 家族
【1月11日】

午前4時20分、看護師さんが2人、あわただしい様子で病室に入ってきて父の名を呼んでいます。私は急いで母を呼びに行きました。
ナースセンターにある心電図モニターに異常が見られたようなのです。痰を吸引すると相変わらず苦しそうではありますが息が戻りました。しかしもう抵抗の声を上げることもなくただ涙を流すのみで徐々に弱ってきているのは確かなようです。

その後も様子を見ていると、明らかに息が止まる瞬間がありナースコールボタンを押し「息が止まっているようなんですけど」と言うと、看護師さんがやってきて「心臓はちゃんと動いていますよ」と言います。

午前4時45分、呼吸が弱くなったので、弟たちに電話して来てもらう事にしました。義妹が「すぐ行きます」と言って電話を切ったすぐあと、父の呼吸がまた止まりました。

私が(これから弟が来るから)「もう少し頑張って!」と父に声をかけると思い出したように息をします。しかし、再び父の息は止まりました。

思いっきり寝癖を付けた当直の医師が来て「午前4時55分、死亡を確認いたしました」と告げたとき、弟たちはまだ到着していませんでした。間に合わせたかったな。もう少し早く電話すればよかったな。

わずかの差で弟たちが到着したときには、酸素マスクも点滴も外されベッドの周りは妙にこざっぱりしていました。

私は「間に合わなかった」とはとても言えず「息、止まっちゃった」とだけ言いました。

1月6日に入院して11日死去。5日間であっけなく逝ってしまいました。

簡易ベッド

2006年01月15日 | 家族
【1月10日】

弟が予約の患者さんすべてにキャンセルを入れ、病院に到着したのは夕方。その時は父の容態は少し安定していました。
案外このまま持ちこたえるかも・・・と思ったぐらいです。

最初に父を見舞った時、ベッドのそばにテレビが引き寄せられていました。きっと「今はこんなにツライけど、一眠りしたらもう少しラクになるだろう。そしたらテレビでも見て退屈を紛らわそう」と思っていたのでしょう。まさかそのまま昏睡に陥ってしまうとは母も私も弟たちも誰一人思わなかったはずです。

弟も父が病室を変わったことを知らずにいたので、6人部屋の方へ行ったようでした。私が呼ぶと「違う人が寝てるから、あら~っ、死んじゃったかと思ったよ」とちょっと苦笑いしていました。こんなふうに書くと不謹慎に聞こえるかもしれませんが、深刻さの中にも時々笑いが入るのが家族というもんです。

看護師さんが来て「今夜はお帰りになりますか?もしお帰りになっちゃうと、今度お呼びするのは心臓が止まった時ってことになっちゃいますけど」と仰いました。私と母は最初から病室に泊り込むつもりだったのでその旨を告げると、簡易ベッドと毛布を運んできてくれました。

弟たちは甥と姪を連れてきているので、一旦実家の方へ戻り様子をみることに。
ここのところ、早朝に悪くなっているようなので、ちょっと心配でしたが、狭い病室に6人いても仕方がありません。

父は痰がたまる時間がだんだん短くなっているようで、吸引すると最初のうちは「おー、おー」と抵抗の声をあげ涙を流していました。看護師さんは「うんうん、苦しいねー、ごめんねー」と言いながら痰を取り除く作業をしてくれました。

母と私は交代で簡易ベッドで仮眠をとっていましたが、ふと気付くと母は別の場所にある長椅子で寝ていました。私が「ベッド代わるよ」と言うと、母は寝ぼけた様子で何か言った後また眠ってしまいました。

火曜の朝

2006年01月15日 | 家族

【1月10日】火曜日は6時から早出勤務。

午前9時45分、母から会社に電話が入りました。今朝早く父の容態が悪化し、病院から呼び出されたと言うのです。

同僚とデスクに断り早退することにしました。まっすぐ東京駅に向かい、八重洲口からまた高速バスで実家に向かいます。

母は「息が止まった」と言っていました。間に合わないのかな。

東関東自動車道を降りた最初の停留所は「大栄(たいえい)」というところです。その次が私の降りる停留所「高速赤坂台」なのですが、今回は病院まで行かなくてはいけないので駅前まで乗ってそこからタクシーで向かいました。

タクシーの運転手さんはかなり年配の人で、乗るとすぐ「あの赤ちゃん、100グラム体重が増えていたんだってね」と、仙台市の新生児誘拐事件の話題をふって来ました。こっちはそれどころじゃないんだけどなぁ(苦笑)。

前日、父がいた病室の同じ場所には別人が寝ていました。容態が悪化したので、向かいの個室に移されていたんです。母が私の声を聞きつけて「こっちこっち」と呼びます。

息はしてました。  (父の耳)

しかし、前日は寝返りをし、呼びかけには答えていたのに、その日はもう苦しそうな息をするだけでした。

寝返りをうたなくなった時点から、看護師さんが何時間かに1度、身体の向きを変えてくれます。床ずれ防止はこんな早い時期から始まるんですね。そのときも必ず「○○さ~ん、今度はこっち向きましょうね~」と声をかけています。

尿道に管を通され、オシッコの状態が目で見えるようになっていましたが、点滴は間断なく行われているのに、オシッコは朝からほとんど出ていません。そのせいで、顔も手も脚もパンパンに張っています。

弟たちはまだ到着しません。


昏睡の父

2006年01月09日 | 家族
午前中に病院へ行くことにしましたが、バスを乗り継いで1時間余。両親や弟が私に実家に戻り、車の免許を取り、家族の足になって欲しいという気持ちがよくわかります。とにかく不便。

父は4人部屋の奥に布団をまくってお尻丸出しで寝ていました。
「来たわよ~」と母が声をかけると、「う~ん、来たの?」と返事をします。私が父の手を取ると「手、冷たいネ」と子供のような言い方で答えます。お尻が出ていたので「寒くないの?」と聞くと、また子供のように「寒いの」と答えるので、なんとなく可笑しくて笑ってしまいました。

でも、目は閉じたまま。時々、瞼をグーッと上げて目を開けようとするのですが、どうしても開かない様子。

息が苦しそうで、ずっと酸素マスクをつけています。しかし寝返りをうつので、私が行ったときは両耳から外れていて、それで苦しかったのか、右手をマスクに当てたような姿勢で寝ていました。

父は若い頃結核を患い、今、肺気腫に肺炎を併発していると聞いていたのですが、長い間、低酸素状態が続いていたので、本人はそれほど苦しさを感じていないと先生は仰っていました。

父はあと4日で82歳の誕生日を迎えます。意識の戻らないまま、病院のベッドの上で迎える今年の誕生日がもう最後かもしれない。
それとも、少し回復してあと少し生きながらえるかもしれない。どちらにしてももう一度目を開けて欲しい、と思うのは長年断絶した父との関係を修復する最後のチャンスが欲しいからかもしれません。

東京へ向かう高速バスの中で、じんわり出てくる涙を止めるのはなかなか苦労でした。

実家へ帰る

2006年01月09日 | オフ
土曜日の仕事を終えて帰宅すると、母から留守電が入っていました。

どうも父の具合が良くないらしい。弟の家族がお正月を実家で過ごして帰ったあと、急に悪くなってタクシーで病院へ行き、そのまま入院したとか。孫が来ているからと無理をしたのが良くなかったのかも。

母は少し涙声で、私も深刻さを感じたので、8日(日曜日)の早出のあと実家へ帰ってみることにしました。

JRを利用するより、東京駅八重洲口から高速バスを利用するほうが早いのですが、仕事のあと一番早い出発は15時10分。2時間ほど余裕はあるけど、ほぼ実家の前で降りられるのでこれが最も便利。

会社を出る前に電話したときは、弟夫婦と姪も来ているとのことでしたが、私が着く頃には帰ったあとでした。高2の甥を置いてきているので、早い時間に帰ったようです。

実家に到着したのは16時20分。病院に様子を見に行くのは翌日にして、その日は夕ご飯を食べ、お風呂に入り、母に付き合って『功名が辻』を見、9時には就寝しました。

しかし、実家は広いせいかどうも寒い。1時過ぎと4時過ぎに目が覚めたのは寒さのせいだろうなぁ。