ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

ハリケーン後

2017-09-20 | アメリカ事情

ハリケーンアーマ(ここ)で、ワシントンD.C.まで避難していた三男一家。その後ハリケーンの勢力が弱まり、フロリダを抜けた時点で帰宅の途に着いた。思いがけない臨時休暇で、D.C.見学ができ、約一週間のD.C.避難生活を無事に過ごせた。

帰路自宅周辺の電力復興が進んでいないと連絡を受け、オーランドまで着いた一家は、しかたなくディズ二ーワールドのホテルに宿を求めた。チェックインする際、まだ自宅が停電していると、世間話をクラークとすると、ホテル側は被災者の皆さんには、精一杯支援致します、と大幅ディスカウントの上、二晩目は只で結構と取り計らってくれたそうである。どうもありがとうございます、と遠くに住む私とて、感謝の念に耐えなかった。Pay It Forward,と息子に思わず言った。

念願のスミソニアン博物館北ロタンダのアフリカ象も見て。

人身に被害が及んだのではない息子一家だが、命を落としたり、怪我をしたり、住む家を失ったり、あるいは洪水による大被害を受けた方々が現実にいらっしゃるのを決して忘れたわけではない。私たちの属する教会はHelping Handsと書かれた黄色いベストを着用して、ついこの週末には述べ一万人の教会員がテキサスとフロリダのアーマによる被害地で片付け、掃除、などできる限りのお手伝いをした。

一万人もいれば、なかにはプロフェッショナルの清掃業の人もいて、おおいに役立ったことだろう。そうでなくとも、それぞれの持てる才能や技術で、希望を失った人々の手を取り、片付けを早急にし、清潔な環境を整え、衣服を都合し、そして暖かい食事を提供することができた。

帰宅した息子夫婦も早々に冷蔵庫の食品を処理したが、ハリケーンプルーフの窓のおかげで雨水被害もなかったので、早速Helping Handsのベストを着て外へ出て、できる限りのお手伝いをしてきたと言う。

東北大地震後、多くの方々がヴォランティアで復興をお手伝いなさる様子をニュースで見た。特に中学生、高校生、大学生のひたむきな奉仕活動に私はどれだけ勇気付けられたことだろうか。たとえ未曾有の大災害であっても、日本の未来は明るいと強く思ったことだ。

以前高校生の時、人間の唯一の神性は、創造であるという論文を読んだことがある。奉仕したいという志や気持ちや行いも、神性のひとつではないだろうか。悲劇を希望に換える力が、実は私たちひとりひとりにあると思う。

 

生後一月少しの孫娘やもうすぐ二歳の孫息子が訪ねたディズ二ーワールドは、閑散として日本人客が多かったそう。

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フィンランドのおばあちゃんに教わった

2017-09-19 | 家族

次男が夏休みにハワイの大学から帰宅した時、ちいさなワニの編みぐるみを持ってきた。とても可愛くて、どこから来たのか聞いたら、彼女が作ってくれた、と言った。今時こういう編みぐるみを作れる女の子がいるのか、と驚いた。写真を見ると、可愛らしいお嬢さん。次男に早く結婚申し込んだら?と言うと、長男と共にヨーロッパをバックパックで回る旅に出て、スエーデンの彼女の家族の前で、プロポーズをする予定と答えた。その話は、次男のことに書いたが、プロポーズは成功し、即時に喜ばしい声で電話をして報せてくれた。

彼女は、1/4スエーデン人、  1/4ドイツ人、 1/2フィンランド人でスエーデンに生まれた。幼い時からフィンランドの祖母が大好きで、洋裁も毛糸編み、レース編みはすべてこのおばあちゃんから習ったのだと言う。何回失敗してもおばあちゃんはいつもやさしく正してくれて、本当に大好きだったのだそう。

ただただ長くまっすぐに編めばいいマフラースカーフしか編めない私は、生涯で一度だけ、大奮闘して幼い長女に白い手編みのセーターを作ったことがある。ファンシーではないが、一応セーターに見えたから、よしとした。姉のひとりはレース編みに長けているが、私にはその才能はない。だからTattingタッチングレースを始めたわけである。あれは、鈎針を時々使うだけで、シャトルと指で編むから簡単である。鈎針編みは絶望的にできない。何度も母や姉から教わったし、友人にも教えてもらった。でも、すぐ忘れるし、ひどい結果になるだけである。情けない。

ところが次男の妻は、それはそれはすいすいと実にたやすく、編んでいくのだ。父親に編んでいるという北欧風の編みこみ模様のセーターも、あっという間に作ってしまうし、日本から訪問中だった姉にも、猫が好きだと知るや否や、短時間のうちに、小さな猫の編みぐるみを作ってくれた。彼女の手先は日本人女性のように小さくて、非常に器用である。そんな彼女の作品をご紹介したい。

 赤狐のスカーフ

 

まるまるころころの子羊の編みぐるみ

 

赤ちゃんへのウサギ編みぐるみ

 

果物とドーナッツの編みぐるみの土台になっているとも知らずお昼寝の人は弟のひとり。

 

と言うわけで、彼女は、madebynatsku (アニメとは違う)として、こういう編み物作品をEtsyで時々気が向くと売っている。こういう才能のある人が本当に羨ましい。

 

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ライナスのブランケット

2017-09-18 | アメリカ事情

https://i.pinimg.com/originals/bb/e1/73/bbe1738a6187d68058f02ffeb6160113.gif 

 

 

 

ナイロン・トリコットという布、最近はあまり需要のないスリップ、ハーフスリップなどのランジェリーやネグリジェなどによく使われる生地である。触るとすべすべで、ひんやりしている。この生地を二枚重ねて間に薄く綿をいれて作るキルトの制作を学生だった1970年代に、よく手伝った。下の写真はベイビーブランケットだが、私が手伝ったのは、結婚祝いのためのだったから、これよりもかなり大きい、キングサイズやクイーンサイズのブランケットだった。キルティングは、まさにその時期習った。一人だと、気の遠くなるような作業だが、多くの婦人方とフレームにはりつけた生地を囲んで、わいわいと世間話しながら手を動かすのは、楽しかった。出来上がりがいつも綺麗で、シンプルなのに豪華なキルトが嬉しかった。


https://i.pinimg.com/736x/f8/99/77/f899773b3644f7caad0bc9c9c87779b7--tricot-baby-hand-quilting.jpg

 

 

下のキリンのキルトブランケットはベイビー用。あんなに流行っていたナイロントリコットのキルトだったが、最近は滅多にお目にかからない。Etzyで、少数の人が売っている。恐らく子供用品に不可欠な難燃・防炎加工が施せないからかもしれない。しかしながら、難燃性・防炎加工のされていない生地で作られる子供衣類や寝具は、ナイロン以外にかなりあるのも事実である。要するに、常識を持って使用すれば、安全に使えるということだろう。

https://img1.etsystatic.com/173/0/14479741/il_340x270.1179386705_fijh.jpg

 

私の子供達の幾人かはこの生地が大好きで、使い古しの私のパジャマを引きずり回していたものである。パジャマ形態のままでは如何にも体裁が良くないので、解体して糸をすべて抜き、子供達に渡した。末娘は、内緒だが、今でも隠し持っている(!)。もう原型をとどめない只の小さな布きれなのに、夜眠る寸前までそれを手に握っていたものである。


この小さい人は、この布きれなしには眠れない。 

 

 

 

孫息子達も負けていないかのように、この生地が好きで、まだ新生児だった頃、泣くとこの布にくるんであやすとすぐ寝付いた。上の孫には、午年生まれなので木馬をキルトしたこの生地のブランケットを上げたが、それは冬用になった。春夏用は一ヤード四方に切って、周りをかがっただけの物を愛用している。夏の厳しいここでは、そのほうが気に入られている。


下の写真の孫も、然り。この子は全くライナスそのもので、指しゃぶりのお供がこれである。ちなみにこの子の父親は三男だが、この三男は、幼稚園に入る寸前までおしゃぶりをしていたので、歯科医や小児科医に相談したら、両医師は、無理にやめさせないで、自然にやめるのを待つほうがいい。精神科にかかるよりも、歯科矯正のほうが安い、と言った。結果親指にタコができるほどおしゃぶりしていたが、ある日、小さな切り傷を作った。「これは重症で、お口にいれたら、外因性キャンデイ拒絶症になりますが?」と私はうそぶいたら、パタリとやめた。 

 

 

フロリダのこの小さい人もこの布がないと。

 

去年の暮れに生まれた孫娘一人と今年生まれた孫娘の二人にも、もうすぐ淡いピンクの同じ生地で作る予定である。こんなことも、家族の歴史の一つなのかも。

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マーロン・ブランド

2017-09-17 | アメリカ事情

http://img.moviepostershop.com/the-teahouse-of-the-august-moon-movie-poster-1956-1010679785.jpg

 

この映画をご存知だろうか?Vern J. Sneiderの小説が1953年に舞台化され、1956年には、ダニエル・マンによって映画化されたアメリカ映画である。和訳は、八月十五夜の茶屋。出演したのは、マーロン・ブランド、グレン・フォード、エディ・アルバート、そして京マチ子。舞台は戦後のアメリカ軍統治下の沖縄・トビキ村(架空)で、復興と民主主義定着のために努力するアメリカ軍人達、通訳のサキニ(すっかり日本人になっているマーロン・ブランド)、そして村人の繰り広げる喜劇である。多少ドタバタではあるが、夫と私の好きな映画の一つ。


 

 

昔TVでヒットした「じゃじゃ馬億万長者」(The Beverly Hillbillies)のような盛り付け方

 

あらすじは、単純だが、人情味もあって、素直に観られるお楽しみ映画である。通訳サキニ(映画では、ズキニーとしばしば聞こえる。)を演ずるマーロン・ブランドが、愉快で、面白く、芸達者である。下のポートレイトのように、ハンサムな方だったが、まさか彼が日本人を演ずる映画とは最初は知らなかった。


http://knownpeople.net/wp-content/uploads/m/marlon-brando-image.jpg

あのマーロン・ブランド

 

下がサキニ役のマーロン・ブランド。シリアスアクターの彼が、こういう演技もするのかと面白い。彼の座り方や、仕草に、日本人をよく研究して演じているのがわかる。問題児ではあったが、さすがにアカデミー賞やその他の重要な賞を獲得したマーロンである。「欲望という名の電車」で「ステラー!」と叫び続けるスタンリー役もよかったが、サキニ役も捨てたものじゃない。



ハリウッドメイクアップの凄さ。メイクアップ後のマーロン・ブランド。


 

マーロン・ブランドは1960年代早くから、公民権運動や人種差別反対運動などに積極的に参加して、人種差別撤廃を求めるワシントンD.C.での大行進(The Great March on Washington)にも参加した経歴がある。非白人種に対する差別を常に不当と見て活動してきたし、アメリカ原住民に対する差別にも敏感であった。最初の妻がインド系であったし、愛人・恋人は大概が白人ではなかった彼が、そうした活動に積極的だったのは、理解できる。だから、この喜劇の日本人役を演じ切れたのかもしれない。


彼は、アカデミー賞受賞を拒否し、政治問題(アメリカ原住民・その他の少数民族に対する差別)をアカデミー受賞式の壇上に持ち出した最初の俳優かもしれない。そんな気骨のあるハンサムな俳優も、晩年二人の子供の自殺・病死を経て、80歳で病死した。私の世代には少しオジサン過ぎていた俳優で、特に人気はなかったが、12歳離れている上の姉の(若い)時代には、それなりに人気があったのだろう。でも、この八月十五夜の茶屋を最初に封切されてから、60年近く経って観た夫と私には、マーロン・ブランドの演技力と人物そのものが新鮮であった。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/8/83/Teahouse_movieposter.jpg

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セレンディピティ その2

2017-09-16 | 系図のこと

系図に於けるセレンディピティについて書かれているハンク・Z・ジョーンズの著書 

 

夫の父方の家族には、家族に伝わる伝説のようなものがあって、それはアメリカ原住民が混じっている、というものであった。夫の五代前の祖父母が東部からテネシー南部の土地を求めて住み始め、農場を開拓していた1800年代初頭である。元々そこはチェロキー族のテリトリーで、一家は何度も何度も焼き討ちにあった。

一家には多くの息子と娘がいて、チェロキーのリーダーがある日やってきて、焼き討ちをされたくなかったら、息子の一人と彼の娘が結婚することだ、と言った。たび重なる焼き討ちで疲弊していた先祖は、家族で話し合い、長男が、チェロキーの娘と結婚することになった。それ以降一家の農場と家屋は焼かれることがなかった。

ところが、災いは、チェロキーの娘と結婚した長男にあった。Trail of Tears(=涙の道;ここを参照)を妻と彼女の人々と共に行かされたのである。陸路を取らされたのか水路だったのか、不明だが、アンドリュー・ジャクソン大統領によって執行されたインディアン強制移住によって、後にオクラホマ州となる地へ移らされたのである。陸路なら徒歩で、最小最低限の私物を持って、1万5千人ものチェロキーは移らされた。

その旅が如何に過酷であったかは、4,000人のチェロキーが道中亡くなったことを見ても明らかである。チェロキーには、軍隊の使い古した汚れた毛布が与えられたが、それらは、洗濯も消毒もされていなかったから、主に赤痢に罹患して、人々は亡くなったのだ。住み慣れたジョージアやテネシーから、なにもないオクラホマへ移らされた背景には、ジョージア州での金鉱発見も一因であるが、土地をいくらか所有していた一部のチェロキーは移住せずにすんだ。だが、その数は1,000人ほどである。

その5代目祖父母と二人の間にいた子供達について調査したところ、次男だった4代目祖父(夫の直系)や他の兄弟には白人との結婚証書があり、国勢調査にも名前を残してきたが、只一人行方が不明なのは、長男だった。その長男についてどうやって調べようかと考えながら、家族の歴史センターへ行った晩、ディレクターが、今晩はパトロンも少ないから、本棚の掃除をしよう、と提案した。壁一面の戸棚には書籍があり、きちんと分類はされているが、誰かが使うと元に戻ってないことも多い。

私は壁に向かって左からチェックすることにした。戸棚の戸を開け、最初に目に付いた棚に倒れ掛かっている二冊の大きめな書籍を取り上げた。ふと表紙を見ると、それはDawes  Rollsの1896年版と1906年版ではないか!Dawes Rollsというのは、文明化五部族についての、居留地関係の記録書である。アメリカ原住民の居留地記録は、Dawes Rolls の他に、Guilon Miller Rollというのがあり、どちらもチェロキー族の記録である。センターにあるのは、Dawes Rollsだけだったが、今まで蔵書のうちにあったとは、気づかなかった。

まず整理整頓してから、そのDawes Rolls二冊を机の上に置いて読み始めた。私が仮定していたチェロキーの娘と結婚した先祖の長男は、もちろん夫と同じ姓だから、そのイニシャルのページへ行くと、63,773番目に使われていて、たった5022人しかその姓を名乗っているだけなのに、載っている! 1896年版にしても1906年版にしてもその姓を持つ人は、5代目祖父母の長男(仮定)の3、4代後の子孫であろう。故に夫の直系ではないが、家族の伝説は必ずしも伝説ではない、と実感したものだ。後のDNAテストで夫は100%ヨーロピアンと出たので、この長男の妻が、”アメリカ原住民”の先祖にあたるのであろう。

この時チェロキー族と共にオクラホマに強制移住させられた先祖の一人について調査の方向性がついた。あとはオクラホマ州のその町・村の国勢調査を調べると分かると見当をつけた。これもセレンディピティである。こうした例はたくさん起こる。ここに載せた写真の本はそうしたことを書いている。著者たちは、それぞれ系図調査に長い年月を費やしてきたベテランのプロである。下の本は、そのプロたちが集めた系図調査にあったセレンディピティを載せたものである。秋の夜長、おひとつどうでしょう? 

 

 

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